上小阿仁村
秋田県北秋田郡にある村 ウィキペディアから
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上小阿仁村(かみこあにむら)は、秋田県の中央部に位置する村。秋田杉の産地として知られ、村の総面積の92.7%が山林原野で、村の森林の73%が国有林である[1]。
かみこあにむら 上小阿仁村 | |||||
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八木沢集落のマタギ土倉 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 東北地方 | ||||
都道府県 | 秋田県 | ||||
郡 | 北秋田郡 | ||||
市町村コード | 05327-9 | ||||
法人番号 | 5000020053279 | ||||
面積 |
256.72km2 | ||||
総人口 |
1,767人 [編集] (推計人口、2024年10月1日) | ||||
人口密度 | 6.88人/km2 | ||||
隣接自治体 | 秋田市、北秋田市、能代市、山本郡三種町、南秋田郡五城目町 | ||||
村の木 | こぶ杉 | ||||
村の花 | コアニチドリ(ラン科の山野草・絶滅危惧II類) | ||||
上小阿仁村役場 | |||||
村長 | 小林悦次 | ||||
所在地 |
〒018-4494 秋田県北秋田郡上小阿仁村小沢田字向川原118 北緯40度03分48秒 東経140度17分44秒 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
秋田県内の市町村で最も人口が少なく、また最も高齢化率が高い。
2007年(平成19年)から2009年(平成21年)にかけて毎年自殺者が4 - 5人も出ており、10万人あたりの自殺率に換算すると150ポイント前後ときわめて高い値となっていた。このため、村では2010年(平成22年)度から自殺予防への取り組みを行う集落に助成する制度をスタートさせた[2]。その成果もあってか、2010年(平成22年)の村内の自殺者の数はゼロ[3]となり、東日本大震災があった翌2011年(平成23年)も自殺者は1人[4]と、以前と比較して自殺率は改善している。
上小阿仁村と全国の年齢別人口分布(2005年) | 上小阿仁村の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 上小阿仁村
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
上小阿仁村(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
上小阿仁村では村の人口の自然増を願い、出産を奨励し、児童の健全育成を図り、活力に満ちた村づくりを創造することを目的に「子宝祝金制度」を実施している[5]。継続して本村に居住し、住民基本台帳に登録され、出産後も引き続き本村に居住する人が対象で、転勤による異動者や、里帰り出産等は対象外となる。
区分 | 金額 |
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第1子 | 150,000円 |
第2子以降 | 600,000円 |
また第3子以降については、出生の月又は、転入した月より1年を経過した日の翌月から、6歳の誕生月の属する月の前月まで、月額1万5000円が支給される。
房住山が修験の場として開かれていた頃、房住山一帯を支配していた高倉長者[注 2]という族長がいた。その長者に「たつこ」というひとり娘がいた。この娘の婿は阿仁と言ったので、人々は彼のことを「阿仁殿」と言った。ところが、婿をとってしばらくしたら長者に男子ができた。長者は後に財産の争いが起き、血を見ることがないようにとクジ引きで土地を分け与えることにした。その結果、娘婿の阿仁殿は米ヶ沢(米内沢)、実子は鎌ヶ沢(鎌沢)に住みそれぞれの地を支配することになった。その後、二人は奥地を切り開き、娘婿は「大阿仁」と言われる比立内地区まで、実子の方は「小阿仁」とよばれ萩形までをそれぞれ支配することになった[7]。
沖田面(翁面)集落の名前の由来は「昔、川西の深山に、大樹が折れた霊木があった。木こりはそれに注連縄を張り付け祀ると、上の注連縄は白髪のように、下の注連縄は白鬚のように、そして木肌は風雨に曝されて紅白の色をなし、幹は鉄や石のように硬く、節やコブが自然に目鼻口耳の形をして、老翁の面のようになったのを後年村の名とした。ある時、一人の高僧が来て、その霊木なるを感じて、切り観音像を彫ってそこに祠を建てた。村はこれによって繁栄した」というものである[8]。この説話も『房住山昔物語』や『房住山古伝記』などの房住山の伝説の一部として語られていた。菅江真澄はこの霊木の絵を残している。
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上小阿仁村を代表する「マタギ集落」は八木沢と萩形で近世、阿仁マタギなどの狩猟民によってきり開かれた。萩形は1966年(昭和41年)、県営第1号となる「萩形ダム」が完成したのをきっかけに離村。一方、八木沢は2009年春、集落ただ一人の古老マタギである佐藤良蔵が鉄砲を返納し、生業とするマタギ集落が消えた。
萩形は1822年(文政5年)、約10キロ北東の萱草や根子のマタギによって開かれた。1700年代に入り、菅江真澄翁の「月のおろちね」に阿仁マタギが移住以前にマタギ小屋や祠があったとされ、当時は一年の狩猟に依りて生計を立てたとされる。主峰、太平山(1171メートル)を背に奥羽山脈を旅する阿仁マタギの砦でもあり、戦前はバンドリ(ムササビ)やテンなどの毛皮が軍向けに高く売れた時期もあり、マタギを生業とする狩猟文化が盛んであった。1966年、秋田県営第1号となる萩形ダムが完成したのをきっかけに約10戸が水没し、残りの30戸ほどの住民も故郷を後に方々へ散った。集落の外れに、1969年(昭和44年)に村の消滅とともに建てられた「離村記念碑」に当時の家長たち38人の名が刻まれ静かに佇む。
八木沢集落は1813年(文化10年)、旧北秋田郡荒瀬村根子のマタギが移住して地域共同体に定着している。根子はマタギ発祥の地とされ、大ムカデを退治して、正一位左志明神の位を授かった万次・盤(万)三郎を始祖に仰ぎ、狩猟文化を守り続けてきた。厳しい長男相続制のために、他所に移り住む二男三男が多かったことなど、マタギ文化が広範囲に拡散されている。
1805年、民俗学の祖と言われる菅江真澄は、マタギの里として知られる奥阿仁地域を縦断し、マタギの習俗や伝説などを「みかべのよろい」などに書きとめた。「山ひとつ越えると根子という集落があった。この村はみな、マタギという冬狩りをする猟人の家が軒を連ね、マタギの頭の家には、古くから伝えられる巻物を秘蔵した」としている。
菅江真澄が奥阿仁を訪れてから8年後、八木沢集落が誕生している。村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門の三軒が定着する。この集落は近世の江戸時代から出羽丘陵・奥羽山脈での狩りをする狩猟民の中継地点であった。冬場は豪雪にみまわれ厳しい自然環境のもと、狩猟が盛んに営なまれた。山の神に対する厚い信仰をもち、俗信、禁忌があった。昭和30年代、民俗文化の大きな転換期をむかえて、伝統的な信仰・行事・習俗・芸能にいたるまで大きく変化した。小さな一地域の民俗文化の改廃。「鉄砲も槍もどこの家にもあった。みんながマタギ、自分で鉛を溶かし鉄砲の弾を作った」。しかし、マタギ集落も高度経済成長とともに若者が流出、過疎化による後継者不足となった。そして、ついに2009年春に集落最後の古老マタギ佐藤良蔵が所持許可証の有効期限を半年残し、鉄砲を北秋田警察署に返納した。日本の民衆の文化「狩猟伝承」を保持してきたマタギ集落が惜しまれながらも消えていった。わずかに残された伝承や信仰、俗信、禁忌などを語る者は、古老のみとなったという。
近世から狩猟をなし、マタギの変貌を物語るものに同村、不動羅集落の山田三郎氏所蔵の「マタギ秘巻」がある。この巻物は高野派の「山達由来之事」と日光派の「山立根本巻」とが同一巻内に納まり「山達由来之事・山立根本巻」という名称になる。現存しているマタギ文章はいずれも流布写本のたぐいであり、原本は不明である。上小阿仁村のマタギ集落は八木沢と萩形(離村)である。このマタギ文章はそこから出たものとされるが、この文章が実在する限り、八木沢、萩形(離村)のマタギはその伝承性上においてかなり形骸化されたものだったに違いない。その証拠に両集落は隣地阿仁町(現北秋田市)から両派の流れをくむマタギたちが住みついていたからだった。
2007年(平成19年)以降、村唯一の医療機関である上小阿仁村国保診療所に医師が定着せず、6年間に7人の医師が就任後間もなく退職して上小阿仁村を去った。行政と住民の不適切な対応が話題となり、「医者いじめの村」とインターネットで騒がれ注目を浴びた[9]。
僻地医療のベテランを含む複数の医師が相次いで短期間に辞職している背景には、激務によるものだけでなく「モンスターペイシェント」による嫌がらせなどの問題行動、およびそれに真摯に対応しなかった村役場の姿勢にあるとされている[20][21]。
2010年、医師Cが辞意を示した後に同村の広報誌『広報かみこあに』2010年(平成22年)3月号にて、当時の上小阿仁村長だった小林宏晨は、「医師を攻撃する『不心得者』の村民は5・6人に過ぎないことを確認している」とした上で、「このような状態が続く限り、当局がいかに努力しても、わが村は医師に倦厭され、しまいには無医村になることも大いに考えられます」と述べ[20]、今後の重要事項として「有能で献身的な医者を安定的に確保すること」を挙げた[20]。村当局はCへ急きょ改善策を申し入れ、一度は辞意は撤回されて上小阿仁村の無医村化は回避されたが[12]、最終的に退職願は受理された。しかし村民の医師に対する接し方および村当局の対応は改善することもなく、2012年(平成24年)5月には医師Dも辞意を表明している[14]。医師Bは同広報誌にて「村執行部の医師に対する見方、接し方、処遇の仕方の中に医師の頑張る意欲をなくさせるものがあった」「次の医師が見つかっても、その人も同じような挫折をすることになりかねない」とのコメントを残している。
2019年2月5日、柳一雄国保診療所長がインフルエンザに感染して4日間の休診を村内全戸へ連絡したが、休診を知らせる前から診療所を訪れていた高齢者が薬の処方を要求、看護師が柳所長と連絡を取り合いながら22人に処方箋を発行、その後も2月7日までに合計46人に処方箋を発行した[26][27]。
医師が診察せずに処方箋を交付することは医師法に抵触し、柳所長と管理責任を問われた診療所事務長が処分された[28]。常勤医が病気によって診察できない状況にあるにもかかわらず、代わりの医師が診察するなどの支援体制が整っていない医療体制の脆弱さが露呈した[29]。
2007年(平成19年)12月5日に指定金融機関契約の締結を行い、2008年(平成20年)1月4日から北都銀行が指定された[注 3]。これに先立ち、同行は、村役場の真向かいにある道の駅かみこあにの敷地内に、米内沢支店が管轄する店舗外ATMを設置している。
JA秋田たかのすの上小阿仁支店は村役場に隣接し、上小阿仁郵便局(ゆうちょ銀行代理店)は沖田面地区にあり、中心部には村役場の裏に小沢田郵便局がある。ほかの銀行・信用金庫・信用組合の支店・有人出張所は村内に所在しない。
2019年11月に全国初の自動運転車によるサービスが始まった。NPO法人「上小阿仁村移送サービス協会」が運営主体となり、道の駅「かみこあに」と村内3つの集落7人乗りの自動運転車が村内の3つの集落への3路線上に村役場・郵便局・診療所など14の停留所が設けられる。運賃は200円。一部の区間では他の車両や歩行者が通らないようにしたうえで、運転席にドライバーが座らない「レベル4」の自動運転を行うという[31][32][33][34]。
有形民俗文化財指定 第1号 上小阿仁村教育委員会[35]
古来、日本民衆の狩猟用具は先人から受け継がれた文化をもち、普遍的習俗が守られた。史料5点は八木沢集落が阿仁・根子集落から移住以前から用いられたものとされる。いずれも近世中期から後期。所有者は代々のマタギを継承する佐藤良蔵で、先祖は根子マタギの組頭(伍長)善兵衛から分家。狩猟用具は佐藤良蔵が所有した近世後期の「蔵」に収蔵されていたものである。
近世、秋田マタギ(阿仁マタギ)は出羽山系で一つの文化圏を形成したといえる。八木沢集落は近世後期、マタギの発祥とされる秋田郡大阿仁根子のマタギによって開かれた。狩猟用具は集落のマタギ文化の特色を示すものだが、秋田マタギ(阿仁マタギ)との歴史的変遷、時代的特色、地域的特色など、集落の生活様式や様相を示すものであり、マタギ文化の歴史上、その価値を形成している。
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