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日本の江戸時代の武士、第8代江戸幕府征夷大将軍 ウィキペディアから
徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府の第8代将軍(在職:1716年 - 1745年)。江戸幕府の中興の祖とも呼ばれている。和歌山藩の第5代藩主。初代将軍家康の曾孫。4代将軍家綱、5代将軍綱吉のはとこにあたる。
徳川吉宗像(徳川記念財団蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 貞享元年10月21日(1684年11月27日)[1][2] |
死没 | 寛延4年6月20日(1751年7月12日)[3](66歳没) |
改名 | 松平頼久→頼方→徳川吉宗 |
別名 |
幼名:源六 通称:新之助 渾名:米将軍、八十八将軍、八木将軍 |
戒名 | 有徳院殿贈正一位大相国(法号) |
墓所 | 東叡山寛永寺円頓院 |
官位 |
従四位下・右近衛権少将兼主税頭、 従三位・左近衛権中将 参議、権中納言、 正二位・内大臣兼右近衛大将、右大臣 贈正一位・太政大臣 |
幕府 |
江戸幕府 8代征夷大将軍 享保元年(1716年)8月13日 - 延享2年(1745年)9月25日 |
藩 | 越前葛野藩主→紀伊和歌山藩主 |
氏族 | 紀州徳川家→葛野松平家→紀州徳川家→徳川将軍家 |
父母 |
父:徳川光貞 母:浄円院 養父:徳川頼職、徳川家継 |
兄弟 | 綱教、次郎吉、頼職、吉宗、栄姫(上杉綱憲正室)、光姫(一条冬経室)、育姫(佐竹義苗正室)、綱姫 |
妻 |
御簾中:真宮 側室:深徳院、深心院、本徳院、覚樹院、おさめ、お咲、他 |
子 |
家重、男子、宗武、源三、宗尹、芳姫 養子:宗直、竹姫、利根姫 猶子:尊胤入道親王 |
※ 日付は、旧暦表示
貞享元年(1684年)10月21日[1][2]、紀州藩主徳川光貞の末男(四男)として城下の吹上邸において生まれる[注釈 1]。母は巨勢利清の娘・紋子。和歌山城の大奥の湯殿番であった紋子は、湯殿において光貞の手がついたという伝説がある。
幼年は家老・加納政直の元で育てられた。当時、父親が「四十二の二つ子(四十一のときに生まれた子供)」では子供は元気に育たないという迷信があった。そのため、一旦和歌山城中の松の木のそばに捨て、それを政直が拾うという体裁を取った[注釈 2]。加納家でおむつという乳母を付けられ、5歳まで育てられた。次兄・次郎吉が病死した後は名を新之助と改め、江戸の紀州藩邸に移り住む。幼い頃は手に負えないほどの暴れん坊だった。
元禄9年(1696年)末、13歳で従四位下右近衛権少将兼主税頭となり、松平頼久(よりひさ)と名乗る。同時に兄の頼職も従四位下左近衛権少将兼内蔵頭に任じられている。 翌元禄10年(1697年)4月、紀州藩邸を訪問した将軍徳川綱吉に御目見し、越前国丹生郡内に3万石を賜り、葛野藩主となる。またこれを機に名を頼久から松平頼方(よりかた)と改めた。同時に兄の頼職も同じく越前国丹生郡内に3万石を賜り、高森藩主となっている。
父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄たちに対し、頼方は次の間に控えさせられていたが、老中大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が叶った、と伝わる。しかし兄の頼職とは叙任も新知も石高までもが並んでいるため、兄と差をつけられていたという話は疑わしい。なお、葛野藩は家臣を和歌山から派遣して統治するだけで、頼方は和歌山城下に留まっていた。同地では「紀伊領」と呼ばれていた。派遣された家臣も独立した葛野藩士という身分ではなく、紀州藩の藩士である。
宝永2年(1705年)に長兄である藩主・綱教が死去し、三兄・頼職が跡を継ぐ。この際、頼職が領していた高森藩は幕府に収公された。後に3万石の内、1万石分が加増編入されたため葛野藩は4万石となった。
しかし同年のうちに父光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州家を相続し藩主に就任する。藩主に就任する際、綱吉から偏諱を賜り、(徳川)吉宗と改名する。紀州藩相続時に葛野藩領は幕府に収公され、御料(幕府直轄領)となった。
宝永3年(1706年)に二品貞致親王の王女真宮(理子)を御簾中に迎えているが、宝永7年(1710年)に死別した。
宝永7年(1710年)4月にお国入りした吉宗は、藩政改革に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図る。自らも木綿の服を着て率先した。2人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害である1707年宝永地震・津波の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。また、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めている。
享保元年(1716年)に将軍徳川家継が8歳で早世し、将軍家の本家血筋(徳川家康の三男秀忠の男系)が絶えた後を受け、御三家の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代征夷大将軍に就任した、と一般的には説明されている。
ただし、実際には館林藩主で家継の叔父に当たる松平清武とその子で従兄弟の松平清方と、この時点では徳川家光の男系子孫は存在していた[注釈 3]。しかし、館林藩では重税のため一揆が頻発して統治が安定していなかった上、清武は他家に養子に出た身であり、すでに高齢だったという事情により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心はあまりなかったと言われている(詳しくは清武の項目を参照)。
御三家筆頭とされる尾張家では、当主の4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太が正徳3年(1713年)頃に相次いで死去した[注釈 4][注釈 5]。そのため吉通の異母弟継友が尾張藩6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛家熙の娘の安己君[注釈 6]と婚約し、間部詮房や新井白石らによって引き立てられており[注釈 7]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反新井の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。
吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、綱吉の館林藩、家宣の甲府藩は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩・絶家にされ、甲府家の家臣は幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君(家康)から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから加納久通・有馬氏倫ら大禄でない者を40名余り選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。この40人余りは、吉宗のお気に入りを特に選抜したわけではなく、たまたまその日当番だった者をそのまま帯同したという[6]。こうした措置が、側近政治に反感を抱いていた譜代大名や旗本から好感を持って迎えられた。
将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人間部詮房や新井白石を罷免したが、新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。
吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之を老中に任命して財政再建を始める。定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟の迅速化のため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。また、大奥の整備、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行う。またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した。また、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。しかし、年貢を五公五民にする増税政策によって農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いた。また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞した。
延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態ではなかったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。なお、病弱な家重より聡明な二男・宗武や四男・宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。あるいは、将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けるためには、才児として台頭している宗武や宗尹より愚鈍な家重の方が扱いやすかったとも考えられるが、定説ではない。
宗武・宗尹は養子に出さず、部屋住みの形で江戸城内に屋敷を与え、田安家・一橋家(御両卿)が創設された(吉宗の死後に清水家が創設されて御三卿となった)。のち家重の嫡流は10代将軍家治で絶えるも、一橋家から11代将軍家斉が出るなどして、14代将軍家茂までは吉宗の血統が続くことになった。
翌延享3年(1746年)に中風を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残った[7][8]。御側御用取次であった小笠原政登によると朝鮮通信使が来日時には、小笠原の進言で江戸城に「だらだらばし」というスロープ・横木付きのバリアフリーの階段を作って、通信使の芸当の一つである曲馬を楽しんだという[7]。また小笠原と共に吉宗もリハビリに励み、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復した[7]。
将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去した[3]。享年68[3](満66歳没)。死因は再発性脳卒中と言われている[8]。
徳川吉宗 贈太政大臣の辞令(宣旨) 「兼胤公記」
故右大臣正二位源朝臣 正二位行權大納言藤原朝臣榮親宣 奉 勅件人宜令贈任太政大臣者 寛延四年後六月十日 大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充奉
(訓読文)
故右大臣正二位源朝臣(徳川吉宗) 正二位行權大納言藤原朝臣栄親(中山栄親)宣(の)る 勅(みことのり)を奉(うけたまる)に、件人(くだんのひと)宜しく太政大臣に任じ贈らしむべし者(てへり) 寛延4年(1751年)後(閏)6月10日 大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充(押小路師充、従五位上)奉(うけたまは)る
年月日(月日は旧暦) | 事柄 | 出典 |
---|---|---|
貞享元年(1684年)10月21日 | 和歌山藩主徳川光貞の四男として生まれる。 | |
元禄9年(1697年)12月11日 | 従四位下に叙し、右近衛権少将兼主税頭に任ず。松平頼久と名乗る。続いて、頼方と改める。 | |
元禄10年(1697年)4月11日 | 五代将軍綱吉が和歌山藩邸を訪れ、その際に越前葛野藩3万石藩主となる(後に1万石加増)。 | |
宝永2年(1705年)10月6日 | 紀伊徳川家5代藩主就任 | |
同年12月1日 | 従三位左近衛権中将に昇進。将軍綱吉の偏諱を賜り「吉宗」と改名。 | |
宝永3年(1706年)11月26日 | 参議に任ず。左近衛権中将元の如し。 | |
宝永4年(1708年)12月18日 | 権中納言に昇進。 | |
正徳6年(1716年)4月30日 | 将軍後見役就任 | |
享保元年(1716年)7月13日 | 正二位権大納言に昇進。 | |
享保元年(1716年)7月18日 | 征夷大将軍・源氏長者宣下。内大臣・右近衛大将に昇進。 | |
寛保元年(1742年)8月7日 | 右大臣に昇進。右近衛大将元の如し。 | |
延享2年(1745年)9月25日 | 征夷大将軍辞職 | |
寛延4年(1751年)6月20日 | 死去 | |
同年閏6月10日 | 贈正一位太政大臣 |
吉宗時代(将軍在職時/「宗」の字)
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