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日本の夏祭り、またそこで使用する行灯型の山車 ウィキペディアから
ねぶたとは、古来日本で、旧暦7月7日の年中行事(すなわち七夕行事の一つ)として行われてきた夏祭りの一類型である[1]。
主に東日本各地で行なわれてきたが、とりわけ近世以降の津軽地方(江戸幕藩体制下においては弘前藩領。明治維新以降の青森県西部)において盛んで、祭りの形態も主にこの地で進化・発展を遂げてきた。全国的に有名なのは、青森ねぶたと弘前ねぷたで、これらは1980年(昭和55年)に重要無形民俗文化財に指定されている。
一般には「ねぶた祭り」と呼ばれることが多いが、行事の正式名称としては、青森ねぶたのように「ねぶた」と呼んで仮名表記する例のほか、「ねぷた」と呼ぶ場合や(弘前ねぷたなど)、漢字の当て字で「佞武多」と記して「ねぷた」と読みならわす例(五所川原立佞武多)もある[2]。
以下、青森県のねぶたを中心に記載する。
青森ねぶた祭は、青森県青森市で8月初旬頃に行われているが、地域によって運行されるねぶた(ねぷた)の形態、御囃子や掛け声に違いがある[2]。青森市の青森ねぶた、弘前市の弘前ねぷた、五所川原市の五所川原立佞武多などが有名で、次いで黒石市の黒石ねぷた、つがる市の木造ねぶた、平川市の平川ねぷた、むつ市の大湊ネブタなどがある。その他、ねぶた発祥の地のひとつとされる浅虫ねぶた[3]や津軽地方、下北半島の各市町村でも行われている。
ねぶたの起源には諸説ある[2]。ねぶたの起源に関しては主に以下の三つの説が知られている[4]。
坂上田村麻呂説と津軽為信説が否定されるようになり、七夕起源説が一般的に信じられるようになった[4]。しかし、日本海側で古くから実施されていた民間行事の眠り流しが、津軽藩の公式行事となる灯籠行列として大規模に運行されるようになった経緯は必ずしも明らかにはなっていない[4]。
このほか有力な説として禊祓に由来するという説がある[5]。京都または近江から弘前に移住した人々によって京都の灯籠行事がもたらされたとする説もある[4]。
ねぶた(ねぷた)に関する最も古い史料は『弘前藩庁御国日記』(1722年)とされ「祢ふた」や「祢むた」の観覧の記述がある[2]。また、ねぶた(ねぷた)に関する最も古い絵図とみられるのが弘前藩士の比良野貞彦によって描かれた『奥民図彙』(1778年)である[2]。
ねぶたは全国で地域の祭りとして取り入れる例がみられ、特に関東地方(東京周辺)では阿波踊りなどと同様、イベントの1つにする祭りがある。
長崎県五島列島福江島でも行われている。
「ねぶた」「ねぷた」の語源には諸説あるが、「眠(ねぶ)たし」[注 1]、「合歓木(ねむのき、ねぶたのき、ねぶた)」「七夕(たなばた)」「荷札(にふだ)」などに由来する説がある[5]。
もともと江戸時代の史料では、「ねぶた」「ねむた」「ねふた」などの表記が混在し、江戸末期になると「侫武多」の当て字も多用されるようになった[6]。その後、昭和20年代後半に青森の東奥日報で「ねぶた」、弘前の陸奥新報で「ねぷた」の表記が一般的に使われるようになった[6]。行事の正式名称も弘前が1957年(昭和32年)から「ねぷた」、青森が1958年(昭和33年)から「ねぶた」を名乗っている[2]。「ねぶた」と「ねぷた」の表記の違いが強調されるようになったのは、青森ねぶたや弘前ねぷたが国の重要無形民俗文化財に指定された1980年(昭和55年)以降とされる[6]。一般には青森でも「ねぷた」(あるいは「ねんぷた」)、弘前でも「ねぶた」と呼ぶ例がみられる[2][6]。
太字は、国の重要無形民俗文化財に指定されているものである。
東北地方の観光キャンペーンイベント等で不定期に行われているものも多々存在するが、本稿では毎年開催されているもののみを記載する。
各町内会が、青森ねぶたの流れをくむと言われる山車を繰り出す。
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