イディ・アミン
ウガンダの軍人、政治家、第3代ウガンダ大統領 ウィキペディアから
イディ・アミン・ダダ・ウミー(英語: Idi Amin Dada Oumee, 1925年[1] - 2003年8月16日)は、ウガンダの軍人、政治家。第3代大統領。元帥、法学博士[2]の肩書も持つ。身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンになったこともある。1975年にはアフリカ統一機構議長も務めた。
イディ・アミン Idi Amin | |
![]() | |
任期 | 1971年1月25日 – 1979年4月11日 |
---|---|
副大統領 | ムスタファ・アドリシ |
任期 | 1974年11月 – 1975年5月25日 1978年 – 1979年4月11日 |
大統領 | イディ・アミン(兼務) |
任期 | 1975年7月28日 – 1976年7月2日 |
事務総長 | ウィリアム・エテキ・ムブムア |
出生 | 1925年頃 ウガンダ保護領 コボコ或はカンパラ[1] |
死去 | 2003年8月16日(77-78歳没?) サウジアラビア ジッダ |
政党 | 無所属 |
受賞 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
配偶者 | マルヤム・アミン (1966年 - 1974年) ケイ・アミン (1966年 - 1974年) ノラ・アミン (1967年 - 1974年) メディナ・アミン (1972年 - ?年) サラ・アミン (1975年 - 2003年) |
子女 | 43人 |
宗教 | イスラム教 |
署名 | ![]() |
イディ・アミン Idi Amin | |
---|---|
所属組織 |
王立アフリカ小銃隊(1946 - 1962) ウガンダ陸軍(1962 - 1979) |
軍歴 | 1946 - 1979 |
最終階級 |
中尉(Lieutenant) 元帥(Field marshal) |
戦闘 |
マウマウ団の乱 1971年ウガンダクーデター 1972年ウガンダ侵攻 ウガンダ・タンザニア戦争 |
経歴
要約
視点
生い立ち
アミンは生涯を通じて自伝や公式の経歴を残さなかったため、出生地や出生日は不詳である。イギリスの植民地時代のウガンダで1925年頃にコボコかカンパラ生まれとする説が多数である。
マケレレ大学のフレッド・グウェデコによれば、アンドレアス・ニャビレ(1889年 – 1976年)の子で、ニャビレはウガンダ北西部の西ナイル地方に住むカクワ族出身で、1910年にカトリックからイスラム教へ改宗し、アミン・ダダに改姓した。イディは父に捨てられ、イディ・アウォ=オンゴ・アンゴー(Idi Awo-Ongo Angoo)の名で母方の家庭で育てられた。グウェデコによれば母はルグバラ族の伝統的なハーブ療法家のアッサ・アアテ(1904年 – 1970年)でブガンダ王室にも患者がいた。
軍歴
軍歴 | |
イギリス植民地軍 王立アフリカ小銃隊 | |
1946年 | 王立アフリカ小銃隊入隊 |
1947年 | 二等兵 (Private) |
1952年 | 伍長 (Corporal) |
1953年 | 軍曹 (Sergeant) |
1958年 | 曹長 (小隊長) |
1959年 | エフェンディ (准士官) |
1961年 | 最初のウガンダ人国王任命士官 中尉 |
ウガンダ軍 | |
1962年 | 大尉 |
1963年 | 少佐 |
1964 | 国軍副司令官 |
1965年 | 大佐 国軍司令官 |
1968年 | 少将 |
1971年 | 国家元首 国防評議会議長 国軍総司令官 陸軍参謀長 空軍参謀長 |
1975年 | 元帥 |
イディはボンボのイスラーム学校でコーランを暗唱、雑務を経て、1946年イギリス植民地軍の王立アフリカ小銃隊に炊事係として雇われた[3]。その体格を生かし部隊内の体育大会で活躍し、衆目を集める。
ボクシングではヘビー級チャンピオンになったほか、白人ばかりのウガンダのラグビーチーム唯一の黒人選手として活躍し、植民地軍中尉にまで昇進する。ウガンダ独立後はミルトン・オボテに協力しムテサ2世を排除、ウガンダ軍参謀総長となった。
大統領
権力掌握
ウガンダ軍参謀総長当時の1971年1月、イギリス連邦首脳会議のためオボテが外遊中に軍事クーデターで権力を掌握。1970年代のウガンダに軍事独裁政権を樹立した。オボテが左派的政策を採ったため、アミンは冷戦下において左派政権の排除を望む西側諸国から期待されてクーデターを実行し成功し、クーデターを支持したイギリスやアメリカをはじめとする西側諸国や、イスラエル、反共的なザイールのモブツ・セセ・セコと友好的な関係を持った[4]。
政策
やがて独裁化が進むとともに約10万[5]から50万人[6]と推計される国民を大量虐殺したとして「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称され、少数民族、宗教指導者、ジャーナリスト、芸術家、官僚、裁判官、弁護士、学生、知識人、外国人などアミンの政策に異議を唱えた様々な人物が次々に粛清された[7]。ほぼ同時期に大量虐殺を起こして同様に隣国に打倒されたカンボジアの独裁者ポル・ポトとも比較された[8]。
また、アジア人追放事件(ほとんどは植民地時代に入植したグジャラート州などの出身の印僑であり、これに伴いインドとは断交した[9])を起こし、アミンはアジア人やヨーロッパ人の所有する事業や土地を自分の支持者に与えるも、杜撰な経営により産業は崩壊した[10]。経済も荒廃し、平均賃金は9割も激減した[11]。
アミンは右腕のアイザック・マリヤムングなど、自身と同じカクワ族出身者をスーダン人、ヌビア人と共に重用した。1977年までに、これらの3つの民族グループは高級軍人の60%と閣僚の75%を構成し、人口の5%にすぎないイスラム教徒は、これらの80%と87.5%を構成した。これがアミンが8回ものクーデターを切り抜けた理由ともされる[12]。
アミン政権時代の8年のうち、ウガンダの自然環境や生態系は密輸業者と軍によって行われた、広範囲にわたる密猟と森林伐採にさらされた。ウガンダでは、ゾウの75%、サイの98%、ワニの80%、ライオンとヒョウの80%などが失われた[11]。
近隣および西側諸国との対立
このような暴政を西側諸国から批判されたため、当初の西側寄りの姿勢を急変させて1972年にはイギリスと断交してイスラエルの軍事顧問を追放し[13][9]、1973年にはアメリカ政府もアミンと距離を置くこととなった[14]。
アミンはアフリカにおける反欧米・反イスラエルの代表的存在であったリビアのカダフィ大佐に接近し[15][16][17][18]、パレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファート議長ともアミンの結婚式に立ち会うなど親しい仲であった[19]。1975年からはアフリカ統一機構議長を務めるものの、翌1976年に発生したエールフランス機ハイジャック事件における対応に失敗して国際的な批判を浴びただけでなく、イスラエル軍によるエンテベ空港奇襲作戦を招く結果となった。アミンは報復として、入院していた女性の人質(イスラエルとイギリスの二重国籍者)一人、さらに在ウガンダのケニア人殺害を命じたため、イスラエルとイギリスとの関係をさらに悪化させることとなった。

当時冷戦下で西側諸国と対峙していたソビエト連邦は、ウガンダ最大の武器供給国であったが[20]、そのソ連に対しても挑戦的な態度をとることもあり、アンゴラ内戦をめぐっては一時的に外交関係が断絶したこともあった[21]。
ザイールの第一次シャバ紛争では、「私は共産主義者ではなく、東にも西にも支配されていない」と述べてウガンダ軍の派兵や軍事物質の提供などアミンと親交のあったモブツへの支援の用意があることを表明し、ソ連や東ドイツといった東側諸国に支持されたコンゴ解放民族戦線と敵対した[22]。シュタージはウガンダの秘密警察の創設でアミンに協力した証拠のもみ消しを図った[23]。
1978年に、オボテを保護していた隣国タンザニアのジュリウス・ニエレレと対立[24]していたことから、タンザニアに侵攻するも失敗し、逆にタンザニア軍に首都のカンパラまで攻め込まれた(ウガンダ・タンザニア戦争)。リビアとPLOはウガンダを支援したが[25][26]、既にソ連にとってアミンは持て余す存在であったために、タンザニアに反撃を受けるウガンダを支援しなかった[27]。
失脚
1979年に、反体制派のウガンダ民族解放軍(UNLA)に攻撃された上に、軍内部の離反もあり失脚し、タンザニア侵攻の際に軍事作戦に協力していたリビアに当初は逃げるもカッザーフィーすらもアミンのかつての暴虐ぶりを知るや敬遠するようになり[28]、翌1980年には敬虔なイスラム教徒として暮らすことを条件に生活援助を申し出たサウジアラビアへの亡命を許された[29][30]。
死去
サウジアラビアに亡命後は何度かウガンダへの帰国を試みるもことごとく失敗し[29]、表舞台に姿を見せることもなくなり、2003年8月16日にジッダの病院で多臓器不全による合併症で死去した。
エピソード
- 学歴がなく、大学すら出ていないため終生貨幣経済や金銭に関して疎かった。若い頃、銀行員が小切手について「額とサインを書けば使用できる」と説明したのを「いくらでも使用できる」と勘違いして大量発行してもらい、数日後に使い切ると再び発行を要求したことが上司に知られ、支払いを取り消されたことがあった。大統領時代も浪費癖を側近に諫められると「それなら(紙幣を)刷ればいいじゃないか」と大真面目に答えたという。
- 最初の夫人となったマルヤム・アミンとは、1962年に結婚。夫についてマルヤムは、皿洗いや床掃除を手伝うなど優しく慈悲深かったが、ウガンダを支配するようになると人が変わってしまったと証言している。また、二人の間にできた6人の子供の親権を1973年に取り上げられ、以降は子供たちは行方不明になったと語っている[31]。
- 「虐殺した政敵の肉を食べた」などの噂を立てられた結果、「人食い大統領」というニックネームもつけられたが、実際のアミンは菜食主義者で、肉は鶏肉しか口にしたことがなかったといわれている[32]。
- ボクシングのヘビー級チャンピオンになった経歴から、アントニオ猪木との異種格闘技戦の計画が浮上したことがある。仕掛け人は康芳夫。アミンは1979年1月にこの猪木戦を承諾し、特別レフェリーにモハメド・アリを招聘して開催時期まで決まりかけていたが、結局、反体制派クーデターの影響でお流れになった。
- 学がない一方で弁が立ち、ユーモア精神もあり、1974年に開かれたアフリカ統一機構の首脳会議での演説でもジョークを連発した。その際、激しい対立関係にあったタンザニアのニエレレ大統領も握手を求めにきたアミンの手を思わず握り返してしまったという。
- さだまさしは名前の響きが面白いと思い、「パンプキン・パイとシナモン・ティー」(アルバム『夢供養』収録)に出てくる喫茶店の名前を「安眠(あみん)」と名づけた。さらに、さだのファンだった岡村孝子は、この名前を取って自らのユニット名を「あみん」とした。
- ウガンダ・トラは、アミンと容姿が似ていたことからこの芸名がつけられた。
関連作品
小説
- 『スコットランドの黒い王様』(原題:The Last King of Scotland) 武田将明訳、新潮社〈新潮クレスト・ブックス〉、1999年6月
- アミン政権下のウガンダを題材にしたジャイルズ・フォーデン (Giles Foden) の小説。アミンに仕えたスコットランド人の白人青年医師の視点から描かれている。
映画
- "Général Idi Amin Dada: Autoportrait"(General Idi Amin Dada: A Self Portrait)
- 1974年 フランス バーベット・シュローダーの監督によるドキュメンタリー。本人が出演。
- 『食人大統領アミン』(原題:Rise and Fall of Idi Amin)
- 『ラストキング・オブ・スコットランド』(原題:The Last King of Scotland)
- フォーデンの小説を元にケヴィン・マクドナルド監督が2006年に映画化。アミンを演じたフォレスト・ウィテカーがゴールデン・グローブ賞、アカデミー賞それぞれの主演男優賞に輝いた。日本では2007年3月10日公開。
漫画
脚註
参考文献
関連日本語文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.