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豊田市の北東部に位置し、稲武地区(旧東加茂郡稲武町の町域にほぼ相当する)に属する。
矢作川支流である名倉川の左岸にあり、黒田貯水池より東進してきた黒田川が名倉川に合流する付近の河岸段丘上に位置する。南北に長い町域を持ち、最北部では、名倉川を挟んで東側に隣接する稲武町・西隣の桑原町と共に市街地が構成され、稲武地区の行政・経済・文教の中心地となっている[注 1]。南に向かうにつれて山野は深くなっていき、町域南部は北設楽郡設楽町と接する。
北部では町域を国道153号が東西に貫く。沿路には往時の飯田街道の頃より継立場があったが[4]、現在でもその継承施設ともいえる道の駅どんぐりの里いなぶが立地し、年間を通じて利用者・利用車両が多い。また隣接施設として「稲武温泉どんぐりの湯」、「稲武どんぐり工房」などがある。城山と呼ばれる丘陵(標高550m)を城山トンネルが貫通し、それを過ぎると稲武大橋が名倉川にかかり、稲武町へと抜けていく。
武節町は「町」の部分をまちと呼ぶ、豊田市域の町名では数少ない地域のひとつであるが、これは当町の「町」の意が近代以降の町丁のそれと由来を異にするためである。かつて、地方において人家の集まるところは町村と呼ばれることがあり、それに武節の名[注 2]を冠した武節町村という呼び方が江戸期にも現れている[5]。
旧稲武町、旧名倉村、旧津具村、豊根村、旧富山村といった北設楽郡北部の町村、及び長野県下伊那郡根羽村を含めた一帯は、古来より加茂郡に所属していたとされる。中世後期には加茂郡足助荘のうちにあり、当該地域の神社には足助荘の古名が記された棟札がいくつか残されているといい、棟札からは武節郷などの郷名も伝わっている[8]。当該地域の郡籍変更の時期については、1641年(寛永18年)頃[9]・1678年(延宝6年)頃[10]などとされる[注 3]。
武節郷の範囲は現在の稲武地区域の大部分に相当すると考えられ、名倉川両岸の11の村々が所属していた。室町時代には土岐氏流菅沼氏の支配下にあり、戦国期にかけては武田氏・今川氏・松平氏による、当郷を巡っての攻防が繰り返された[5]。天正期には武節郷の11ケ村の大庄屋が武節町村に置かれていたというが、1636年(寛永13年)に生じた武節町村と稲橋村の争論が元となり[4]、武節町・小田木・川手・黒田・桑原・御所貝津の6ケ村が川西組、稲橋・大野瀬・押山・夏焼・野入の5ケ村が川東組に分けられる。川西組には武節町村に庄屋山口惣兵衛が置かれたが、不正を働いたかどで三河代官鳥山精元に罷免され、以後は各村に庄屋が置かれたという[5]。
2019年(令和元年)7月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
国勢調査による人口の推移
2005年(平成17年) | 301人 | [11] | |
2010年(平成22年) | 270人 | [12] | |
2015年(平成27年) | 253人 | [13] |
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[14]。
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