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日本の音楽プロデューサー (1941-2024) ウィキペディアから
川添 象郎(かわぞえ しょうろう、1941年1月27日 - 2024年9月8日)は、日本の音楽プロデューサー。別名・川添象多郎。
女優・加賀まりことは幼馴染という。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾中等部を経て慶應義塾高等学校に進んだが、カトリックの信仰を持つ実母・原智恵子の意向でラ・サール高等学校に転校。ラ・サール在学中、1959年4月26日に母とガスパール・カサドの婚約が発表され、父により東京に呼び戻されて和光高等学校に転校[1]。和光高校卒業後、すぐにマグナム・フォト写真家ルネ・ブリやデニス・ストック等の来日時にアシスタントとして就く。
1959年、舞台芸術研究のために渡米し、ラスベガスで働く。1960年にはニューヨークに移り、フラメンコギタリストとして過ごす。またオフブロードウェイの前衛ポエトリーダンス『六人を乗せた馬車』(『フィネガンズ・ウェイク』の翻案)に参加し、作曲家の伊藤貞司とともに楽器演奏を担当する[2]。この作品で脚色と舞台監督を務めた振付師ジャン・アードマンがオフブロードウェイの作品に与えられるオビー賞の特別引用賞を1963年に受賞した[3]。
この作品はその後も[4]アメリカおよびヨーロッパ各地の舞台演劇祭などで上演され、1964年には、当時前衛芸術の拠点であった草月会館にて日本公演を行った。さらにこの時期にスペインに渡り、帰国後、フラメンコの舞踏団を結成した[5]。
このような経験を基に、芝高輪・光輪閣代表として国際文化交流事業を行っていた父・川添浩史の活動に参加。1961年シアトル万国博において「文楽」の初のアメリカ公演のステージマネージャーを担当。1969年、ミュージカル『ヘアー』来日公演のプロデューサーを務める。1970年2月[6]、『ヘアー』の打ち上げで出演者と大麻パーティを開いて逮捕され、これにより『ヘアー』日本上演は途中で打ち切りとなる[7]。この事件では執行猶予つきの有罪判決を受けた。執行猶予期間中にも大麻取締法違反で逮捕(2回目)され、懲役8か月の実刑判決を受け、前橋刑務所で服役した[6]。
1970年、村井邦彦、ミッキー・カーチス、内田裕也、木村英樹と共に音楽レーベル『マッシュルーム』を創立。小坂忠やガロといったアーティストを輩出する。その後、村井邦彦と共にアルファレコードを1977年に立ち上げ、音楽プロデューサーとして、荒井由実(松任谷由実)やYMOといった社会現象を巻き起こすようなビッグアーティスト達を世に送り、数多くのヒット曲を生み出した。
ファッション関連ではイヴ・サンローランの日本代表やピエール・カルダンのライセンス開発を手掛け、同時にその他の様々な分野でアーティストのマネージメントやプロモーション活動を行う。 特に日本人アーティストの海外への紹介には積極的で、YMOの世界公演を実現し、絵画芸術の分野では画家・今井俊満の海外プロモーション等の活動を行っている。
バブル景気期の1980年代半ばには、空間プロデュースや外国人エグゼクティブを相手にした家具リース業など[8]を手掛けた。余談だが、尾崎豊は死去する前日、川添がプロデュースした後楽園のビアガーデンのオープンパーティーに青山学院高等部時代の友人たちと参加している(1992年)[9]。
その後、再び音楽プロデュース業に復帰し、SoulJaをプロデュース。ヒット作『ここにいるよ』などを世に送り出す。2008年リリースの青山テルマ feat.SoulJa『そばにいるね』 をプロデュースし、同作は日本で最も売れたダウンロードシングルとして、ギネス・ワールド・レコーズに認定された。2011年にレコード大賞作詞賞を受賞した、ふくい舞『いくたびの櫻』をプロデュース。
小出明子と再婚後に誕生した男児、川添大嗣が部屋住み書生としてプロデューサー修行に入る[10]。同時期に、サントリー・ジアスをともに制作した坂井直樹の教え子である泉志谷忠和を指導している[11]。
2024年2月に起きた心停止により、約半年の入院生活を送った。同年9月、福島県内の自宅で療養しながら音楽活動の再開を模索したが、同月8日に福島県内で死去した[12]。85歳没。
父は東京飯倉(現:港区麻布台)にあるイタリアンレストラン「キャンティ」[13]を創業した川添浩史(本名・紫郎、旧姓・後藤。川添家の養子となる)、生母はピアニスト・原智恵子(浩史と離婚後、チェロ奏者ガスパール・カサドと再婚)。
祖父は鈴木経勲と共に日本で初めて南洋群島を探検した後藤猛太郎(日活の前身・日本活動フィルムの初代社長)。明治の元勲、後藤象二郎は曽祖父に当たる。
初婚の相手は歌手の沢村美司子[14]。その後沢村との離婚、別の女性との結婚・離婚を経て1981年に風吹ジュンと結婚。風吹との間に1男1女をもうけるも、1992年に自身の不倫が原因[6]で離婚。その後、「地上げの帝王」こと早坂太吉(最上恒産社長)の愛人だった小出明子と再婚し男児をもうける。明子は 林真理子の小説『アッコちゃんの時代』の「アッコ」のモデルとなった[15]。その後、荻野目慶子との不倫を報じられたことで、まもなく別居[6]。2007年に整体師の女性と再婚[16]。
なかにし礼の実名小説『世界は俺が回してる』に主人公・渡辺正文の親友として川添が登場している。
2022年7月、回想録などを残さなかった川添家では初めての自伝となる『象の記憶』を上梓した。
他にガロ、小坂忠、吉田美奈子、ブレッド&バター、スネークマンショー、サーカス、雪村いづみ、朝比奈マリア、いしだあゆみ、伊東ゆかり、ダニエル・ビダル、ルネ・シマール、N.Y.オールスターズ(フュージョン)、セルジオ・メンデス、ピア・ザドラ、日野皓正、リタ・クーリッジ、ジョージ・ウィンストンなど多数。
1970年2月26日、プロデューサーをしていたミュージカル『ヘアー』のメンバーらとマリファナパーティーを開いた主犯として逮捕、東京地方裁判所から懲役2年、執行猶予5年の判決を受けるが、翌1971年1月29日、グループサウンズ『ザ・ゴールデン・カップス』のマリファナ事件を捜査していた警視庁保安二課により、劇団天井桟敷の元俳優から前年10月に大麻をもらい使用した大麻取締法違反容疑で逮捕される。
1982年11月に大麻取締法違反で逮捕。さらに自宅から覚醒剤を染み込ませた米ドル札が発見されたため、覚せい剤取締法違反で再逮捕された[6]。
1997年12月には自社の元社員に手錠をはめ、縄で縛るなどして社長室内に20時間監禁して、「お前のせいで4800万円損したんだ。3000万円に負けてやるから、きっちり払え」「この野郎、ぶっ殺してやろうか。俺たちはセメントだって用意してるんだぞ」「わからねえなら、指詰めさせてやろうか」などと脅し、顔面をエアガンで撃った他、全身を木刀で殴打して全治2か月の重傷を負わせた監禁暴行の容疑で全国指名手配[6]。逮捕後、1998年3月に懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を受けている[17][18]。
この執行猶予期間中、1999年7月下旬、東京都千代田区の路上で、覚醒剤数グラムを車内に所持していたところを職務質問で発見され、覚せい剤取締法違反(使用・所持)の現行犯で逮捕(覚醒剤2回目)。起訴され、1999年10月、懲役1年6か月の実刑判決を言い渡された[17]。
2013年6月下旬、東京都港区内のコンビニ店で万引きをしたとして、窃盗で逮捕された際に、言動に不自然な点があったため、尿検査を実施したところ、覚醒剤の陽性反応が出たため覚せい剤取締法違反で再逮捕。(覚醒剤3回目)[19]
保釈中、2013年10月、9月15日に都内港区のホテルで乾燥大麻1.7グラムを所持していたとして大麻取締法違反容疑で逮捕(大麻2回目)[20]。
なお、ブログで“大麻は酒・タバコに比べて身体的依存性[21]もなく害が低い”という趣旨の発言をしている[22]。
覚せい剤取締法違反ならびに大麻取締法違反の罪で起訴され、2014年1月8日、東京地方裁判所で懲役2年(求刑懲役3年)の実刑判決が言い渡された[23]。
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