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日本のプロレスラー、実業家 (1969-) ウィキペディアから
秋山 準(あきやま じゅん、本名:秋山 潤(読み同じ)、1969年10月9日 - )は、日本の男性プロレスラー、YouTuber。DDTプロレスリング所属。血液型AB型。大阪府和泉市出身。
なお、プロレスリング・ノアに移籍以前の全日本プロレス時代はリングネーム「準」の下部にある「十」の右下に「、」をつけていた。
かつては対戦相手の負傷箇所を非情なまでに痛めつけるファイトスタイルから「氷の秋山」、「キラー秋山」等と呼ばれた。全日本、ノア時代には団体トップでありながら他団体マットにも積極的に参加していた。
秋山は幼稚園児の頃、生家から自転車で行ける海岸から埋め立て地にかかっていた大きな鉄橋のアーチに上って降りられなくなって、海上警備員に見つかって親に怒られたことがある。小学生になっても秋山は友達を殴って母親と菓子折りを持って謝りに行き、後で家の前にあった桜の木に括り付けられるなど、秋山のやんちゃぶりは変わらなかった。小学生の頃から自衛隊の駐屯地で剣道を習い始め、勉強も「わりとやっていた」と文武両道の幼少期を過ごした。プロレスは、秋山の祖父が好きで一緒に大阪府立臨海スポーツセンターへ見に行っていた。時代的には1970年代後半であり、ジャンボ鶴田のファイトを見て面白かったという記憶があるが、この頃はプロレスラーになろうとは全く考えていなかった。秋山も、小学4年生頃までは顔を濡らすことさえも恐怖心を感じて頭を洗う時にシャンプーハットが必須であるほど水が苦手であったが、ある日叔父に流れるプールに無理やり連れて行かれてプールに落とされた時に案外水は平気であると感じ、いつの間にかプールに入ることが大好きになった[1]。
中学時代は、水泳部に所属していた。高校に進学してからも水泳を続けようと思っていたが、高石高校は水泳が盛んではなかったためレスリングを高校進学後から始めた。高校に進学したら柔道を行うつもりであったが、当時中学生だった友達3人と高石高校の柔道部の見学に行ったところ、なぜか顧問を務めていた白石俊次が柔道部ではなく、レスリング部の説明をしていた。秋山は入学後も最初は柔道部に入っていたが、徐々にレスリングの練習をやるようになり、最終的にレスリング一本に絞った。これについて秋山は、後に「たぶんレスリング部の部員が少なかったから、オレらを入れたかったんだろうね。特に重量級がいなくて、オレはでかかったからね」と話している。週休2日で放課後練習のみの柔道部と異なり、始業前、昼休み、放課後まで練習があり、休みは年3、4日しかないレスリング部で鍛えられた。フリースタイル81kg級でインターハイや国体に出場するなど、素質とセンスの高さを見せた。白石はまた、自身がプロレスラーになりたかったことから秋山に対してことあるごとにプロレス入りを勧めるなどしていた。
専修大学レスリング部時代(3年上の先輩に中西学がいる、柔道部の高阪剛は同級生で友人。)は1年時に全日本学生選手権で準優勝を果たす他、4年時にはレスリング部の主将も務めた。2年時には本田多聞、3年時には中西に敗北するなど後のプロレスにつながる物語ができていた。1年生時は4年生の中西と同部屋だったが、秋山は後のインタビューで「オレの部屋は中西先輩がすごく優しく気を使ってくれて、部屋にいやすくしてくれたから良かった。そんなに苦しさは感じなかったよね。中西先輩には世話になったよ。練習でもスパーリングパートナーだったし、オレはいまでも中西先輩に対して一切悪い気持ちはないからね。大学生活で1年生の頃が一番楽しかったって言えるぐらい」と語っている。大学4年になってもプロレス入りするという発想はなく、大阪にある会社から内定が出たため、そこでチームを作って社会人でもレスリングを続けようかと思っていた[1]。
しばらくしてから秋山はバスの中で吊革にもたれかかり、疲れてうなだれるサラリーマンの姿を見て自分はああなれないと悟り、プロレスラーとして生きることを決意した。全日本プロレス入門へのきっかけとなったのはジャイアント馬場自らのスカウトによる。大学4年生時の7月のある日突然、当時専修大のレスリング部ヘッドコーチを務めていた松浪健四郎に「スーツを着て赤坂のキャピトル東急ホテルに来い」とだけ言われたとのことで、ホテルに馬場夫妻がいる事やスカウトの話である事はまったく知らなかったという[2]。秋山自身がジャンボ鶴田のファンだったこと、あまり裕福でなかったにもかかわらず自身を大学に進学させてくれた親に金銭的な面で楽をさせたいという思いもあり、馬場本人からのスカウトに感動して全日本プロレスへ入門した[1]。秋山が全日本プロレスへ入門することを知った専大OBの長州力は「何で秋山スカウトしなかったんだ?」と、同じく専大OBで当時新日本プロレスのスカウトも兼務していた馳浩に尋ね、「すいません、就職すると鈴木監督に聞いてました」と答えた所、「それはまともだ。口説き落とした馬場さんが凄い」と語っていた。
秋山は入門当初から「ジャンボ鶴田二世」として期待され、在学中の1992年2月3日に全日本プロレス入団会見に出席した。他の格闘技からの転向組を除く新人選手の会見が行われるのは、鶴田以来19年ぶりのことであった。入門してからの練習で一番きつかったのは受け身であり、技を受けてはいけない競技であるレスリングの出身者であった秋山にとって、何百本も受け身を取ることはダメージで息が詰まる程の負担であった。
1992年9月17日、秋山は後楽園ホールのセミファイナル(45分1本勝負)・小橋健太戦でデビューした。他の若手は地方でひっそりと初リングを踏むことがほとんどであった中、異例の厚遇であった。同年末の『'92世界最強タッグ決定リーグ戦』には病気療養中の鶴田の代役として出場を果たす(パートナーは田上明)。1993年1月にはエース候補の登竜門である七番勝負も組まれ、確実にトップ選手への階段を駆け足で登って行ったように見えたが、秋山の中では”2年目のスランプ”であった。ようやく「できる」と感じるようになったのは1995年1月のアジアタッグ奪取前後であった[1]。同期の大森隆男や、三沢光晴とのタッグでタイトルを獲得し、また小橋とのタッグチーム「バーニング」で活躍するなど、団体の看板レスラーの一人に成長する。
2000年7月、秋山は全日本集団離脱からプロレスリング・ノアへ移籍。以前はイメージカラーのブルーのショートタイツを身に付けていたが、ノア移籍後は白主体へと一新した。三沢や小橋のパートナーという位置付けから独立し、若手を率いて「STERNNESS(スターネス)」を結成。旗揚げ戦初戦のメインで小橋とタッグを組み、1本目を三沢から、2本目を田上から取った。翌日のメインでの小橋とのシングルでも勝利を収める快挙を見せるなど、以降は団体の中心選手として活躍する。
2001年7月27日、日本武道館で三沢を破りGHCヘビー級王座を奪取。念願のシングル王座初戴冠を果たし3度防衛に成功する。2002年9月には齋藤彰俊とのタッグでGHCタッグ王座も獲得した。
全日本時代とは異なり、他団体との交流戦にも積極的に出場した。新日本プロレスの永田裕志と団体の垣根を越えた信頼関係を築き、2002年1月の新日本東京ドーム大会ではメインでGHCヘビー戦を行い、永田に勝利した。2003年には新日本のG1クライマックスに参戦し決勝戦に進出するも、天山広吉に敗れた。
2004年3月には、団体の管理する正式ベルトの名称である『GHC』を模した白GHC(グローバル・ハードコア・クラウン)ベルトを創設した。
2005年10月にはWRESTLE-1 GRAND PRIX 2005に出場し、2回戦でボブ・サップとの対戦が実現するが敗れる。
2006年1月22日、GHCヘビー級選手権者である田上を後頭部へのロージャンピングニーで下し、3年9か月ぶりにGHCヘビー級選手権者(第9代)へ返り咲いた。同年9月9日、丸藤正道に完璧首固めで敗れ(27分29秒)、王座から陥落した。秋山は試合前に菊地毅と負けたら前座に戻ると約束していたため、翌月のシリーズでは6年3か月ぶりに青タイツで登場した。
2008年7月、秋山は東京スポーツ紙上で、力皇猛が森嶋猛の保持するGHCヘビー級選手権に挑戦する際、タッグパートナーの力皇が勝てなければ坊主にすると公約してしまった(自分がうっかり言ってしまったことを記者によって記事にされてしまう)。結果力皇は王座獲得に失敗、8月のシリーズ開幕前に公約を守って坊主頭にした。
2009年3月、佐々木健介が保持していたGHCヘビー級王座に挑戦し勝利。約2年半ぶりに3度目の王座に返り咲いた。翌月、潮崎豪と防衛戦を行ない勝利する。5月17日には、KENTAと初のGHCシングル王者同士の一騎討ちを行い、"元祖"スターネスダストαを解禁して勝利した。
6月14日、ヘルニアのため同王座を返上、以降の大会を欠場すると発表された。同年12月23日の丸藤正道プロデュース興行(ディファ有明)において橋誠戦でリングに復帰。リストクラッチ式エクスプロイダーで勝利した。橋は同年末付でノアとの契約が満了しフリーとなっており、師匠でもある秋山からの花向けの師弟対決となった。
2010年3月 - 5月、ノア初のシングルリーグ戦となるグローバル・リーグ戦に出場。Aブロック1位となり、決勝戦で高山善廣とノアでは初のシングル対決を行うが、エベレストジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れ準優勝となった。
2011年春にチャンピオン・カーニバルに出場。秋山にとって11年ぶりの全日の登場となった。また、ノアのグローバル・タッグ・リーグで斎藤彰俊とタッグを組んで優勝する。
9月、永田主催の「BLUE JUSTICE. 3 〜青義〜」のメインタイトルマッチで永田とタッグを組んで出場、試合中に永田と一緒に腕固めを仕掛けた際に白目を剥いて行い、観客を湧かせた。
10月23日、全日本両国大会にて諏訪魔をスターネスダストαで破り、全日本時代には獲得できなかった三冠ヘビー級王者となる。その後、生やしていた頭髪を剃り落とし、スキンヘッドとなった。
12月、プロレス大賞殊勲賞を受賞する。
2012年1月22日、斎藤とタッグを組んで新日本プロレスに流出したGHCヘビー級タッグベルトを奪還すべく、BAD INTENTIONSと対戦。これに勝利し、三冠とGHCタッグの四冠王者となる。
7月22日のノア初の両国国技館大会ではTNAのマグナス、サモア・ジョー組の挑戦に敗北。齋藤彰俊と共に保持していたGHCタッグのベルトを流出させてしまう。
三冠ベルトは大森、武藤敬司、太陽ケアの挑戦を退け4度の防衛を果たしたが、8月26日、船木誠勝に試合時間4分37秒で敗れて手放した。
12月、年内をもってノアとの専属契約満了退団が発表され、12月24日有明大会を最後に退団した。
2013年1月、決起集会を開き、小橋から「バーニング」を託され潮崎、金丸義信、鈴木鼓太郎、青木篤志を率いて再結成した。1月26日、全日本プロレス「2013新春シャイニング・シリーズ」の最終戦に5人で来場し、参戦を発表した。4月にはチャンピオン・カーニバルに優勝する。
7月5日、秋山を含むバーニングのメンバー5名が全日本プロレス入団を発表する。
2014年6月6日、新会社を設立し7月1日付けで社長に就任すると発表された[3]。その後新会社の社名が「オールジャパン・プロレスリング株式会社」と決まり、代表取締役社長に就任し, 7月1日より全日本の運営を引き受けた[4]。
2015年9月26日、曙を破り王道トーナメント優勝を果たす。
2016年5月4日、WRESTLE-1後楽園ホール大会に来場。武藤から8月11日のWRESTLE-1横浜文化体育館大会での対戦を要求され、受諾。
2017年8月27日、両国国技館で8人タッグマッチを行う。大森、岩本煌史、田中稔とのタッグでジョー・ドーリング、ゼウス、ボディガー、鼓太郎とのタッグと対戦。大森がアックスボンバーでボディガーを仕留めて勝利[5]。このカードについて秋山は、「ごった煮感が否めない」と言いつつ、だからこそ何か新しいものが生まれるかもしれないとの期待もあった。しかし、試合が始まると岩本が鈴木にケンカ腰で向かい、試合が終わっても突っかかって来る岩本に対して秋山は、「いいよ、サシでやってやる。受けるか受けないか、あのガキ次第だよ」と新たな火種が生まれた[6]。
2018年に入り、盟友の大森、前年にプロレス大賞新人賞を受賞した青柳と主力選手が次々に負傷欠場した。これを受け一度は「引退」したチャンピオンカーニバル復帰を決意、自身のツイッターで「約束破っていいですか?」とつぶやき、2年ぶりにチャンピオンカーニバルにエントリーされた。
9月17日、後楽園ホールで開催された王道トーナメント1回戦で、ジェイク・リーに敗れた際に負傷。「左橈骨頸部骨折」と診断され、21日以降のこのシーズンを欠場することが発表された[7]。
2019年7月8日付けで社長職を退任。秋山の後任として、オーナーとして携わってきた福田剛紀が新社長に就任した。秋山は取締役に留まりつつも団体初のゼネラルマネージャーに就任し、現場に専念することとなった[8][9]。
2020年1月16日のプロレス大賞授賞式の出席をもって取締役ゼネラルマネージャーを退任し、肩書きのない所属選手に戻ったことを明かしている[10][11]。
3月2日、WWEパフォーマンスセンターのゲストコーチとして秋山が招聘されたことが発表された。期間は5月12日から22日まで[12]。しかしながら、新型コロナウイルスの感染拡大により中止となった。
5月9日、DDTプロレスリングのゲストコーチに就任。
6月27日にリングでの存在感、指導力を評価され、DDT新宿FACE大会において年末までの予定でDDTにレンタル移籍することが正式発表された[13]。大石真翔、渡瀬瑞基、岡谷英樹とユニット秋山軍(仮)結成。後にユニット名を「準烈」とする。
8月15日、青木篤志メモリアル興行として全日本プロレスに参加。これが秋山の全日本プロレス所属として最後の出場となった。
11月~12月に開催されたD王 GRAND PRIX2021にて優勝。
12月31日付をもって全日本プロレスとの選手契約が終了し、2021年1月からは引き続きDDTにはコーチならびにフリーランスとしてレギュラー参戦している[14]。
2021年2月12日、プロレスリングNOAH武道館大会にて丸藤とタッグを組み参戦。
2月14日、DDTカルッツかわさき大会にて遠藤哲哉の保持するKO-D無差別級王座に挑戦し勝利、同王座を初挑戦初戴冠する。
2月15日、DDTへの正式入団及び同団体のヘッドコーチ就任を発表。
3月28日、樋口和貞を破り王座初防衛に成功[15]。その後、男色ディーノ、HARASHIMAから防衛を果たすも、8月21日の川崎大会で竹下幸之介に敗れ手放した。
10月12日、チーム・オリンピアン(谷津嘉章・彰人・大和ヒロシ・中村圭吾)の持つKO-D8人タッグ王座に挑み敗戦、準烈を解散する。12月7日、遠藤哲哉が新たに結成するバーニング(第4次)に参謀役として参加。
2022年8月20日、キャリア初のミックスドマッチで赤井沙希と組み、クリス・ブルックス&朱崇花と対戦。合体技を決めるなど好連携を見せ勝利した。
12月4日、DDT後楽園ホール大会で王者ジョーイ・ジャネラからの指名を受けDDT EXTREME王座に挑戦。キャリア初のTLC戦を戦い抜き王座を奪取。その後もスーパー・ササダンゴ・マシン、アントーニオ本多、彰人と挑戦者側からの変則ルールを受けて防衛を続ける。
長年使い続けた「SHADOW EXPLOSION」を変えたとき、「大会場に映える曲」と発言していた。実際にこの2日後の10月8日に新日本プロレス東京ドーム大会に出場している。2014年以降は「SHADOW EXPLOSION(ヴォーカル入り)」と「STERNNESS」を使い分けている。
DDTにレンタル移籍後は「『SHADOW EXPLOSION』って一番気合入ってた時なんですよ。落ち着いてきて『STERNNESS』に変えたけど、『SHADOW EXPLOSION』って一番カッカカッカ前に出ていた曲なんで、じゃあそれでいこうと。」[16] という理由で「SHADOW EXPLOSION」を使用。2021年のNOAHへのスポット参戦、及びDDTでも2022年より再び「STERNNESS」を使用。
普段は冷静沈着な試合運びをみせるが、ビッグマッチでは短期決戦に終わった試合や、一瞬の隙を突かれて敗れた試合が幾度かある。
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