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天皇の肉声の放送、特に1945年8月15日にNHKラジオ第1放送で放送された昭和天皇による終戦の詔書の音読放送 ウィキペディアから
玉音放送(ぎょくおんほうそう、旧字体:玉音󠄁放送󠄁)とは、1945年(昭和20)8月15日、昭和天皇自らが太平洋戦争終結の決定を国民に伝えるために行った放送の呼称[1]。同日正午(日本標準時)に、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された「大東亜戦争終結ノ詔書」(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)の音読レコード(玉音盤)のラジオ放送を指す[2][3]。
この放送は、第二次世界大戦における枢軸国側の日本のポツダム宣言受諾による終戦(日本の降伏)を日本国民に伝える目的で、日本ではこの玉音放送の行われた8月15日を終戦の日(終戦記念日)と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式を日本武道館で行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。なお、正式に日本が降伏し交戦状態が終了したのは、それから半月後の対連合国への降伏文書が調印された同年9月2日のことである。
ソビエト連邦からの宣戦布告を受けて「最早我が国に勝ち目はない」と判断した内閣総理大臣(海軍大将)鈴木貫太郎は、1945年(昭和20年)8月14日の御前会議において昭和天皇の裁可を仰ぎ、7月26日に連合国から示されたポツダム宣言の受諾を最終決定し、昭和天皇の裁可(いわゆる聖断)を得た。なお、昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている。
ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は大東亜戦争において、大日本帝国の軍隊が降伏することを意味した。
御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議(鈴木貫太郎内閣)にかけられ、若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を臣民(国民)に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイスおよびスウェーデン駐在の日本公使館を通じてイギリス、アメリカ合衆国、中華民国、ソビエト連邦など連合国の政府側に伝達された。
昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ[注 1]、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎以下による御前会議のあとも陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(宮城事件、録音盤事件)。
前日にはあらかじめ「15日正午より重大放送あり、全国民は皆謹んで聞くように」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置がとられた。
連合国軍の攻撃は、アメリカ軍は数日前から兵庫県宝塚市などに8月15日の空襲予告を行っていたが[4]、15日未明の土崎空襲を最後に爆撃を停止した。しかしイギリス軍では、15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に向かったグラマン TBF アヴェンジャーらが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡した。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、脱出したフレッド・ホックレー少尉が陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により処刑される事件も発生した(一宮町事件)。
放送は正午に開始された。冒頭に日本放送協会の放送員(アナウンサー)和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。続いて情報局総裁下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、国歌「君が代」の演奏が放送された。その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」などの補足的文書のアナウンスが行われた。
放送はアセテート盤[注 2]のレコード、
玉音放送において「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」(私は米国・英国・支那・蘇聯の4か国に対し、(ポツダム)共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という部分が主題であるが、多くの日本国民においては、終戦と戦後をテーマにするNHKなどの特集番組の、“皇居前広場でひれ伏して天皇に詫びる人々”の映像とともに繰り返し流される「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分が戦時中の困苦と占領されることへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である[注 4][注 5](この文章は「以て万世の為に太平を開かんと欲す。朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんい、信頼)し常に爾臣民と共にあり」(これ―被占領の屈辱に耐えること―によって世界を平和にして欲しい。私はここに国体を護持することができ、忠実なお前達臣民の赤誠(真心)を頼って常にお前達臣民と共にある)と続く)。
『大東亜戦争終結ノ詔書』(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)は「終戦詔書」(しゅうせんしょうしょ)とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付で詔として発布され、同日の官報号外にて告示された[8]。大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、さらに14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が刪修して完成[注 6]し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。第7案まで議論された。
喫緊の間かつ、きわめて秘密裏に作業が行われたため、起草・正本の作成に十分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣の阿南惟幾が「
終戦詔書の原本は、内閣総務課の理事官であった佐野小門太が浄書したものである[10]。
当初、迫水久常は「分かりやすい口語体による放送にしよう」と考えていた。内閣嘱託の木原通雄とともに案を創作し始めたが、「一人称と二人称をどうするか」という基本的な点で行き詰まってしまった。つまり、それまで天皇が国民に直接語りかけることなどなかったため、天皇が自分自身のことを何と呼ぶのか、また、国民に対して「おまえたち」と言うのか「みなさん」と言うのか、適当な表現を考えつかず、結局実現はできずに、無難で済む文語体にすることとなった[11]。また聖断が下された御前会議に陪席していた迫水は御前会議での昭和天皇の発言を組み入れて詔書案を作成した。これにより天皇の意思が反映されるという異例な詔書となった。
終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送することで国民に諭旨するという着想は、ジャーナリストでNHK専務理事経験のある初代内閣情報局次長の久富達夫が、同局総裁の下村宏に提案したものというのが通説である。
日本放送協会へは宮中での録音について8月14日13時に通達があり、この宮内省への出頭命令を受け、同日15時に録音班8名(日本放送協会の会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人)[12]が出かけた(録音担当者は国民服に軍帽という服装であった)。録音作業は内廷庁舎において行われ、録音機2組(予備含む計4台)など録音機材が拝謁間に、マイクロホンが隣室の政務室に用意された。録音の用意は8月14日16時には完了し、18時から録音の予定であった。しかし、前述の詔書の最終稿の修正もあって録音作業はずれ込み、『昭和天皇実録』によると、昭和天皇は警戒警報発令中の23時25分に部屋に入り、宮内大臣や侍従長らが見守る中で朗読は行われた[13]。
2回のテイクにより、玉音盤は合計2種(テイク1が計7枚、テイク2が計5枚)製作された。2度目のテイクを録ることとなったのは、試聴した天皇自身の発案(声が低かったため)といわれ、さらに接続詞が抜けていたことから、天皇から「3度目の録音を」との話もあったが、「下村がこれを辞退した」という(下村宏『終戦秘史』)。
玉音放送は、日本電気音響(現・デノン コンシューマー マーケティング)製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく日本電気音響製の、SP盤規格準拠のアセテート盤(セルロースコーティング録音盤)に録音された。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間の玉音放送は複数枚(テイク2は2枚組および3枚組)にわたって録音された。
作業は翌8月15日午前1時ごろまでかかって終了。情報局総裁下村宏および録音班は、坂下門を通って宮内省から退出する際に、玉音放送を阻止しようとする近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉らによって拘束・監禁された。録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀古賀秀正少佐の指示により、録音盤の捜索が行われた(宮城事件)[12]。録音盤は、録音後に侍従の徳川義寛により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫に、他の書類に紛れ込ませる形で保管されていたため発見されなかった。
事件鎮圧後、宮内省は1回目に録音した録音盤を「副盤(「副本」とも呼ばれる[14])」、2回目に録音した録音盤を「正盤(「正本」とも呼ばれる[14])」と定め、「正盤」は東京放送会館へ、「副盤」は第一生命館の予備のスタジオへと持ち込まれた[15]。
当日正午の時報のあと、重大放送の説明を行ったのは日本放送協会の放送員(アナウンサー)和田信賢である。
国際放送(ラジオ・トウキョウ)では平川唯一が厳格な文語体による英語訳文書(Imperial Rescript on the Termination of the War)を朗読し、国外向けに放送した。この放送は米国側でも受信され、1945年8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載されることとなった。
正午以降の玉音盤を再生した玉音放送は約5分であったが、その前後の終戦関連ニュース放送などを含む放送は約37分半であった。また、放送を即時に広く伝達するため10 kWに規制されていた出力を60 kW[注 7]に増力し、昼間送電のない地域への特別送電を行い、さらに短波により東亜放送を通じて中国占領地、満洲、朝鮮、台湾、南方諸地域にも放送された[16]。
玉音放送の予告は14日21時のニュースと15日7時21分のニュースの2回行われた。内容として「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後1時ごろに配達されるところもあること」などが報じられた。
特記なき文は、和田信賢によるアナウンス。
畏くも天皇陛下におかせられましては、万世の為に太平を開かんと思し召され、きのう政府をして、米英支蘇四国に対して、ポツダム宣言を受諾する旨、通告せしめられました。
畏くも天皇陛下におかせられましては、同時に詔書を渙発あらせられ、帝国が四ヶ国の共同宣言を受諾するのやむなきに至った所以を御宣示あらせられ、きょう正午、畏き大御心より詔書を御放送あらせられました。
この未曾有の御事は拝察するだに畏き極みであり、一億等しく感泣いたしました。
我々臣民は、ただただ詔書の御旨を必謹誓って国体の護持と民族の名誉保持のため、滅私の奉公を誓い奉る次第でございます。
謹んで詔書を奉読いたします。(詔書奉読)
1945年(昭和20年)8月15日のラジオ放送は下記の6回であった。
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず ひいて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何をもってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排擠 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うが如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎
玉音放送全文の現代語訳[18]。
私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。私は、帝国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。
そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、全ての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。
先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、正に日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は、元より私の本意ではない。
しかしながら、交戦状態も既に4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。
それ所か、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。
それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、更には人類の文明をも破滅させるに違いない。
そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)に詫びることができようか。
これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。
日本国民であって戦場で没し、職責の為に亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。
更に、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。
考えて見れば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。
あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。
然し、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いを堪え、永遠に続く未来の為に平和な世を切り開こうと思う。私は、ここにこうして、この国の形を維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごす事ができる。
感情の高ぶりから節度なく争い事を繰り返したり、或は仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、その為に人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒める所である。
正に国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。
あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動して欲しい。御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎
玉音放送の記録媒体であるレコード盤(玉音盤)には、宮内庁が保管する原盤と、戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の複製とがあるとされている[13]。
一般的に知られてきた玉音放送の音声は、終戦の翌年、GHQの命令で複製されたものを録音作業にあたったNHK職員が余分に制作し個人で保管していたもので、その後、NHKに渡されたものとされる[19][20]。NHKに渡された複製盤はその後さらにLPレコード化され、2015年時点ではLPがNHK浜松支局内のライブラリーに保管され[21]、2017年には同ライブラリーがNHKアーカイブス(川口本館)に統合されたことに伴い川口に移された(元の複製盤は行方がわかっていない)。
玉音放送は2回録音が行われたため「玉音盤」には正副の2組存在する[19]。玉音盤は昭和天皇の住まいで防空施設も兼ね備えていた「御文庫」に長らく収蔵されたのち三の丸尚蔵館に、その後宮内庁の倉庫に移された[19][22]。
そのうち、1回目に録音され、放送では使われなかった方の玉音盤(副盤)計7枚は1975年(昭和50年)、放送開始50周年記念事業の一環として、宮内庁からNHK放送博物館に移されたが、ひび割れなど時間の経過による劣化により再生不可能な状態となっていた[19]。現在は修復措置を施したうえ、窒素ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている。
宮内庁が所蔵する2回目に録音されたもう1組の玉音盤(正盤)計5枚についても劣化が進んでいたものの、2014年(平成26年)末に宮内庁が再生を試みたところ、2枚組で録音された音声の再生に成功した(3枚組はうち1枚が再生不可能)。その後デジタルリマスターが実施され、2015年(平成27年)6月30日には第125代天皇明仁、美智子、皇太子・徳仁親王(現・天皇)、秋篠宮文仁親王の4人がこの復元された音声を聞いたという[19][20]。原盤はこれまで公にされていたものより10秒ほど短い4分30秒であるが、従来の音源は再生や複製が繰り返されるうちに音が劣化していったものと推測されている[23]。宮内庁では戦後70年の節目にあたることから同年8月1日にこの原盤と復元音声、1946年(昭和21年)5月24日に放送された食糧問題に関する御言葉を録音した原盤も公開[24][25](これは1962年にフォノシートに収録され、同じものが1995年にCD化されている)、これに合わせる形で、御文庫の防空壕も1965年(昭和40年)以来となる内部の状況を写真や映像を公開した[19][20][23][26][27][28]。
広く知られている終戦詔書の他に外務省が作成したもう一つの詔書案がある。
8月10日の御前会議のあと、外務省政務局長の安東義良は東郷茂徳外務大臣に呼ばれ、詔書案を作成するよう極秘の指示を受けた。安東は詔書案を作成するのは内閣の仕事であることを認識していたが、クーデターの噂が流れるなか、もし総理大臣官邸が襲撃を受けるようなことになれば詔書案どころではなくなるため、それに備えて外務省が作成すると解釈してあえて「なぜ外務省が?」と問うことはしなかった。安東は詔書案を11日の朝に東郷大臣に渡したが、結局この詔書案が日の目を見ることはなかった。迫水久常もこの詔書案があることを知らなかった。戦後になってから安東が蔵書を整理していると、偶然本の間に挟まっている詔書案の下書きを発見したことにより、存在が明らかになった。安東は「案を大臣に渡す前に、大東亜省次官の田尻愛義に見せて賛同を得た」と言っているが、田尻は戦後に読売新聞社のインタビューに対し、「そのことについては記憶がない」と述べている[34]。
安東義良が作成した詔書案
敕語
朕󠄂ハ東亞ノ安定ヲ確保シ、以テ世界ノ平󠄁和ニ寄與シ、列國トノ交󠄁誼ヲ篤クシ、萬邦󠄂共榮ノ樂ヲ偕ニセンコトヲ冀ヒタルモ、帝󠄁國ノ自存自衞ノ爲止ムナク米英兩國ト釁端ヲ開クニ至リ、茲ニ四年ニ垂ントス
此閒󠄁朕󠄂カ勇󠄁武ナル陸海󠄀將兵ハ挺󠄀身國難󠄀ニ赴キ、朕󠄂カ百僚有司ハ碎身職務ニ勵精󠄀シ、朕󠄂カ忠誠󠄁ナル衆󠄁庶ハ困苦缺乏ニ耐ヘテ其本分󠄁ヲ盡シタルニ拘ラス、戰遂󠄂ニ利アラス、戰爭ハ益󠄁〻慘烈トナリ朕󠄂カ赤子ノ犧牲日ニ月󠄁ニ增大シ將ニ國本ヲ危󠄁クスルニ至レリ、而モ交󠄁戰相手國ノ流血モ止ル處知ラス人類󠄀ノ不幸之ニ過󠄁キル無シ
朕󠄂ハ戰爭ノ慘禍󠄀ヨリ人類󠄀ヲ救フノ道󠄁ハ卽時干戈ヲ收ムル外無キヲ思ヒ、敢テ米英支及󠄁蘇聯ノ參加セル共同宣言ノ條件ヲ受諾スヘク決意󠄁シ、朕󠄂カ政府ニ命シ交󠄁戰各國トノ交󠄁涉ニ當ラシム
帝󠄁國ノ拂フ犧牲ハ甚大ナリ、來ラントスル艱難󠄀ヲ克服󠄁シテ悠久ナル皇國ノ生命ヲ護持スルハ朕󠄂カ忠良ナル衆󠄁庶ニ信倚スル所󠄁ナリ、汝有衆感情󠄁ノ激發ニ動セス、冷靜苦難󠄀ヲ忍󠄁フノ眞勇󠄁ヲ發揮シ、一𦤶協力平󠄁和ト復興ノ大業ニ邁進󠄁センコトヲ期󠄁セヨ — 安東義良、読売新聞編『昭和史の天皇 4玉音放送まで』中公文庫 p.472 2012年
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