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ユン・ピョウ(元 彪、Yuen Biao、1957年7月26日- )は、香港のアクション俳優。本名、夏令震。
ユン・ピョウ 元 彪 Yuen Biao | |||||
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本名 | 夏令震 | ||||
別名義 |
Bill Yuen Jimmy Yuen Jim Yuen 彪哥 彪叔 阿彪 | ||||
生年月日 | 1957年7月26日(67歳) | ||||
出生地 | イギリス領香港 | ||||
国籍 | カナダ | ||||
民族 | 漢族 | ||||
身長 | 168 cm | ||||
職業 | 俳優・殺陣師・監督・製作 | ||||
ジャンル | 香港映画 | ||||
活動期間 | 1966年 - | ||||
配偶者 | 彭秀霞(ディディ・パン) | ||||
公式サイト | 元彪 騰訊微博 | ||||
主な作品 | |||||
『モンキーフィスト猿拳』 『チャンピオン鷹』 『蜀山奇傅 天空の剣』 『プロジェクトA』 『スパルタンX』 『検事Mr.ハー/俺が法律だ』 『サイクロンZ』 『孔雀王』 『タイム・ソルジャーズ〜愛は時空(とき)を超えて〜』 『オン・ザ・ラン/非情の罠』 『無問題2』 『詠春』 『プロジェクトBB』 『通天幹探』 『十二金錢鏢』 | |||||
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両親は中国江蘇省南京の出身で、第二次世界大戦前に香港へ移住。香港・九龍の青山道の家に生まれる。兄1、姉3、本人、妹3人の8人兄弟の5番目。血液型O型。
京劇好きの父が毎日のようにユン・ピョウをサモ・ハン・キンポーやジャッキー・チェンが出演している舞台に連れて行っていたため、すっかり京劇が気に入っていた。そのため父の勧めで5歳で香港・九龍の尖沙咀(チムサーチョイ)にあった中国戯劇学院に入学。学内でも特に優秀な子供を集めた「七小福」(zh)の最年少メンバーに選ばれ「元彪」の芸名を貰う。同じく七小福のメンバーであったサモ・ハン・キンポーやジャッキー・チェン、ユン・ワー、ユン・チウ、ユン・ケイらとともに10年間に渡り于占元から北方の京劇を学んだ。
ハンサムだったため学院内の女子生徒や一般の女の子から非常に人気があった、とサモ・ハン・キンポーが述懐している。
その後映画の道に進み、14歳からエキストラやスタントマンで現場に行くが、他の兄弟子達に比べて小柄だったために「子どもは向こうへ行きなさい」と監督らに言われる。そのため手近にあった炭のようなものを顎の周辺に塗って、遠くからなら髭が生えているように見せかけて仕事をもらった[1]。
ブルース・リーの映画には七小福の兄弟子たちと端役ながら『ドラゴン怒りの鉄拳』、『ドラゴンへの道』、『燃えよドラゴン』に出演。後に武術指導などをつとめ、ブルース・リーが撮影期間中に急逝し未完となっていた『死亡遊戯』では監督を引き継いだサモ・ハン・キンポーにユン・ワーと共に起用され、ブルース・リーの足技や、体格が似ていたため彼のオートバイ・アクションのスタントをつとめた。
中国戯劇学院出身者が多い元家班やサモ・ハン・キンポーのスタント・武術指導チームの洪家班でも活躍。ジャッキー・チェンの吹き替えスタントをはじめ、アクションのできない男優や、小柄な身体を生かして女優の吹き替えスタントも多数つとめているため、海外では『ダブリング・キング』の愛称がある[2]。
映画の世界は厳しく、本人は三流の俳優になるよりも堅実そうに思えた武術指導で一流になることを目指し、裏方に進んだその後にチャンスがあれば監督になるつもりだったが、「お前は顔がいいから武術指導より役者に向いている」というサモ・ハン・キンポーの勧めで『モンキー・フィスト 猿拳』に主演で本格デビューを果たし、『ユン・ピョウINドラ息子カンフー』、そしてジャッキー・チェンとサモ・ハン・キンポーとのトリプル主演作である『プロジェクトA』や『スパルタンX』で一躍スターとなる。
身軽で素早いアクション[3] と華麗な足技で有名。その足技はブルース・リーに似ていたため『死亡遊戯』でスタントを務めることになった。左脚の後ろ回し蹴りが得意技。13歳の時には小さなテーブルを3段重ねた上で連続バク転を30回した[1]。1987年の香港の亜洲電視 (ATV) のミス・アジアコンテストの舞台の『イースタン・コンドル ショー(Eastern Condors Show)』内では連続12回を披露。2012年2月22日放送の安徽衛視のトーク番組「非常静距离」では、司会者に請われて54歳でバク転を披露した。
1986年 自分の映画会社、泰禾(タイホーフィルム)で『検事Mr.ハー/俺が法律だ』を製作した。ゴールデン・ハーベストが独立を考え始めたユン・ピョウを引き止めるために出資した会社[4]。その後ゴールデン・ハーベストを離れると共に解散。
1991年『バカヤロー!4 YOU! お前のことだよ第三話「サギるなジャパン」』、1993年『第1回欽ちゃんのシネマジャック「ダライラマの母」』と邦画にも出演し、1988年の『孔雀王』では、三上博史、安田成美、緒形拳と共演、1990年の『孔雀王アシュラ伝説』では、阿部寛、勝新太郎と共演、1992年『落陽』で加藤雅也、田村高廣らと共演、2002年の『無問題2』でナインティナインの岡村隆史とも共演している。
2000年前後からは映画出演に加え全40話ほどのテレビドラマへの出演が多くなり、2007年には香港TVBの開局40周年記念連続ドラマ『通天幹探 The Ultimate Crime Fighter』(公式サイト)を刑事役で主演、2014年7月22日から放送された中国初の3D連続テレビドラマ『十二金錢鏢 12MONEY DARTS』(公式サイト)でも主演をつとめ、その他バラエティー番組への出演、企業イメージキャラクターとしての仕事も多数あり、香港・台湾・中国など中華圏で広く現在も俳優として活躍している。
ゴールデン・ハーベストを退社後の90年代半ば頃からは、出演作が現代アクションから当時流行していたカンフー時代劇へ移行し、特にテレビドラマでは出演した10シリーズのうち『少林七傑』、『リアル・カンフー 佛山詠春伝』★公式サイト、『詠春』をはじめ9本までがカンフー作品となり、映画では2010年『イップ・マン 誕生』で詠春拳で有名なイップ・マン(葉問)の師匠役、2011年『マイ・キングダム』では武芸に長けた京劇の師匠役、2012年『TAICHI/太極 ヒーロー』では後に楊式太極拳の始祖となる楊露禅と御前で最終対戦する役になったため、名前の前に付けられる呼称が「カンフー(功夫)」や「武術(武术)」、または「武打」を冠した物が多くなってきた。 そのため、國際武打巨星元彪(国際カンフーアクション ビッグスター ユン・ピョウ)[5]、 功夫巨星元彪(カンフービッグスター ユン・ピョウ)、超级巨星元彪[6]、 一代武术巨星[7]、 一代功夫巨星[8]、 武打巨星、一代武打明星、一代香港動作巨星元彪[9] などと呼ばれるようになった。
1984年7月14日に『五福星』のキャンペーンの一環で、東京・日本武道館にてサモ・ハン・キンポーやジャッキー・チェンと3人でコンサートを開いて満席にした事や、近藤真彦とのカーレースへの参加、『落陽』のキャンペーンで来日時に当時の首相・竹下登に面会した事、ユニセフの募金活動で香港代表として出席し、ペレや当時ソ連のゴルバチョフ大統領に会って握手した事、そして日本でジャッキー・チェンと人気を二分していた事などは、中華圏では非常によく知られている。
武道館のコンサートで谷村新司の昴を歌ったのを聞いた映画関係者がユン・ピョウのレコードデビューを計画。『チャンピオン鷹』の主題歌を歌う事になり、1985年2月6日大阪・毎日ホール、徹夜組が出た2月11日東京・後楽園ホールにて『チャンピオン鷹公開記念 ユン・ピョウ オンステージ』でお披露目。その際に同行し、ステージでアクションの相手をつとめたのがユン・ワー、ユン・モウ、チン・カーロウ。
1987年3月14日に東京・国立競技場でチャリティー・イベントのサッカーの試合『ザ・ドリームカップ』に参加。ユン・ピョウが選手宣誓。香港チームはマイケル・ホイ、ラウ・カーウィン、アラン・タム、エリック・ツァン、ナタリス・チャン(ナット・チャン)、ケニー・ホー、サイモン・ヤム、ジャッキー・チェン、ユン・ピョウ、チャン・コッキョン、ビリー・ロウ、アンディ・ラウなど。応援にアニタ・ムイ。日本チームは明石家さんま、とんねるず木梨憲武、島崎俊郎、植草克秀、望月三起也、釜本邦茂、カルロス・ニコトラ、杉山隆一、千野圭一など。2−3で日本チームの勝ち。 前日13日のレセプション・パーティーには政府閣僚や著名人が多数来場。当時の文部大臣・塩川正十郎を始めとし、川内康範、大島渚、小山明子などが出席。
1988年3月26日第2回'88『ザ・ドリームカップ』。冷雨の中9時頃からファンがつめかけ、12時半キックオフ。香港チームはチャーリー・チャン、マイケル・ホイ、アラン・タム、エリック・ツァン、ナタリス・チャン(ナット・チャン)、ジャッキー・チェン、ユン・ピョウなど。日本チームはたけし軍団のビートたけし(北野武)、そのまんま東(現:東国原英夫)、松尾伴内、ラッシャー板前、井手らっきょ、とんねるず木梨憲武など。1−2で日本チームの勝ち。
1989年3月11日沖縄コンベンションセンター劇場にてPAX MUSICA'89 IN OKINAWAに参加。出演者は谷村新司、チョー・ヨンピル、ワン・ジェ、喜屋武マリーなど。
1989年仙台でフジテレビ主催のチャリティーの国際カーレースに参加。イー・トンシン、チョウ・ユンファ、アラン・タム、シン・フィオン、アンディ・ラウ、チン・シウホウ、チン・カーロウ、応援にマギー・チャン、チョウ・ユンファの妻の陳薈蓮、チン・シウホウの妻の郭秀雲、ロレッタ・リー、ユン・ピョウの妻の彭秀霞、アニタ・ムイなど [10][11][12]。
1998年6月6日大阪・泉佐野市の泉の森ホールにて大阪国際シネマドリーム'98 いずみさの映画祭で、出演作品『暗黒街 若き英雄伝説』のゲスト。同時ゲストは『夢翔る人/色情男女』に出演のスー・チー。舞台から客席へ向けて2人がサインボールを投げてプレゼント。
2002年2月9日『無問題2』の舞台挨拶で監督のチン・カーロウ、共演者サム・リーと共に来日。9:30渋谷東急、11:00新宿シネマミラノで舞台挨拶を行った。
サモ・ハン・キンポーとは現在に至るまで映画では2001年『拳神 KENSHIN』、2010年『イップ・マン 誕生』で共演、2012年『TAICHI/太極 ヒーロー』ではアクション監督と出演者として組み、それ以外のインタビューなどでも一緒であったり[13]、プライベートでも共に香港競馬場に姿を現すが[14]、ジャッキー・チェンとは『サイクロンZ』以降、2000年の『シャンハイ・ヌーン』でカメオ出演、2006年に『プロジェクトBB』にて共演するにとどまっているが、仲が悪いという訳ではなく、2012年3月のサモ・ハン・キンポーの息子のティミー・ハンの結婚式にジャッキーと共に参列したり[15]、2014年のジャッキーのプライベートな誕生パーティーには参加している。 2005年に『カンフーハッスル』で香港電影金像奨にノミネートされた兄弟子のユン・ワーやユン・チウの演技についてアンソニー・ウォンが「演技が大げさすぎる」など批評した際に蘋果日報の記者にコメントを求められ、「話してる人は演技を知らないんじゃないかな、彼は演技を知ってるの?それぞれの人に自分のやり方があるんだよ」と答えたり[16]、2014年8月22日には18日に北京で大麻の大量所持と陽性反応が出たため警察に拘束されたジャッキー・チェンの息子ジェイシー・チャンの事件についてコメントを求められた時も、「はっきりしていない話なので僕はいまその事についてたくさん話すことはない」としながらも「これは子どもの一時的な過ちだから、皆さんには許してやって欲しいです」と、いつも兄弟子たちをかばう発言をしている[17]。また2016年5月22日にジャッキー・チェンの出演作「SKIP TRACE(絶地逃亡)」の発表イベントにはサプライズ出演を果たし、七小福時代のエピソードを互いに披露するなどの雑談を交わしていた[18]。
プライベートでは『燃えよデブゴン4 ピックポケット!』でアクション指導した時に出演していた彭秀霞と知り合い、初恋の彼女と結婚[19]。 1993年にカナダへ一家で移民しバンクーバーに居を構えるが[20]、ほとんど中華圏で仕事をし、主に香港に長く滞在している。カナダに帰ると家庭的になり、いつも妻と一緒にスーパーマーケットへ行っているという。 結婚以来スキャンダルが一度も無い[3]。その理由として、「24歳で結婚したのは誰かに自分の面倒をみていて欲しかったから。この世界は誘惑が多いけれど(中略)僕は早く家庭を持ちたかった。家に帰ったらそこに話し合える相手がいるような。ガールフレンドではこんな感覚は味わえない。奥さんはやっぱり奥さんだよな」「うちの奥さんを車に乗せてどこかご飯を食べに行くのでさえ面倒なのに、(女性と噂になるような)そんなことはしない」「香港で撮影する時でも、(カナダにいる)奥さんはずっと安心している。(中略)お互いを信用しているから」とインタビューに答え、サモ・ハン・キンポーやジャッキーの子ども達が芸能界入りしているのに対し、「(息子は)身長も180cmあって(中略)ハンサムだけど、(中略)芸能界に入ってもイケメンは次々と出現するからね」と続けており、娘も息子も芸能界には入れない方針のために2人とも一般の職業に就いている。 趣味はゴルフと競馬観戦。長らくトレードマークであった右頬のホクロは年々大きくなってゆき、2000年頃に「癌に変わってはいけない」というカナダのホームドクターの判断で、診せたその場で麻酔針を使ってえぐり取るように除去され[1]、現在は痕跡を残すのみである。
主に担当しているのは、以下の二人である。
このほかにも、目黒裕一、松本保典、三ツ矢雄二、堀秀行、山口健、菊池正美、小山力也、大塚芳忠、井上和彦、小杉十郎太なども声を当てている。なお、ユン・ピョウがスターダムに駆け上がるきっかけとなった作品である『プロジェクトA』の初回放映版(1987年1月4日『日曜洋画劇場』、各種配信でも使用)では野島昭生が務めていた。
★香港電影金像獎 第2回 ベストアクション指導受賞★
●香港電影金像獎 第3回 ベストアクション指導ノミネート
★香港電影金像獎 第3回 ベストアクション指導受賞★
●香港電影金像獎 第5回 ベストアクション指導ノミネート
●香港電影金像獎 第5回 ベストアクション指導ノミネート
●香港電影金像獎 第6回 ベストアクション指導ノミネート
●香港電影金像獎 第7回 ベストアクション指導ノミネート
●香港電影金像獎 第9回 ベストアクション指導ノミネート
武道館のコンサートで昴を歌ったのを聞いた映画関係者がユン・ピョウのレコードデビューを計画。『CHAMPION AT HEART』を『チャンピオン鷹』の日本版の主題歌として歌う事になった。この時の事についてユン・ピョウ自身は、「僕たちが映画の宣伝に行くと日本側が主題歌を歌うように要求してきたんだ。ゴールデン・ハーベストはこんな要求はできなかった。香港人が日本でレコードを出すのは僕が早い方で、その時はジャッキーと僕とテレサ・テンとジュディ・オングぐらいで、サミュエル・ホイも出してなかった。日本人はマルチタレントが好きで、歌えて踊れて演技ができるのがいいからだ」と2013年3月の香港電影資料館のインタビューに答えている[21]。
1987年の『YOU CAN BELIEVE』は『蜀山奇傅 天空の剣』の主題歌。 ファースト・アルバムの楽曲提供は作曲が芳野藤丸、陣内孝則、佐藤準。作詞がGregory Starr、高橋研、Linda Hennrick。スティービー・ワンダーの『I JUST CALLED TO SAY I LOVE YOU(心の愛)』もカバーし、全8曲でそのうち英語の曲が5曲、日本語のものが3曲。 セカンド・アルバムの楽曲提供は作曲が井上ヨシマサ、高橋研、天野音彦、甲斐正人、根岸孝旨。作詞がthe band it、高橋研、岩里祐穂、いとうせいこう、文井一、天野音彦。全9曲で英語の曲が『YOU CAN BELIEVE』の1曲のみで、あとは日本語の曲が7曲、広東語の曲が1曲と、ファーストアルバムに比べほとんどの曲が日本語の曲になった。
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