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F-104 は、ロッキードが開発した超音速ジェット戦闘機。愛称はスターファイター (Starfighter)。
F-104 スターファイター
アメリカ初のマッハ2級の超音速戦闘機で、アメリカ空軍の超音速戦闘機群「センチュリーシリーズ」の一員に数えられる。
F-100 スーパーセイバーに始まるセンチュリーシリーズの一員とされ、また、第2世代ジェット戦闘機に分類される、アメリカ合衆国初のマッハ2級のジェット戦闘機。初飛行は1954年2月。
細い胴体に短い矩形の主翼を持つ小型軽量の機体にゼネラル・エレクトリック社の強力なJ79型エンジンを一基搭載している。その卓越した高速性と形態はミサイル(当然無人である)を彷彿させ、日本においては「最後の有人戦闘機」とも称された。
アメリカ空軍では短い期間の運用に終わったが、冷戦下において日本やイタリア、中華民国(台湾)や西ドイツなどアメリカの同盟国や友好国を中心に、世界15ヵ国で供与・運用された。1960年代に勃発したベトナム戦争のほか、第二、第三次印パ戦争等の実戦に投入された。
高度な操縦・整備技術を要し、高価であった事もあり、南ベトナムや韓国、フィリピン、南アメリカ諸国をはじめとする発展途上国への供与はF-5A/Bへ譲られたが、ライセンス生産を含め2,578機が生産された。初飛行後から半世紀を経た2004年、イタリア空軍に所属したF-104S退役を最後に全機退役となった。
ロッキードの設計者であったクラレンス(ケリー)・ジョンソンは、実戦を経験した戦闘機パイロットによる戦闘機への要望の調査の為に、朝鮮戦争最中の1951年12月に韓国を訪問した。当時、アメリカ空軍のF-86パイロットの前にMiG-15戦闘機がソ連の援助により投入された時期にあたる。 その結果、ジョンソンは複雑な構造を持つ大型の機体ではなく、MiG-15の様に必要最小限な装備を搭載し軽量化された機体が必要とされていると結論付けた[2]。
アメリカに帰国後、ジョンソンは早速航空機のデザイン作成に取り掛かった。1952年3月にジョンソン率いる開発チームは、数種類の航空機スケッチを描いた。デザインを重ねるごとに機体スタイルは洗練され、重量が50,000lb(23t)の大型のものから、8,000lb(3.6t)という小型機のデザインに変わっていった。
同時期、アメリカ空軍もMiG-15 との戦訓から、出来る限り軽量な機体に強力なジェットエンジンを搭載し機動力と高速性を高めた戦闘機を欲していた。そして、迎撃戦闘機の開発要求を1952年5月に国内のメーカーに提示し、ジョンソン率いる設計チームスカンクワークスは小型軽量機の開発計画案を1952年11月にアメリカ空軍に提出した。ロッキード社の案にアメリカ空軍は大変興味を示し、他社の開発案との比較の結果、ロッキード社が1953年3月12日に開発の契約を結び、2機の原型機発注が行われた。
当初、開発中のJ79型エンジンの搭載を予定していたが、試作機作成に間に合わなかったため、J65-B-3型エンジンを搭載することとなった。試作1号機であるXF-104(53-7786)の製造は、ロッキード社カリフォルニア工場で1953年から開始された。1954年に機体が完成し、3月4日に初飛行を行った。試作2号機(53-7787)の製造は、1953年秋に始まっている。
1954年3月30日にはエンジンをYJ79-GE-3に換装し、強化したYF-104が17機発注されている。なお、YF-104は1955年4月27日にマッハ2を記録している。
機体は高い縦横比、つまり、細長く、尖った機首に向かって先細りになる胴体内にレーダー、コックピット、機関砲、燃料、着陸装置、およびエンジンが余積なく搭載され、前面投影面積は小さく纏められた。小面積の主翼と相まって、誘導抵抗が非常に高くなる高迎角時を除いて、抗力を非常に低く抑えたものとして、充分な加速力、上昇力と潜在的最高速度を発揮することとなった。
その反面、翼面荷重が大きいことから持続旋回性能は不十分なものであり、F-104A/Bに対してM1.8/550ノットまではフラップの使用を可能にする変更により操作性を改善したものの、制御入力には敏感であった。フライ・バイ・ワイヤシステムのなかった時代であったこともあって、操縦は困難なものとなっていた。
単座型の他、何種かの複座練習機型が生産された。それらは一般に単座機と同様の内容ながら、追加コックピットのために、機関砲と内部燃料の一部を取り外すことになった[注 1]。前脚格納部は位置を変えられ、収納方向が後方に変更された。複座型は垂直尾翼面積の僅かな拡大と機体重量に係わらず、サイドワインダーを使用した戦闘においては初期の単座機と同等の性能を発揮した。
キャノピーは横開きであるが、ヒンジが左側にあるため機体右側から乗り降りする[注 2]。
F-104は先進的な翼設計をその特徴としている。参考としたのは、X-3だった。X-3による実験等の結果、超音速飛行のために最も効率的な形としたのは、当時から現代までのジェット戦闘機の主流である後退翼やデルタ翼[注 3] ではなく、非常に小さい中翼配置とした台形の直線翼[注 4] と結論付けていた。この結果を踏まえ、F-104のために新たに設計された翼は、翼厚比3.36%、アスペクト比2.45の非常に薄いものとなった。さらに翼の前縁を0.41mmと非常に薄くしたために、地上作業時には作業員の安全のために保護材を填めなくてはならなかった。燃料タンクと着陸装置は胴体に収容する他なくなり、さらには補助翼を操作する油圧シリンダーを厚さ25mmに抑える必要を生じた。
高翼面荷重の小さな翼は非常に高い着陸速度となり、前後両縁にフラップを装備したのみならず、安全な着陸のために保守負担増を甘受しながらもエンジン抽気を後縁フラップから吹き出し揚力を高める境界層制御システム(BLCS)を組み込まざるを得なかった。それでもなお、可能な限り小型に設計した主翼は揚力を発生しにくい形状であったこともあって低速での揚力が不足したため、90ノット(170km/h)以下での飛行ができないとされた。
全遊動式水平尾翼はイナーシャカップリング減少のために、垂直尾翼の上に取り付けられた(T字尾翼)。空力的効果のために垂直尾翼は主翼の長さより僅かに短くされたに過ぎず、その結果としてダッチロールを起こす可能性があったため、主翼に10°の下反角を与えることとなった。
T字尾翼を採用した結果、迎え角を高く取ると水平尾翼が主翼の後流に巻き込まれることで効果を失い、急激なピッチアップを伴う回復困難な失速(ディープストール)を引き起こす空力学的リスクを抱え込んだ。F-104はこれに対して、一定以上の迎え角で操縦桿を振動させてパイロットに警告するスティックシェイカーと、強制的に操縦桿を前方に倒すことで迎え角を下げるスティックプッシャーを装備させることで、「機体がディープストールを起こさない程度に、迎え角を制限」するという、間に合わせ的な方法で解決した。
この迎え角制限と主翼の翼面荷重の高さが相まって、F-104は元来の開発目的である制空戦闘機としてはドッグファイトに必要な運動性・機動性に欠ける機体となってしまったが、F-104開発当時のアメリカ空軍では要撃機と戦闘爆撃機を重視し、制空戦闘機を軽視していたため問題とはされなかった[注 5][注 6]。
この他にも、YF-104Aのテストにおいては迎え角を高く取るとヨー方向の安定性も不足することが判明したため、後部胴体下面にベントラルフィンを追加した[注 7]。ベントラルフィンはその後の型でもそのまま維持され、イタリア製のF-104Sでは本来のベントラルフィンの左右に小型のフィンを追加している。
このように先鋭的な設計のために操縦性に難点の多い機体であったが、前面投影面積が小さいため敵機のレーダに発見されにくく、抗力が小さいことによる加速力を活かしたズーム上昇力に優れる等の特質もあった。
F-104は胴体左右に、固定式のショックコーンを備え超音速飛行に最適化された取り入れ口を持ち、ゼネラル・エレクトリック社J79ターボジェットを搭載した。このエンジンを搭載したF-104は、最高速度マッハ2.2に達するに至っているが、これはアルミニウム機体構造やエンジン流入温度制限によるものであり、推力は最高速度域でもまだ余裕を残していた。F-104A搭載のJ79-GE-3A型エンジンは、アフターバーナー時の推力が6,715kgという当時としては群を抜く推力を発揮し、後期のモデルは推力と燃料消費量ともに改善された改良型を搭載した。特に耐熱限界を向上させたJ79-GE-19を搭載したイタリア空軍のF-104Sは、最高速度マッハ2.4を発揮するまでに至った。
初期の機体は上方射出座席と尾翼との衝突の懸念から下方射出のスタンリーC-1を使用した。このことは低高度脱出での明白な問題となり、また射出時の加速に首がついて行かず「首が抜ける」ような形で頭頸部を負傷し後遺症が残ることも多かったため、約21人のアメリカ空軍パイロットが深刻度の低い非常時に射出を断念したという事態に至った。このため、最低170km/hの速度制限があったものの尾翼を飛び越すことのできる上方射出式のロッキードC-2に更新している。輸出型の多くは速度0、高度0で射出可能なマーチン・ベーカー製ゼロ・ゼロ射出座席マーチンベーカー_Mk.7を装備している。
アメリカ空軍用に開発されたF-104A/B/C/Dは、AN/ASG-14T索敵レーダー、TACAN、およびAN/ARC-34 UHFラジオを装備した。
その後に開発された輸出型戦闘爆撃機仕様のF-104Gでは、NASARR F15A-41Bレーダー、簡単な赤外線照準機、リットンLN-3慣性航法装置、およびエア・データ・コンピュータを装備した。赤外線照準機はレーダーと連動して全天候での機関砲の見越し角射撃と全天候でのサイドワインダーの自動発射を可能としたが、レーダー誘導ミサイルの運用能力を持たないため、全天候戦闘機としての能力は限定的である。また、NASARRレーダーは空対空モードだけでなく空対地モードも備えており、グラウンドマッピング機能による地形・建造物を参照することで、慣性航法装置の誤差を補正しながら夜間や荒天時を含めた全天候での低空侵攻による戦術核攻撃ミッションを独力で遂行可能となっている。
ロッキードは、1960年代後半にイタリア空軍向けに全天候迎撃戦闘機としてF-104Sを開発した。F-104Sはスパローやアスピーデといったセミアクティブ・レーダー誘導ミサイル用の移動目標表示装置とCWイルミネーターを持つNASARR R21-Gを搭載した。このため、M61は撤去されることとなった。 1980年代の半ばに、残存していたF-104SはASA標準化(Aggiornamento Sistemi d'Arma / Weapon Systems Update)において、はるかに改良され、小型化されたフィアットR21G/M1レーダーに更新された。
電子装備の大半はサブミニアチュア管などの真空管を使用していた。後期に生産された機体では一部が半導体へ換装された。
F-104は固定兵装として、M61A1 20mmバルカン砲(発射速度は毎分6,000発)を初めて搭載した。前部胴体の左下部に取り付けられた砲には、操縦席の後ろに設置され725発の砲弾を収納したドラムから送弾された。ただし当初は信頼性に乏しく、F-104Aはこれを取り外した状態で部隊配備されている。複座型ではどの型でも後部座席を搭載するスペースを確保するために撤去されたほか、単座型でも偵察型のRF-104Gやカナダ空軍仕様のCF-104(後日に追加装備)、初期のF-104S(ASA改修時に追加装備)を含む一部の機体では搭載せず、偵察用カメラや追加燃料タンクに取り替えられた。
外部兵装では、F-104Aから用意されている翼端ステーションには、2発のAIM-9サイドワインダー空対空ミサイルのランチャーと翼端増槽(チップタンク)のどちらかを二者択一で搭載した。
F-104Cからは、胴体中央線と主翼下にハードポイントが1つずつ追加され、兵装ステーションは両主翼端を含めて5か所に増えた。主翼下のハードポイントには680kg(1,500lbs)、胴体下のハードポイントには1,043kg(2,300 lbs)までの兵装を懸架可能である[3]。また主翼下ハードポイントには、TSC(Twin Store Carrier)[注 8][注 9] を装着することで、Mk82 500ポンド爆弾やクラスター爆弾、ナパーム弾などは左右それぞれのハードポイントに2つずつ、胴体下ハードポイントに1つの、計5発まで装備可能となった[4]。ただしロケット弾ポッドは胴体下に装備できないため最大4つまでとなり、またM117 750ポンド爆弾やMk83 1,000ポンド爆弾は重量制限の都合上3か所のハードポイントに1つずつの計3発しか装備できない[4]。
胴体下ハードポイントには、戦術核爆弾のB28やB43、B57、B61を搭載可能[4] な他、最低地上高の小ささからシーカーヘッドを地上の異物で損傷しがちではあるものの、2発のAIM-9サイドワインダーを搭載可能なカタマラン式ランチャーが搭載可能となっている[注 10]。
ただし、F-104は胴体下への兵装搭載を前提に設計されておらず、主脚扉が兵装につっかえるのを防ぐために胴体下のハードポイントは主翼よりもかなり前方にずれた場所に設置せざるを得なかった。このため、重い戦術核爆弾を搭載すると重心が前方にずれ、水平尾翼は重心補正のために機首を上げるようにピッチトリムを多くとる必要があった。さらにF-104が実際に戦術核爆弾で攻撃を行う際には低空飛行で目標に接近するため、核爆弾の投下は大直径パラシュート付きの核爆弾を低空水平飛行で投下するレイダウン投下か、標的の手前で宙返りを行いながら上昇時の勢いに任せて核爆弾を空中に放り投げるように投下するトス爆撃のどちらかを行う必要がある。レイダウン投下はまだしも、トス爆撃の場合は上記のように重心の前方に搭載した核爆弾を宙返りの最中に投下するので、核爆弾の重量負担が消えた分一気にピッチアップを起こし、上記の#主翼・尾翼の項目で説明したようにディープストールを起こして墜落するか、スティックプッシャーが働いて操縦者の意図しない大きな揺れ幅の上下運動が発生する危険がある。このためトス爆撃では爆弾投下時に操縦桿を前方に緩めるほか、投下前にスティックプッシャーを作動させるAPC(Automatic Pitching Control)装置のスイッチを切ることがマニュアルで推奨されていた。
さらにF-104Sでは、左右エアインテーク下の胴体と左右主翼下[注 11] にハードポイントを追加し、総計9箇所のハードポイントを持つに至っている。兵装についても、セミアクティブ・レーダー・ホーミング誘導方式のスパローやその改良型であるアスピーデが装備可能となっている。
1958年5月18日にF-104Aが2,260km/hの速度記録を、1959年12月14日にF-104Cが31,500mの高度記録を作った。
1977年10月24日には、かつてドイツが戦時中Me 209によって樹立したレシプロ機世界速度記録をF8Fで破った実績を持つダリル・グリーネマイヤーが、自らジャンクパーツによって組み立てた民間登録のF-104「N104RB」により3kmコースでの速度記録1,590.45km/hを達成した。N104RBとグリーネマイヤーはさらに、MiG-25の特殊改造機E-266Mが記録した世界高度記録(37,650m)の更新にも挑む予定だったが、1978年のテスト飛行中に下げた主脚のロックが確認できないトラブルに見舞われ、外部から目視で確認してもらおうとしたがうまく行かず燃料切れとなり、グリーネマイヤーは脱出、機体は墜落している。
アメリカ空軍では比較的少数が短期間使用されたにとどまるが、F-104Cの改良型であるF-104Gは西ドイツを中心に北大西洋条約機構各国でF-86 セイバーやF-84サンダージェット/サンダーストリークの後継機として大量に採用された。なお、F-104を最も長く運用したのはイタリア空軍である。
ベルギー空軍は1963年2月14日から、F-104G 101機[5] とTF-104G 12機の、計113機を導入し、以下の2個航空団/4個飛行隊に配備・運用していた。運用中に事故でF-104Gを38機とTF-104Gを3機失っている。
航空団名 | 航空団章 | 基地 | 飛行隊名 | 配備年 | 前任機 | 退役年 | 後継機 | 出展 |
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第1航空団 | ボーヴシェン空軍基地 | 第349飛行隊 | 1963年 | CF-100 Mk.5 | 1981年 | F-16 | [5]。 | |
第350飛行隊 | ||||||||
第10航空団 | クライネ=ブローゲル空軍基地 | 第23飛行隊 | 1964年 | F-84F | 1983年 | |||
第31飛行隊 |
第1航空団は全天候防空戦闘を任務としていたが、第10戦術航空団は有事にはアメリカ空軍が提供した戦術核爆弾を装備しての戦術核攻撃を任務としていた。
退役は1983年9月19日。退役に伴い、残存機体のうちF-104G 11機とTF-104G 9機が阿里山11号計画に基づいて台湾空軍に譲渡されたほか、F-104G 17機がトルコ空軍に譲渡された[6]。
中華民国(台湾)は1960年代から、阿里山計画(阿里山計劃)に基づいてF-104を装備した。総計で282機を保有。当初はアメリカ空軍で使用していた中古のF-104A/F-104Bを導入していたが、MAP計画による、新品のF-104G(TF-104GとRF-104Gを含む)をロッキード社およびカナディアから受領し、アメリカにおける在庫がなくなった後は、航空自衛隊や西ドイツ空軍、デンマーク 空軍、ベルギー空軍で使用されていた中古機を導入・配備していた。なお航空自衛隊の中古機に関しては、アメリカが日本に無償援助を行った分を退役後に返還した機体であり、直接日本から台湾に輸出した訳ではない。早期に導入配備されたF-104A/F-104Bの機体の一部は、アメリカに返却してヨルダン・パキスタンに再供与されており、航空自衛隊の中古機とは逆の例となっている。最終的に導入したF-104は、F-104A/B/D/G/J/DJ、RF-104G、TF-104Gの8種類となる。
デンマーク空軍は、当初25機のカナディア製F-104Gと、ロッキードで組み立てられた4機のTF-104Gを受領・運用した。1972年と1974年には、カナダ空軍で余剰となったCF-104 15機とCF-104D 7機を追加で導入する。導入された機体は、オールボー航空基地(軍民共用)の第723飛行隊(Eskadrille 723)と第726飛行隊(Eskadrille 726)に配備された。
計51機のF-104は1986年まで運用され、退役に伴って15機のF-104Gと3機のTF-104Gが1987年に阿里山10号計画に基づいて台湾に引き渡された[11]。
軍種 | 部隊名 | 部隊章 | 基地 | 配備年 | 前任機 | 退役年 | 後継機 | その後 |
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LW | 第51偵察航空団“インメルマン” |
ブレムガルテン(Bremgarten)航空基地 | 1963年 | RF-84F | 1972年 | RF-4E | 1993年3月17日付で解隊。 1994年1月1日付でシュレースヴィヒ航空基地にてトーネード RECCEを装備して再編成。 2013年10月1日付で第51戦術航空団"インメルマン"(Taktisches Luftwaffengeschwader 51 „Immelmann“)として再編成。 | |
第52偵察航空団 Aufklärungsgeschwader 52 |
レック(Leck)航空基地 | 1964年 | 1971年 | 1993年3月31日付で解隊。 | ||||
第71戦闘航空団“リヒトホーフェン” Jagdgeschwader 71 „Richthofen“ |
ヴィットムントハーフェン航空基地 | 1963年 | CL-13 セイバーMk.5 | 1974年 | F-4F | 2013年9月30日付で、第31戦術航空団“ベルケ”隷下の戦術航空群“リヒトホーフェン”(Taktische Luftwaffengruppe „Richthofen“)として再編。 2016年6月1日付で第71戦術航空団“リヒトホーフェン”(Taktisches Luftwaffengeschwader 71 „Richthofen“)に再編される。 | ||
第74戦闘航空団“メルダース” Jagdgeschwader 74 „Mölders“ |
ノイブルク(Neuburg)航空基地 | 1964年 | F-86K | 1974年 | 1998年に、コンドル軍団参加者から全ての名誉を剥奪する法律が制定。これに基づいて、2005年に航空団から「メルダース」の名前を抹消。 2013年10月1日付で第74戦術航空団(Taktisches Luftwaffengeschwader 74)として再編成。 | |||
第31戦闘爆撃航空団“ベルケ” Jagdbombergeschwader 31 „Boelcke“ |
ネルフェニッヒ航空基地 | 1962年 | F-84F | 1983年 | トーネード IDS | 2013年9月30日付で、第31戦術航空団“ベルケ”(Taktisches Luftwaffengeschwader 31 „Boelcke“)に再編成。 | ||
第32戦闘爆撃航空団 Jagdbombergeschwader 32 |
レヒフェルト航空基地 | 1964年 | 1983年 | 2013年3月31日付で解隊 | ||||
第33戦闘爆撃航空団 Jagdbombergeschwader 33 |
ビューヒェル航空基地 | 1962年 | 1985年 | 2013年10月1日付で第33戦術航空団(Taktisches Luftwaffengeschwader 33)として再編成。 | ||||
第34戦闘爆撃航空団 Jagdbombergeschwader 34 |
メミンゲン(Memmingen)航空基地 | 1964年 | 1987年 | 2003年6月30日付で解隊 | ||||
第36戦闘爆撃航空団 Jagdbombergeschwader 36 |
ホプシュテン(Hopsten)航空基地 | 1965年 | 1974年 | F-4F | 1991年1月1日付で第72戦闘航空団“ヴェストファーレン”(Jagdgeschwader 72 „Westfalen“)へ改名。2002年1月31日付で解隊。 | |||
第10空軍兵器学校 Waffenschule der Luftwaffe 10 |
ネルフェニッヒ航空基地 →イェファー航空基地[注 13] |
1960年 | CL-13 セイバーMk.5 | 1983年 | トーネード IDS | アメリカでの転換訓練を完了したパイロットを、欧州の環境に慣らすための部隊。1983年8月26日付で第38戦闘爆撃航空団(Jagdbombergeschwader 38)に再編。2005年8月31日付で解隊 | ||
MFG | 第1海軍航空団 Marinefliegergeschwader 1 |
シュレースヴィヒ航空基地 | 1963年 | ホーカー シーホーク | 1982年 | 1993年12月31日付で解隊。 | ||
第2海軍航空団 Marinefliegergeschwader 2 |
エッゲベク(Eggebek)航空基地 | 1965年 | 1986年 | 2005年8月9日付で解隊。これに伴い空対艦攻撃任務は、空軍の第51偵察航空団が引き継ぐ。 |
1965年、ギリシャ空軍はロッキード/カナディア製F-104G 45機とTF-104G 6機を受領し、第335飛行隊(335 Μοίρα)と第336飛行隊(336 Μοίρα)の2個飛行隊にF-104Gを配備した。
ギリシャ空軍のF-104Gは、西ドイツやカナダ、オランダ、ベルギーなどと同様に戦術核攻撃を主任務としており、東西冷戦が熱戦に変化した暁には、アメリカ空軍が提供する戦術核爆弾(後には各種通常兵器を含む)を搭載して、ワルシャワ条約機構軍に打撃を与えることとされていた。
ギリシャ空軍は1970~80年代にかけて、キプロス問題を抱えて対立するトルコと争うように、多くの国から中古のF-104を多数導入した。1975年にはスペイン空軍からF-104G 9機とTF-104G 1機を受領したほか、西ドイツ軍からF-104G 40機、RF-104G 17機、TF-104G 23機を受領。オランダ空軍からもF-104G 10機を受領した[16] が、その多くは第335/第336の2個飛行隊の損耗補充やスペアパーツの提供元とされた。1993年3月に米海軍中古のA-7E/TA-7Cに更新され退役する。
航空団章 | 航空団 | 基地 | 飛行隊 | 配備年 | 前任機 | 退役年 | 後継機 | 出展 |
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n/a | 第114戦闘航空団 (114 Πτέρυγα Μάχης) →第116戦闘航空団[注 14] (116 Πτέρυγα Μάχης) |
タナグラ空軍基地 →アラクソス空軍基地[注 15] |
第335飛行隊 (335 Μοίρα) |
1965年 | F-84F | 1992年 | A-7E/ TA-7C |
[20][21] |
第116戦闘航空団 (116 Πτέρυγα Μάχης) |
アラクソス空軍基地 | 第336飛行隊 (336 Μοίρα) |
1963年 | 1993年 | [21] |
イタリア空軍は、1962年に最初のF-104G(ロッキード製)を受領したのち、同年からフィアット(後のアエリタリア)でライセンス生産された104機のF-104Gと20機のRF-104G、24機のロッキード製TF-104Gを導入した。さらに1969年からは改良型のF-104Sを205機導入したほか、1984年には西ドイツ空軍から中古のTF-104G 6機を受領して[15] おり、イタリア空軍は合計355機を導入した。
イタリア空軍向けの F-104S は、FCSの交換とハードポイントの追加により AIM-7E スパローの運用能力を持ち、また、エンジンの換装により最高速度はマッハ2.4に向上している。これは耐熱限界が向上したためで、パワー自体はもとより余裕があった。
1981年に計画された近代化改修によりAIM-9Lが、1997年の近代化改修でAIM-7Eベースのイタリア国産ミサイル、アスピーデがそれぞれ運用可能となっている。F-104Sは、ユーロファイター タイフーンが導入される2005年まで運用されていた。
イタリア空軍においては、F/RF/TF-104GおよびF-104Sは、以下の8個航空団(Stormo)/13個飛行隊(Gruppo)に配備された。
1967年に29機のF-104Aと4機のF-104Bをアメリカから供与された。
アメリカからの供与時に「対イスラエル作戦には使用しない」という条件が付されたため、第一陣の引き渡し直後に勃発した第三次中東戦争ではイスラエルの攻撃を避けるためトルコに避難し、終結後に引き渡しを再開した。これは、ヨルダンが新戦闘機の入手先をソ連に求めるのを防ぐための処置であったという。1機は1972年11月のフセイン国王に対するクーデター未遂事件で戦闘に参加したとされているが、詳細は不明である。第2・3次印パ戦争においては飛行隊の一部がパキスタンに派遣され、戦後、アメリカの禁輸措置後には保有機の一部が部品取り用に同国に転売されたという。
オランダ空軍は1962年から、F-104G 95機とRF-104G 25機、TF-104G 18機の、合計138機のF-104を導入した。
オランダは西ドイツやカナダ、ベルギーと同様にアメリカから有事の戦術核兵器提供を約束されていたため、フォルケル航空基地にアメリカ空軍管理下の戦術核兵器を貯蔵しており、東西両陣営の直接軍事衝突が勃発した際には、フォルケル空軍基地に駐屯する第311/第332飛行隊の所属機体が低空侵攻による戦術核攻撃を行うことになっていた。ちなみに、レーワルデン空軍基地の第322/第323飛行隊は全天候迎撃を任務としていた[22]。
1980年代にF-16への機種転換が進むに伴い余剰化した機体は、F-104G 10機がギリシャ空軍に引き渡されたほか、F-104G 24機、RF-104G 18機、TF-104G 10機がトルコ空軍へ引き渡された[6]。
オランダ空軍のF-104は、以下の5個飛行隊に配備されたほか、飛行小隊規模の訓練部隊が複数存在する。
オルフェウス(Orpheus)偵察ポッドは、オランダのオールドデルフト、オランダ国立航空宇宙研究所(National Aerospace Laboratory:略称NLR)、フォッカーが共同開発した偵察用ポッドで、昼間用のカメラと赤外線ラインスキャナ、制御機器や冷却装置などの周辺電子機器はオールドデルフト、軽合金性の本体はNLRとフォッカーが共同開発し、1966年から開発が始められた[24]。
オルフェウス偵察ポッドは、全長3.75m、重量350kg、直径0.47mの大きさで、内部には5機のTA-8Mカメラと、IRLS-5赤外線ラインスキャナ、それら偵察機器の制御装置で構成される[24]。
TA-8Mカメラは、1機が前方斜めに、左右それぞれの斜め方向に2機ずつが配置されている。レンズは前方斜めと前部の左右斜めカメラは70mmレンズが固定されているが、後部の左右斜めカメラは70mm、100mm、150mmのレンズを選択できる。また赤外線ラインスキャナは、地表から放射される赤外線(地面との温度差)を感知する[24]。
オルフェウス偵察ポッドは後にイタリア空軍でも採用され、RF-104G退役後はオランダ空軍ではF-16A[24]、イタリア空軍ではAMXに搭載される。
ノルウェー空軍は、1963年からMAP供与により、ロッキード製RF-104G 16機、カナディア製F-104G 3機、ロッキード製TF-104G 2機の計19機を受領した。ただし、ノルウェー空軍に引き渡されたRF-104GはM61 20mmバルカン砲を装備しており、実態はF-104Gそのものであった[22]。
ノルウェー空軍は受領したF-104をボードー空軍基地の第331飛行隊(331 skvadron)に配備し、同飛行隊で運用されていたF-86Fセイバーを更新した。
1973年には、カナダ空軍から余剰機のCF-104 18機とCF-104D 4機を受領し、リュッゲ空軍基地の第334飛行隊(334 skvadron)に配備し、同飛行隊のF-5A/B(G)を更新した。ノルウェー空軍は、導入したCF-104にM61 20mmバルカン砲を再装備するとともに、レーダーの対空捜索能力を向上させる改修を行った[25]。
さらに1975年には、西ドイツ空軍がアメリカのルーク空軍基地で運用していたTF-104G 2機を受領している[13]。
1981年、第331飛行隊はF-16A/Bへの機種転換を開始し、第331飛行隊に所属していた機体のうちF-104G 3機、RF-104G 9機、TF-104G 1機の合計13機がトルコ空軍に引き渡された[26]。
1982年には第334飛行隊もF-16への機種転換を開始し、1983年にはCF-104およびCF-104Dもすべて退役した。ノルウェー空軍で使用されていたCF-104/CF-104Dの中には民間に引き取られた機体もあり、2機のCF-104と1機のCF-104Dがアメリカの民間アクロチーム『スターファイターズ』[27] に引き取られて運用されているほか、ノルウェー国内のボランティア団体"Friends of Norwegian Stafighters"[28] が1機のCF-104Dを保有している[29][30]。
パキスタンは1961年にアメリカの軍事援助計画に基づいて旧アメリカ空軍のF-104A 10機とF-104B 2機を供与されている。これらの機体はアメリカ空軍では取り外されていたM61 20mmバルカン砲が再装備されたほか、エンジンをJ79-GE-11に換装されており、初期型故に機体が軽い分推力重量比はF-104各型の中で特に優れていたという。
パキスタン空軍のF-104は全機がサルゴーダーのMushaf空軍基地に駐屯する第9飛行隊に配備され、第2・3次印パ戦争にF-86、ミラージュIIIと共に実戦投入された。1965年の第二次印パ戦争では9月6日の戦闘でインド空軍のミステールを撃墜しF-104最初の撃墜戦果を挙げたが、インド空軍がF-104との交戦を避けたため、撃墜戦果は約250回の出撃で僅か4機だけであった。F-104の損失は2機のみであったが、インド側の資料では地上でもう1機破壊したとされている。9月11日にはMiG-21と遭遇しマッハ2級戦闘機同士が対立した史上初の事例となったが、F-104は燃料が少なくなっていたため交戦することなく退却した。1971年の第三次印パ戦争ではいくつかの撃墜戦果こそ挙げたものの、MiG-21に苦手な格闘戦に巻き込まれるなどして7機を失う大損害を被り、終戦後アメリカの禁輸措置によって部品供給を絶たれて退役した。
スペイン空軍は1965年から、18機のカナディア製F-104Gと3機のTF-104Gを導入した。1972年のF-4C導入により余剰となった機体はギリシャ空軍とトルコ空軍に引き渡された。
なお、スペイン空軍では17,000時間以上運用されたものの、事故等で失われる事はなかった。
トルコ空軍は、1963年からロッキード/カナディア製のF-104G 48機とTF-104G 6機をアメリカからのMAP供与によって受領した。
トルコ空軍においては、F-104は以下の4個航空団コマンド(Ana Jet Üs Komutanlığı)/10個飛行隊(Filo)に配備・運用された。
1974年にはイタリアから新造機のF-104S 40機を受領した[31]。1980年代に入ると、トルコ空軍はキプロス問題で対立するギリシャ空軍に対抗するように、欧州各国から多数の中古F-104を導入し始めた。
これにより、トルコ空軍のF-104取得機数は総計439機にまで膨れ上がったが、その多くはスペアパーツ確保のために解体されたといわれている。
後継機のF-16の配備とライセンス生産が進められたことや機体の老朽化などもあり、トルコ空軍のF-104は1995年に全機退役した。
総生産機数はライセンス生産も含め2,578機にも及び、派生型も数多い。
出典: Geschichte der Luftwaffe (2017年). “F-104G Starfighter” (ドイツ語). 2019年4月17日閲覧。
諸元
性能
武装
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