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日本の哲学者 ウィキペディアから
西谷 啓治(にしたに けいじ、1900年〈明治33年〉2月27日 - 1990年〈平成2年〉11月24日)は、日本の哲学者。専門は宗教哲学。京都学派に属する。京都大学名誉教授。文化功労者。
1900年、石川県鳳珠郡能登町生まれた[1][2]。宇出津小学校に入学するが、1年生の時に一家で東京へ移住。1912年に早稲田中学に進学。成績優秀であり、卒業時には大隈重信総長から優等賞を授与された。しかし、中学卒業時に肺結核へ罹患していることが分かり、大きな衝撃を受けた[3]。第一高等学校への進学をあきらめて北海道函館で療養生活を送ったが、1年後に回復し、第一高等学校へ進学。
大学進学にあたっては、若年のうちに同郷(現かほく市)の出身である西田幾多郎の著書『思索と体験』に出会っていたこともあり、京都帝国大学文学部哲学科に入学。哲学科では西田幾多郎に師事し[4]、卒業論文は、シェリングとベルグソンをテーマとした。
大学卒業後は、旧制平安中学校に代用教員として1か月勤務。その後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の講師に就いた。その後第三高等学校の講師に転じ、母校の京都帝国大学でも非常勤講師を務めた。1935年、京都帝国大学文学部助教授に就任。1937年より文部省在外研究員として、ドイツ・フライブルクに研究留学し、ハイデッガーに師事。帰国後の1943年、同教授に昇格。太平洋戦争下においては、「近代の超克」に参加。太平洋戦争の「意義」を理論づけようとした。1945年9月、学位論文『宗教哲学』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得[5]。
戦後はその「近代の超克」などにおける言説から公職追放にあい、京都大学を辞職。公職追放解除後の1952年に京都大学文学部教授に復帰。1963年に京都大学を定年退官し、以降名誉教授となった。退任後は大谷大学教授を務めた。1965年、日本学士院会員に選出された[6]。
哲学研究においては、ドイツ神秘主義などを研究するが、後半生は禅仏教に傾倒した。
宗教哲学以外の分野においても、芭蕉、寒山詩やトルストイ、リルケに関する考察や随筆も多く残している。また、学生時代には、リヒャルト・デデキントの『数とは何であるか、何であるべきか』を読むなど、数理哲学への関心を有していたようだが[10]、その方面で論文を書くことはなかった。
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