Loading AI tools
スウェーデンのポップスグループ ウィキペディアから
ABBA(アバ、スウェーデン語発音: [²abːa])は、スウェーデンのポップ・グループ。1974年から1982年まで世界中の音楽チャートを席巻した、ポピュラー音楽界で商業的に成功したグループの1つ。アグネタ・フォルツコグ、ビョルン・ウルヴァース、ベニー・アンダーソン、アンニ=フリッド・リングスタッド(フリーダ)によってストックホルムで1972年に結成。イギリスのザ・ドームで行われたユーロビジョン・ソング・コンテスト1974に出場し、スウェーデン代表として初めて優勝した。
ABBA | |
---|---|
「Music for UNICEF Concert」で「チキチータ」を演奏するABBA(1979年) | |
基本情報 | |
出身地 | スウェーデン ストックホルム |
ジャンル | |
活動期間 | |
レーベル | |
公式サイト | ABBA The Official Site |
メンバー |
ABBAの売上の記録は不確実であり、様々な見積もりでは、1億4000万枚以上から数億枚以上とされる[6][7]。ABBAは、母国語がスウェーデン語にもかかわらず、イギリス、アイルランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アメリカ合衆国といった英語圏の国々で、成功を収めたグループである。彼らはイギリスでアルバム8作連続1位を獲得している[8]。グループはラテンアメリカ市場でも成功を収め、ヒット曲のコレクションをスペイン語で収録した。
バンドの活発な活動期に、アグネタとビョルン、フリーダとベニーは結婚した。彼らの人気が上昇しすぎたことから婚姻関係は微妙なものとなり、結局、1979年にアグネタとビョルン、1981年にフリーダとベニーはそれぞれ離婚した。これらの関係の変化は、グループの音楽に反映され、彼らの通常の純粋なポップ・サウンドとは対照的に、内省的な歌詞になっていった[9]。
1982年12月にグループが解散した後、アンダーソンとウルヴァースは舞台音楽の作曲で成功し、リングスタッドとフォルツコグは独自の音楽活動を続けた。ABBAの音楽は、1989年にポリグラムにより旧譜発売の権利が買収され、1992年9月に発売されたグレイテスト・ヒッツ(『アバ・ゴールド』)は世界的成功を収めた。
1994年の『ミュリエルの結婚』、『プリシラ』などのいくつかの映画は、グループへの関心を高め、いくつかのトリビュートバンドを生み出した。1999年、ABBAの音楽は成功したミュージカル『マンマ・ミーア!』に起用され、世界的なヒットとなった。2008年に公開された同名の映画は、その年のイギリスで商業的に成功した映画となった。
ABBAは、2005年にユーロビジョン・ソング・コンテストの創立50周年を迎えると、その大ヒット曲「恋のウォータールー」がコンテストの歴史の中で最高の歌に選ばれた[10]。グループは2010年にロックの殿堂入りを果たした[11]。2015年に、彼らの歌「ダンシング・クイーン」がレコーディング・アカデミーによりグラミーの殿堂入りを果たした[12]。
全盛当時(1970年代)
近年(2010年代)
グループ名の由来は、メンバー4人の頭文字を取ったもの。元々は、「Björn & Benny, Agnetha and Anni-Frid」という長い名前だったが、ある日マネージャーのスティーグ・アンダーソンが、何かの書類に彼らの名前を記入する際に、適当にイニシャルを並べて「ABBA」と書いたことから、それがグループ名になった。ビョルンとベニーが曲を作り、アグネタとフリーダ(アンニ=フリッド・リングスタッドの通称)が歌う(一部、ビョルンやベニーが歌っているものもある)。
1972年に、ビョルン&ベニー名義で「木枯しの少女」が日本でヒット。その年の世界歌謡祭にも出場した。その後、ユーロビジョン・ソング・コンテスト1974での優勝をきっかけに、「恋のウォータールー」が大ヒットし、ヨーロッパ中で知名度が高くなった。1974年には「落葉のメロディ」(アスタ・マニャーナ)もヒットした。さらにABBAは、1975年に「悲しきフェルナンド」「SOS」をヒットさせた。「SOS」は、イギリスを含むヨーロッパでヒットした。また、オーストラリアは、早くからABBAの人気に火が付いた地域で、「ダンシング・クイーン」がヒットするまで「世界で一番熱心なABBAマニアはオーストラリア」と言われていた。1975年にはアルバム『アバ』を発表した[14]。
1976年から1977年にかけて、「ダンシング・クイーン」がアメリカを含め世界的にヒットした。彼らは1976年から1981年の間に、「ママ・ミア」「ダンシング・クイーン」「ザッツ・ミー」「ノウイング・ミー、ノウイング・ユー」「テイク・ア・チャンス」「きらめきの序曲」「チキチータ」「ギミー・ギミー・ギミー」「マネー・マネー・マネー」「ヴーレ・ヴー」「スーパー・トゥルーパー」「ザ・ウィナー」など、世界的なヒット曲を連発した。「ダンシング・クイーン」や「ヴーレ・ヴー」「ギミー・ギミー・ギミー」などの曲は、ディスコでもさかんに流された。
絶頂期である1978年の時点で年間総収入は1600万ドル(約30億円[注釈 1])となり、一時期は同じスウェーデン発祥である大手自動車メーカーのボルボ・グループに匹敵、またはそれ以上の外貨を稼いでおり、ABBAそのものが「産業」であるとも言われた[15][16]。
グループが活躍していた当時、アグネタとビョルン、ベニーとフリーダは夫婦で、ファミリー・チームとしての親しみやすさや安心感から、健全なアーティストのイメージが定着し、彼らの世界進出に一役買った。アグネタとビョルン、ベニーとフリーダは後に離婚(それぞれ1979年と1981年)。グループは1982年、新曲として6曲を録音。年末に「最後のテレビ出演」を果たす。そして1983年、活動を停止し事実上の解散におちいった。フリーダはフィル・コリンズの助力により、「予感」を1982年から1983年にかけてヒットさせた。ビョルンとベニーはミュージカル『チェス』の曲を手掛け、「ワン・ナイト・イン・バンコック」(全米3位)や「アイ・ノー・ヒム・ソー・ウェル」(全英1位)などの曲が他のミュージシャンの歌唱によってヒットした。
解散から約10年後の1992年、英国のグループであるイレイジャーによって発表されたEP『アバ・エスク』(Abba-esque、ABBA楽曲の全面的なカバー盤)が火付け役となったリバイバル・ブーム、再評価の動きが起きた。さらに、1992年に発売のベスト・アルバム『アバ・ゴールド』が全英1位を獲得、世界中で3,000万枚近くのロングセラーとなり、現在も衰えぬ人気を見せつけた。また、ABBAの代表曲を網羅したミュージカル『マンマ・ミーア!』は、ロンドンでの初演以来世界各地でロングラン公演を続けた。2008年には『マンマ・ミーア!』と同名タイトルで映画化もされ世界各地で公開された。
2013年5月6日、ストックホルムのユールゴーデンにABBAに関するインタラクティヴな展示を行う博物館「アバ・ザ・ミュージアム」が開館した[17][18][19][20][21][22]。
2018年4月27日、約35年ぶりに新曲2曲を収録したことを公式サイトで発表した[23]。そして2021年、40年ぶりとなるスタジオ・アルバム『ヴォヤージ』を11月5日に世界同時リリースし、本格的に再始動することを宣言[16][24]。アルバムは全英チャート1位[25]、全米では2位を記録した。
2024年5月31日、スウェーデン及び世界の音楽業界に著しく貢献したことが認められ、スウェーデンのカール16世グスタフ国王からヴァーサ勲章が贈られることになり、ストックホルム王宮で行われた叙勲式にメンバー4人で出席。4人が公の場で揃うのは、2022年5月にイギリス・ロンドンで行った『ABBA Voyage』のプレミア公演以来となる[26]。
ABBAの音楽ジャンルはポップ・ミュージックだが、それとはジャンルの異なるロック界のミュージシャンたちの間で人気があり、ファンであることを明かしている者も多い。
日本語曲名の一部は劇団四季版『マンマ・ミーア!』サウンドトラックに基づく。
『冬のソナタ』の朝鮮語版・第一話で「ダンシング・クイーン」が使用されている場面があるが、日本語版では著作権上の理由により差し替えられている。
日本において、彼らの曲がテレビドラマの主題歌・挿入歌として何度か使用されたことがる。2001年にTBS系列で放送された『ストロベリー・オンザ・ショートケーキ』の主題歌として、「チキチータ」(オープニング・テーマ)と「SOS」(エンディング・テーマ)が使用された[30]。2003年にテレビ朝日系列で放送された『恋は戦い!』の主題歌として「ダンシング・クイーン」も使用された。
1978年に、彼らは『アバ/ザ・ムービー』を公開した。これは彼らのオーストラリアツアーをドキュメンタリー調に描いたものであり、ストックホルムで初公演が行われ、ずっと後年ではあるがDVD化、Blu-ray Disc化もされた。またこの映画は、今日では著名な映画監督であるラッセ・ハルストレムの出世作(事実上の、世界デビュー作)でもある。2000年公開(日本での公開は2003年)のスウェーデン映画『エヴァとステファンとすてきな家族』では、オープニング並びにエンディングにおいて「SOS」が使用された。
ABBAが自らの曲を、第三者によるサンプリングに使用を許諾することは非常に稀であり、ローリン・ヒルの在籍していたヒップホップ・グループのフージーズの楽曲、「Rumble In The Jungle」(1996年発表、「きらめきの序曲」をサンプリング) およびマドンナの楽曲「ハング・アップ」(2005年発表、「ギミー!ギミー!ギミー!」をサンプリング)[31]は、数少ない許諾例である。
イギリスのエレクトロニック・ミュージックユニットであるThe KLFが、1987年に彼らのアルバム『1987 (What the Fuck Is Going On?)』(The JAMs名義での発表)収録の楽曲「The Queen And I」にて「ダンシング・クイーン」を無許可でサンプリングした際には著作権団体経由で抗議を申し立て、結果としてアルバムは回収措置が取られた。
ABBA JAPAN TOUR 1980
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.