雄信内駅
北海道天塩郡幌延町にある北海道旅客鉄道の駅 ウィキペディアから
北海道天塩郡幌延町にある北海道旅客鉄道の駅 ウィキペディアから
雄信内駅(おのっぷないえき)は、北海道(宗谷総合振興局)天塩郡幌延町字雄興(ゆうこう)にある北海道旅客鉄道(JR北海道)宗谷本線の駅である。電報略号はオノ。事務管理コードは▲121838[2]。駅番号はW68。
利用減少によって2019年(令和元年)に、JR北海道から廃止を要請されたが[新聞 1]、幌延町が2015年(平成27年)から町内の駅を活用したまちおこし事業を進めてきた経緯があり、2021年(令和3年)以降は幌延町が維持管理費用を負担して存続された[幌延町 1]。しかし、2025年(令和7年)度以降は維持管理費用の負担が打ち切られる見込みであり、同年春にも旅客扱いを終了する見込みである[新聞 2]。
当駅が所在する幌延町から対岸の天塩町にかけての地名から。駅名のよみは開業時より「おのっぷない[注釈 2]」であるが、地名や公共施設、北海道道道の路線名における「雄信内」のよみは「おのぶない」である[天塩町 1]。天塩町側を流れ当駅の対岸付近で天塩川に合流する雄信内川のアイヌ語名「オヌプンナイ(o-nup-un-nay)」(川尻に・原野・のある・川)に由来する[10][11][12]。
なお、アイヌ語地名研究家の山田秀三は旧図に「ヲヌフナイ」とあることから「オヌㇷ゚ナイ(o-nup-nay)」と略して呼ばれた、と推察しており[13][10]、1973年(昭和48年)に国鉄北海道総局が発行した『北海道 駅名の起源』でも「オ・ヌㇷ゚・ウン・ナイ〔ママ〕」が「オヌプナイ〔ママ〕」に転訛しそれに漢字をあてた、とする説を採用している[3]。
駅所在地の字名は現在「雄興」となっているが、これは、1959年(昭和34年)の字名改正で「新雄信内」をはじめとする幌延町内の「雄信内」と通称される地区の字名を再編したことによるもので、天塩町側の「雄信内」(現字名:オヌプナイ)と混同のおそれがあったことに加え、「地理的に今後雄々しく興隆の兆がある」として名付けられたものである[14][幌延町 3]。
相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、列車交換可能となっている[15]。互いのホームは駅舎側ホーム東側と対向側ホーム東側を結んだ構内踏切で連絡し[15]、駅舎側(南側)が下りの1番線、対向側ホームが上りの2番線となっている[15]。そのほか1993年(平成5年)3月時点では1番線の稚内方から分岐し駅舎西側に至る行き止りの側線を1線有していることが確認されている[15]。また、1983年(昭和58年)4月時点では副本線1線を2番線の反対側に有していたが[16][注釈 3]、この旧副本線は1993年(平成5年)3月までには撤去された[15]。
駅舎は構内の南側に位置し、1番線ホーム中央部分に接している[15]。1953(昭和28)年11月に改築された木造駅舎[6][16]が修復を加えながら継続使用されており、旧事務室部分は無人駅化後も冬季に除雪担当職員の詰所として利用されている[17]。ホーム側には縦書きの駅銘板が掲示されている[11]。駅舎内のトイレは閉鎖されているが、駅舎とは別棟でプレハブのトイレ棟を有する[11]。
乗車人員の推移は以下の通り。年間の値のみ判明している年度は日数割で算出した参考値を括弧書きで示す。出典元が「乗降人員」となっているものについては1/2とした値を括弧書きで乗車人員の欄に示し、備考欄で元の値を示す。
また、「JR調査」については、当該の年度を最終年とする過去5年間の各調査日における平均である。
年度 | 乗車人員(人) | 出典 | 備考 | ||
---|---|---|---|---|---|
年間 | 1日平均 | JR調査 | |||
1966年(昭和41年) | 35,849 | (98.2) | [18] | ||
1978年(昭和53年) | 56 | [19] | |||
1981年(昭和56年) | (22.0) | [16] | 1日乗降客数44人 | ||
1992年(平成 | 4年)(8.0) | [15] | 1日乗降客数16人 | ||
2015年(平成27年) | 「1名以下」 | [JR北 2] | |||
2016年(平成28年) | 0.0 | [JR北 3] | |||
2017年(平成29年) | 0.0 | [JR北 4] | |||
2018年(平成30年) | 0.0 | [JR北 5] | |||
2019年(令和元年) | 0.0 | [JR北 6] | |||
2020年(令和 | 2年)0.0 | [JR北 7] | |||
2021年(令和 | 3年)0.0 | [JR北 8] | |||
2022年(令和 | 4年)0.0 | [JR北 9] | |||
2023年(令和 | 5年)0.2 | [JR北 10] |
もともとこの周辺地域への入植は対岸の天塩町側から始まった経緯があり、幌延町側は鉄道開通前年の(大正13年)時点で世帯数12戸(うち6戸は東部のタンタシャモナイ地区)を数えるのみであったが、雄信内駅開設後の1932年(昭和7年)に雄信内橋(初代)が天塩川に架橋されたことで当地は天塩町雄信内(現:オヌプナイ)との交通の要所となり、当駅周辺には市街地が形成され[20]、対岸の天塩町側に対し「新市街」と呼ばれた[14]。
幌延町によると、1970年(昭和45年)時点で「食料品店・鮮魚店・菓子店・日通が営業」しており、旅館・豆腐店・料理店・工務店・鉄工所なども存在した時期がある[幌延町 4]。同年時点での雄興地区の世帯数は50戸(うち8戸はタンタシャモナイ地区)、人口は224人を数えた[20]。
2017年(平成29年)3月の住民基本台帳月報によると、当駅前を含む幌延町雄興地区は2世帯6人の居住があるが[幌延町 5]、幌延町では2017年(平成29年)時点での同駅の紹介で、駅前については「ゴーストタウン[幌延町 6]」と表現している。
前述のように鉄道開通以前からの天塩町第2の市街であった[20]。このため「新市街」に対して「旧市街」と呼ばれたこともあった[14]。
1965年(昭和40年)7月以前、宗谷本線は上雄信内駅跡 - 当駅間にかけ、天塩川右岸の山肌を下平陸橋(桁15連、全長154.2m)と呼ばれる陸橋で通過していた。
しかし、下平陸橋は1961年(昭和36年)1月26日に、雪崩ですべて落橋[21][22]、翌1962年(昭和37年)には、8月17日に大雨により第8橋脚に土砂が押し寄せ折損・桁2連を流失、同年9月30日には地すべりにより、仮橋脚2基・桁2連を流失する[21]など、度重なる自然災害によって大きな被害を受けていた。
このため、下平トンネル(全長1,356m)を含む2.4kmの新線が、1963年(昭和38年)9月に着工し、1965年(昭和40年)7月15日から使用開始された[幌延町 5][21]。
旧線の一部は、その後幌延町が買収し工事を実施し[20]、町道雄興1号線下平橋として転用され[幌延町 6]、タンタシャモナイ地区へにある住家へのアクセス道路として機能しているが[20][幌延町 6]、下平橋の老朽化から2017年(平成29年)現在代替路線が検討されており、今後橋梁点検の結果から、居住者移転も視野に方針を検討していくこととなっている[幌延町 9][幌延町 7]。
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