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Corona Australis | |
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属格形 |
Coronae Australis / Coronae Austrinae |
略符 | CrA |
発音 | 英語発音: [kɵˈroʊnə ɒˈstreɪlɨs]もしくは/kɵˈroʊnə ɒˈstraɪnə/、属格:/kɵˈroʊniː/ |
象徴 | 南の冠[1] |
概略位置:赤経 | 17h 58m 30.1s - 19h 19m 04.7s[2] |
概略位置:赤緯 | −36.78° - −45.52°[2] |
20時正中 | 8月下旬[3] |
広さ | 127.696平方度[4] (80位) |
バイエル符号/ フラムスティード番号 を持つ恒星数 | 14 |
3.0等より明るい恒星数 | 0 |
最輝星 | α CrA(4.087[5]等) |
メシエ天体数 | 0 |
隣接する星座 |
いて座 さそり座 さいだん座 ぼうえんきょう座 |
ε星からいて座との境界線に沿って広がる星間分子雲「みなみのかんむり座分子雲 (英: Corona Australis Molecular Cloud)」は、太陽系から最も近くにある星形成領域である[7]。
2023年7月現在、国際天文学連合 (IAU) によって1個の恒星に固有名が認証されている[8]。
天の南極に近いためメシエ天体こそないものの、2つの天体がパトリック・ムーアがアマチュア天文家の観測対象に相応しい星団・星雲・銀河を選んだ「コールドウェルカタログ」に選ばれている[15]
みなみのかんむり座の星々は、古代ギリシアでは花環と見なされ、いて座の一部であるとされてきた。たとえば紀元前3世紀前半の古代ギリシアのアラートスは詩編『ファイノメナ古希: Φαινόμενα』の中で「いて座の前脚の下にある星のサークレット」としている。また、紀元前3世紀後半のエラトステネースも天文書『カタステリスモイ (古希: Καταστερισμοί)』のいて座の項目の中で「(いて座の)脚の下にある7つの星」と著している[20]。紀元前1世紀頃の古代ローマのガイウス・ユリウス・ヒュギーヌスも著書『Poeticon astronomicon』で「脚の先には輪をなすいくつかの星があり、「これはいて座の花環で、遊んでいる最中に脱げ落ちたものだ」と言う者もいる」「ケンタウルスの花環は7つの星で構成される」と述べている[20]。
この輪を成す星群を独立した1つの星座として扱った最古の記録は、紀元前1世紀頃のギリシャの数学者ゲミノスの『天文学序説[21][注 1](古希: Εἰσαγωγὴ εἰς τὰ Φαινόμενα)』とされる[6]。ゲミノスは、この星座に「南の冠」という意味の Νότιος στέφανος (Notios stephanos) という名称を付けた[6]。2世紀にアレクサンドリアで活動した天文学者クラウディオス・プトレマイオスは、天文書『ヘー・メガレー・スュンタクスィス・テース・アストロノミアース (古希: ἡ Μεγάλη Σύνταξις τῆς Ἀστρονομίας)』、いわゆる『アルマゲスト』の中で、この星座に Στέφανος νότιος (Stephanos notios) とゲミノスとは語順を逆にした名称を付け[6]、13個の星があるとした[22]。
ドイツの法律家ヨハン・バイエルは、1603年に刊行した全天星図『ウラノメトリア (Uranometria)』の中で、みなみのかんむり座の星に対してギリシア文字の小文字のαからνまで13個の符号、いわゆるバイエル符号を付した[23][24]。しかしバイエルが振った符号は、18世紀フランスの天文学者ニコラ=ルイ・ド・ラカイユによって全て振り直された[25]。ラカイユは、1756年に出版されたフランス科学アカデミーの1752年版紀要に寄稿した南天の星表と星図の中で、バイエルがみなみのかんむり座に付したバイエル符号を廃して、ギリシア文字のαからθとκ・λの10文字を新たに振り直した[26]。そのため、バイエルがみなみのかんむり座の星に付したギリシア文字符号の中で現行のものと一致しているものは1つもない[27]。また、バイエルがみなみのかんむり座のα星とした恒星は、ラカイユによってぼうえんきょう座のα星とされた[27]。19世紀後半には、アメリカの天文学者ベンジャミン・グールドによって μ が追加されている[28]。
古代ローマの古くからある星座だが、星座名は21世紀に至るまで定まらなかった。バイエルの『ウラノメトリア』では、ラテン語で「南の冠」という意味の Corona_Meridionaliss という名称が使われた[23]。ドイツの天文学者ヤコブス・バルチウスの1624年刊行の天文書『Usus astronomicus planisphaerii stellati』では、CORONA vel Corolla Australis vel Meridionalis と、「南」と「冠」それぞれに複数の表記が紹介された[29]。イギリスの天文学者エドモンド・ハリーは、1678年刊行の星図で Corona auſtralis という表記を用いた[30]。ラカイユの1763年刊行の天文書『Coelum australe stelliferum』やドイツの天文学者ヨハン・ボーデの1801年刊行の『ウラノグラフィア』ではハリーと同様の Corona Australis という表記が使われた[31][32]が、グールドの1879年刊行の星表『Uranometria Argentina』では Colona Austrina という表記が使われた[28]。
1922年5月にローマで開催されたIAUの設立総会で現行の88星座が定められた際にそのうちの1つとして選定され、星座名は Corona Australis、略称は CrAと定められた[33]。しかし、10年後の1932年に4文字の略称を定めた際に名称がCorona Austrinaとされたため、両方の表記が使われるようになった[34]。1955年に4文字の略称が廃止された際にもこの混乱は是正されず、2008年になってようやく Corona Australis に統一された[34]。
ドイツ人宣教師イグナーツ・ケーグラー(戴進賢)らが編纂し、清朝乾隆帝治世の1752年に完成・奏進された星表『欽定儀象考成』では、みなみのかんむり座の η1・ζ・δ・β・α・γ・ε・HD 175362・κ・θ の10星が、二十八宿の北方玄武七宿の第一宿「斗宿」の「すっぽん[35]」を表す星官「鼈」に配されていた[36]。
日本語の学術用語としては「みなみのかんむり」と定められている[37]。
日本では、1874年(明治7年)に文部省より出版された関藤成緒の天文書『星学捷径』で「南方ノ王冠」という名前で紹介されている[38]。1910年(明治43年)2月刊行の日本天文学会の会報『天文月報』第2巻11号に掲載された「星座名」という記事では「南冠」とされていた[39]。この訳名は、1925年(大正14年)に初版が刊行された『理科年表』にも「南冠(みなみのかんむり)」として引き継がれた[40]。戦後の1952年(昭和27年)7月に日本天文学会が「星座名はひらがなまたはカタカナで表記する」[41]とした際に、Corona Australis の日本語名は「みなみのかんむり」と定められた[42]。これ以降は「みなみのかんむり」という表記が継続して用いられている。なお、1974年に刊行された旧文部省の『学術用語集天文学編』、および1994年に刊行された『学術用語集天文学編(増訂版)』では星座名は「みなみのかんむり」を採用しているが、ラテン語の学名は「Corona Austrina」が採用されている[37][43]。
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