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日本の武家 ウィキペディアから
桓武平氏の一門、坂東平氏の流れで、坂東八平氏のひとつに数えられる。鎮守府将軍・平良文の孫で、桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもある。秩父平氏の直系で、多くの支流を出した名族で、「武蔵国留守所総検校職」として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有し、秩父氏館(吉田城)を居城とした。秩父氏一門の諸氏族は主に「重」の字を通字とした。
初代の平将恒は、武蔵介・平忠頼と、平将門の娘・春姫との間に生まれ、武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称した。秩父地方は、産出した銅が708年に朝廷へ献上されて「和銅」に改元されるなど、古代より良質の馬や銅の産地として栄えた土地であった。
将恒の父・忠頼は平将門の従兄弟にあたり、将門と対立した平繁盛を仇敵と呼び、将門の娘・春姫を妻としていることからも、忠頼の父・良文は将門と親しかったものと思われ[注釈 1]、忠頼の息子である将恒の「将」の字も将門から引き継いだものと思われる[要出典]。
将恒と正室・武蔵武芝娘との間に生まれた秩父武基は、前九年の役に従軍して秩父別当に就任した。さらにその息子である秩父武綱は前九年の役で戦功を挙げた源有光の長女を妻とし、後三年の役に従軍して先陣を務めたことで秩父氏は発展し、秩父郡吉田郷の秩父氏館(吉田城)に居住した。武綱の息子である秩父重綱の代には、武蔵国国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職」に就き、武蔵国の在庁官人のトップとして、国内の武士を統率・動員する権限を持ち、一族は大いに発展した。秩父重綱の長男、重弘の子は畠山氏、二男である重隆の孫は河越氏を称し、三男の重遠は高山氏、四男の重継は江戸氏を称した。こうして武蔵国各地に移った一族は平氏の血筋を武器に[要出典]在地豪族と婚姻関係を結んで勢力を拡大し、秩父平氏(秩父党)を形成していった。
家督を継いだ秩父重隆は、下野国の藤姓足利氏や上野国の新田義重、その保護者・同盟者である源義朝と争っていた。また義朝と結んだ甥の畠山重能とも家督を巡って対立していた。重隆は源義賢を娘婿に迎えて対抗したが、両人は1155年(久寿2年)に源義平に討たれた(武蔵国大蔵合戦)。
1156年(保元元年)の保元の乱で、河越重頼は源義朝の下で平家と戦った。しかし1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝が敗死。その後は平家に従った。
1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵後、秩父氏の一族ははじめ平家方につき、畠山重忠・河越重頼・江戸重長は衣笠城合戦で三浦義明を討ち取った。源頼朝が再び安房から北上して武家政権を打ち建てようとした時も、江戸重長らが下総で頼朝軍を足止めしている。しかし、葛西清重の奔走によって畠山重忠・河越重頼・江戸重長らは頼朝に服属し源氏方として平家と戦い、鎌倉幕府の設立に尽力した。
河越重頼は娘(郷御前)を頼朝の弟である源義経に嫁がせることに成功した。しかし、義経が失脚すると重頼・重房親子もこれに連座して討伐され、秩父氏惣領の地位は畠山重忠に与えられた。奥州合戦では、源頼朝に従い畠山重忠が先陣を務めたほか、江戸重長も従軍している。
1204年(元久元)、稲毛重成の
南北朝時代には北朝側についた河越直重が平一揆を結成し、武蔵野合戦や笛吹峠の戦いで戦功を挙げた。遠縁である畠山国清と協力し、鎌倉府で重要な地位を占め、武蔵国の実権を取り戻した。一族は室町幕府から相模国守護や伊豆国守護に任じられた。しかしその後解任された。1368年(正平23年/応安元)に武蔵平一揆の乱を起こしたが敗れて伊勢国に逃亡した。
江戸氏は南北朝の争乱において、初めは新田義貞に従って南朝側につき、後に北朝、足利尊氏に帰順して鎌倉公方に仕えた。北朝に帰順した後は畠山国清の命により矢口渡で新田義興謀殺に加わった。その後江戸氏も武蔵平一揆で衰退したが、戦国時代において庶流が世田谷城主吉良氏の家臣として古河公方、後に後北条氏に仕えて命脈を保った。後北条氏滅亡後は徳川家康の家臣となり、姓を喜多見氏に改めた。喜多見重政は徳川綱吉の寵臣として譜代大名となり、喜多見藩を立藩、藩主家となる。しかし、元禄2年(1689年)2月2日に突然改易され、大名である喜多見氏は滅びた。
秩父重綱の長男、重弘の息子である重能、有重は、それぞれ畠山氏、小山田氏を称した。畠山氏の子孫には奥州の豪族である浄法寺氏がおり、有重の三男、重成は稲毛氏を、四男の重朝は榛谷氏を称した。
重綱の次男、重隆の嫡男である能隆は葛貫氏を称し、能隆の嫡男の河越重頼は河越氏を称した。重綱の三男、重遠は高山氏を称し、子孫には、新田義貞の家臣である高山重栄、キリシタン大名・高山右近、幕末の高山彦九郎がいる。
重綱の四男、重継は江戸氏を称し、武蔵の豪族として栄えた。子孫には、徳川綱吉の代に大名に列した喜多見氏や、後北条氏に仕えて近世まで残った蒲田氏などがいる。
重綱には他にも、小宮五郎、塩原重治の息子がいた。
重綱の弟である基家は河崎氏、或いは小机氏を称し、孫の重国の代に渋谷氏を称した。この一族は、本拠地が相模国であったため、本家から独立したのである。渋谷氏は相模、九州、陸奥に勢力を持ち、特に九州渋谷氏が有名である。この氏族の中から東郷平八郎が出た。重国の弟の重実は中山氏を称した。
重綱の叔父で、武基の兄である武家は高麗氏を称した。武家の息子である忠兼は、白河氏を称し、その息子の親忠は赤木氏を称した。
前九年の役で戦死した武常の曾孫である朝経・清重は、それぞれ豊島氏、葛西氏を称し、前者が武蔵、後者が陸奥の大族として発展したのである。
留守所とは、遙任などで国司の居ない国衙のことである。在庁官人が実務を代行した。在庁官人の仕事の1つは治安維持である。秩父氏は「武蔵国留守所総検校職」(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)に就いたことで武蔵国の在庁官人のトップとして、国内の武士を統率・動員する権限を持っていた。武蔵七党などの武士団の顔役であった。1113年(永久元)、横山庄を巡る主権争いから、相模国の愛甲庄を統治していた内記大夫を討ったことで、横山党が院から討伐を受けると、秩父重綱は相模国の三浦為継、鎌倉景正らと共に命令を実行したが、横山党は源為義の保護の下に危機を脱した。横山隆兼の娘は秩父重弘の妻となり畠山重能・小山田有重を産む。さらに隆兼の孫娘のうち一人は三浦一族の和田義盛、一人は高座渋谷の渋谷高重の妻となった。
茂木和平『埼玉苗字辞典』による留守所総検校職についての見解では、日本歴史大辞典に「総検校職とは、国検の時に文書に連署したりする国衙の在庁官人で、国府に在勤した公吏職者のこと」とあるが、留守所総検校職が置かれたのは武蔵国と大隅国だけであった。この職が国衙在庁官と同じならば、諸国六十余州にもあってよさそうである。また、秩父重綱は出羽国に居住しており、かりに、本貫地の秩父郡吉田郷に居住していたとしても、多摩郡府中の国府はあまりにも遠方すぎる。当時の武蔵国府の在庁官は日奉氏・物部氏等であって、代理人に秩父氏の名は見えない。実は、この職は、鉱山鍛冶師の元締めであり、多くの盲人や眼病者を庇護し支配していたのである。近世の盲官を検校と称すのと同じである。つまり、京都の鋳物師総元締の真継氏より任命されて、東国の留守所の職を務め、鍛冶・鋳物・石工に至る職業の加判をしていたであろう、と考えられるのである。さらに、鍛冶頭領畠山重忠滅亡後、河越氏は足立郡川口郷善光寺付近へ移住して鍛冶鋳物集団を支配していた。それゆえに、河越修理亮重資は総検校職を所望したのであろう、と考えられるのである。
反面、在庁官人の役職は家督と結びついていた為、同族内の争いの元となることが多かった。秩父氏においても、河越氏と畠山氏の争いの火種となった。
1231年(寛喜3年)には形骸化していたとされる。『吾妻鏡』によると、河越重員は北条泰時によってこの職に任じられた。しかし武蔵国の実権は北条氏得宗が握っており、儀礼的な職務になっていたとの意見がある[3]。
秩父から入間川(現荒川)を通じて、東京湾に至る川筋は、秩父氏の一族が支配していた。河越の河越氏や、豊島氏、江戸湊と浅草を支配する江戸氏などである。また入間川とつながる利根川水系の一部や国衙のある多摩川下流などにも勢力を伸ばしていた。葛西城の葛西氏や、登戸の稲毛氏などである。
茂木和平著埼玉苗字辞典によると、当時の入間川は、川越市、狭山市を流れる現在の入間川ではなく、片柳村(さいたま市、旧大宮市)および三室村(さいたま市、旧浦和市)より流れて来て、前川村(川口市)を経て、川口宿金山町および善光寺(川口市)の下を流れて荒川に合流する芝川で、古代の秩父川(別名荒川)である。鍛冶集団河越氏一族は良質の砂を求めてこの入間川のほとりの川口へ移住したのである。
源頼朝は下総国と武蔵国の国境で、江戸重長に行く手を阻まれた。江戸氏や葛西氏の協力なしには、川を渡ることが出来なかった。『太平記』によると、室町幕府転覆を謀り多摩川を渡ろうとした新田義興は、遠江守江戸高重と竹沢右京亮の協力で謀殺されたとされる。
※ 凡例 - 実線は実子、点線は養子
武蔵国には、本項で詳述した秩父氏のほかに、以下の流れが有る。
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