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神道の祭の際に神霊一時的に鎮まるとされる輿 ウィキペディアから
神輿、御輿(みこし、しんよ)は、通常、神道の祭の際に、普段は神社にいる神霊が氏子町内、御旅所などへ渡御するに当たって一時的に鎮まるとされる輿である[1]。輿であるから通常は担ぎ上げて移動するものを指して言うが[1]、それを台車(御所車、牛車)に乗せて曳くものなど別形態のものも指すことがある。
祭りによっては、御輿の巡行に山車(山)、鉾(ほこ)、だんじり、などの屋台が随行することもある。
「御輿」は「輿」に「御」を付けたものであるが、さらに「御」をつけて「おみこし」と呼ばれる場合がある。神が乗る輿であるので「御神輿」とも書かれる。
神社の神輿を一般に「本社神輿」(神社神輿・宮神輿)と言い、神社に本社神輿が1基のみ存在する神社もあれば、三社祭で有名な浅草神社のように1社で3基の神社神輿を持つ神社もある。氏子町会が神輿を持っている場合はこれを「町会神輿」と呼び、この中で青壮年部が担ぐものを「大人神輿」、女性が担ぐ輿を「女神輿」子供は「子供神輿」と呼んでいる。
特に胴が箱型で内部が空洞の物を鳳輦(ほうれん)と呼び、実際に人間(主に天皇)や大きめの神器・依代が乗るものとして造られたのが起源とされるため小型の物は存在しない。神輿と鳳輦の定義において議論があり、文字通りの意味を定義と捉えた場合、鳳凰(ほうおう)を付けた神輿全てが鳳輦(ほうれん)になってしまうが、鳳凰を冠していない鳳輦も存在するため、「皇族などの貴人が乗る輿」と定義としている書籍が多い[2][3]。
これに比べて神輿は諸説あるが、鳳輦から発展し、神霊が乗ることに特化したもの[4]であるという解釈ができる。後述のように成人男性が1人で持てる程の小型の物から、中に入れそうな大型のものまである。 神輿と鳳輦を合わせて「輦輿」(れんよ)と呼ぶが、定義もさることながら、外見では判断しにくいため(特に垂幕や瓔珞が付いている場合)、双方とも「神輿」と総称されているのが現状である。
一般的に神殿をかたどった輿が多いが、神木(諏訪大社・長野県諏訪市)、人の性器(田縣神社・愛知県小牧市)をかたどったもの、人形を置いた神輿、四方に絵を描き屋根に弓張り提灯を並べた万燈神輿(まんとうみこし)[5]がある他、神酒樽を用いた樽神輿などもある。
神殿造りの一般的な神輿でも四角形の他に、六角形(例:あきる野市阿伎留神社[6] )の物や、八角形の神輿も関西を中心に存在する。東京では住吉神社の八角神輿が有名である。
屋根は通常、その御輿が属す神社の神殿を模したものとなる[7]。このため、寺社に多い唐破風、もしくは延屋根が採用される場合が多い[8]。次に八棟造が多く存在していると思われる。また、少数ながら切妻造もあり、神田明神の「三の宮鳳輦」のような入母屋造も見られる。なお、この輿には千木と鰹木が付き、大鳥(鳳凰)も擬宝珠もない[9]。
通常は屋根の上は鳳凰または擬宝珠が置かれ、稀に神社にちなんだ鳥などがある場合はそれを冠している場合がある[10]。
屋根の対角線(境界線)の出っ張りを野筋と言うが、ここから直接蕨手(わらびて)が伸びているものが関東では一般的であり、関西では屋根の下から蕨手が伸びている神輿が多い。
江戸神輿では相州(湘南)神輿に比べて蕨手が、長いまたは大きい・太い傾向がある。
江戸神輿では細く、コーラ瓶のようにすぼまった形状(+唐破風屋根)が多いが、湘南のどっこい担ぎに使われる神輿は万灯神輿も含めて太めのストレート型が多く、「相州神輿」「湘南神輿」と言われ、台輪に「タンス」と呼ばれる環が付いてる場合が多い。
台輪から直接、胴が構成されている形式を「平屋台造り」と言う。比較的古い神輿に多い。
神社のように回廊・勾欄・階で胴の周りを装飾した形式を「勾欄造り」と言い、最近の江戸神輿などに多い。
大きさの単位は、普通「台輪」と呼ばれる部位の幅で測られる[11]。標準的なもので、幼児用の台輪寸法24cm(最大幅42cm)、担ぎ棒(一番長い親棒で180cm[12])を含む総重量18kgと言った小さなものから、台輪寸法105cm(最大幅177cm)、総重量550kg程度のものまである[11](このクラスだと、親棒の長さは630cm程度にもなる[12])。ただし意匠などにより重量は多少異なってくる[13]。なお台輪寸法が60cmの場合、担ぎ棒を一度に担げる人数は50人となる(参照した文献によれば3交代制として、担ぎ手は150人必要としている)[13]。
日本で一番大きな神輿は東京都富岡八幡宮の御本社一の宮神輿と言われてはいるが、現在では担いで渡御することができない。また、台輪幅だけで言うと東京文京区の根津神社の本社神輿(宮神輿=神社神輿)の方が大きい。
重量は500キログラム、担ぎ棒込みで1トンを越えるものも珍しくない[14]。
一般的には、本社神輿>町会大人神輿>女神輿または子供神輿の順に大きい。
担ぎ棒(柱)にも形や色、数は様々あり、同じ神輿でも用途に応じて長さや数を替えたりすることがある。棒の先に金物が付いている場合があり、これを棒先金物という。神輿(台輪)への固定には、楔を打ち込み固定、さらに釘で楔を固定する[15]。時には担ぎ棒に緩衝材にするための布団様の物を取り付ける事もあり、祭りによっては緩衝材の中身を真綿にしている事もある[注 1]。
丸型と四角型が大半である[注 2]。
担ぎ棒同士の組付けは、ボルト・ナットやダボで組み、これらに縄や浸したサラシで巻き上げてたり、それぞれ単独の方法で組み立てる場合など色々な方法がある。 担ぎ棒の組み付け。ダボ(凹凸)と縄の場合
白木と黒・朱色・漆塗りなどがある。形状も含めて混在している神輿もあるが、これは美的観点から意図的に行われている場合もあるが、2点棒→4→6と増設した場合や補修で、既存の棒と合うものがなく、仕方なく装着している場合もある。色と形の違う担ぎ棒。
親棒・花棒・本棒の先端をハナ(花・鼻・華)と言い、一番目立つ場所である事から取り合いになることが多い。舵取りや顔として目立つ意味の花型と、先端を意味する鼻先の意味からこう呼ばれている。
通常は主要部分は木製であり[16]、その製作には20種類の職人が携わる[17]。
質素な白木のものから、漆塗り・極彩色のものまで様々である[13]。
部品点数は3000程度[17]。神輿は担いで長時間荒々しく揺さぶられる場合が多いため、細かなパーツを組み合わせする升組み構造で、その震動・衝撃を吸収する[18]。通常、金属の宝飾品取り付け以外は釘は使われない[19]。また製作工程を統括する者を「神輿師」と呼ぶ[17]。
2種類に大別される。
仏教の寺院が輿を持ち巡行することもある。ここでは意味合い的に「神輿」でなく「御輿」と表記する。
神仏習合が見られる御霊信仰や祇園信仰では、御霊会や祇園祭の際に御輿が用いられてきた。神仏分離令で神道神社と仏教寺院に分かれた後も、寺社ともに御輿が用いられている。密教や修験道の寺院の祭りの際にも御輿を用いる例が見られる。
町を歩いてお旅所(神酒所)や商店を回る渡御や、A神社とB神社を巡行するもの、一定の場所に集結し、お浜降りや神輿同士をぶつけ合ったりするものなど様々で、祭りの中でそれが果たす役割は多種多様である。
明確な統計は無いが、全国的には通常、ひら担ぎと呼ばれる「わっしょい」の掛け声で神輿を揺らさずに担ぐ地域が多いと思われる。[23]揺らす場合は江戸前に分類される。
神輿を担ぐ際にどの位置で担ぐかは、完全に自由であったり、お客さんを前の方に入れたり、その地区の氏子を優先したりと様々であるが、以下の様な決定方法もある。
複数の神輿が対面または複数の方向から1点を目指し進み、ハナ棒を合わせるように近づく事。四つ角の交差点などで行われる場合を特に四方合わせと呼ぶ。祭典時やパレードなどの観光行事において行われる。あらゆる担ぎ方で実行可能と思われるが、小田原流のように走る神輿は特に危険が伴う。
担ぐ時の掛け声は「わっしょい」や「エッサ」「ソイヤ」などと言うところが多い。
それぞれの語源については諸説があり、「和上同慶」「和を背負う」「和と一緒」「輪を背負う」という意味からきているという説や、「エッサ」は古代ヘブライ語(古代ヘブライ語で「エッサ」とは「運ぶ」という意味である)から来ているという説、または単なる「えっさほいさ」といった掛け声であるという説など様々である。
特殊な例としては、北海道江差町の姥神大神宮渡御祭における御輿渡御や宿入之儀(しゅくいれのぎ)においては、担ぎ手が「ヤイヨイ」という掛け声を掛ける[31]。
神輿は本来、その神社の氏子によって担がれるものであるが、担ぎ手の不足や町おこしなどの理由により氏子以外の参加を認めるケースが都市部を中心に増えている。そのため、外部の応援団体(有志の神輿会)が地元のルールを知らない・軽んじる、などの一因で問題が生じないよう留意すべきである。
また、三社祭の宮出し等で見られる、担ぎ棒に乗るという行為も「神様が鎮座する神輿の上に人が乗るとは何事だ」という否定的意見と、「神輿渡御を安全に誘導する為には仕方がない」「祭礼運営への貢献のお礼」などといった肯定的意見の論争が見られるが、概ね世間の評価は否定的である。東京都では迷惑防止条例で神輿に乗る行為は禁止されており、6月未満の懲役または50万円以下の罰金が科せられる。
神輿の扱いは地域によって違い、上から見下ろすことさえ禁じられている所もあるので、参加する場合はその地域の規則を熟知するということが大切である(逆に、神輿をわざと高い位置から落とす祭礼もある)。
2019年9月20日、神奈川県警察は、県内の4つのみこし会代表が祝儀名目で指定暴力団稲川会系組幹部に現金を渡していたとして双方に対し、暴力団排除条例に基づき中止の勧告を行った[32]。
諸説あるが、そのうちの1つとして以下のような説がある。
狩猟と採集による移住を繰り返した時代に行われた収穫祭の祭壇が起源で、このときは祭りが終わると神輿は取り壊され、毎年新たな神輿を作って天上の神を招いていた。農耕が始まり人々が定住するようになると、神に対しても定住が求められるようになり、居所としての神社が誕生した。そして神の乗り物として神輿が継承され現在のような形になった。
この説を採用した観光協会等において、外国人観光客に対し神輿は「持ち運び可能な神社」[注 3]と説明されることが多い。
文献上での初出は、養老四年・天正天皇6年(720年)、隼人征伐の際大神比義命(おおがのひぎのみこと)の子孫、宇佐八幡宮の神官、祝の大神諸男が八幡神が乗った御神輿に付き添い、禰宜の大神杜女が御杖代、同じく禰宜の辛島波豆米が御杖人となり、大隈・日向へ行幸している。 この時の御神輿が国内初の御神輿である。 この時、祝の大神諸男が“我、昔、この薦を御枕として、百王守護の誓いを発した。百王守護とは、凶賊を降伏せしむるという事である”との御神託を大貞の池(三角池の薦神社)でうける。この池のマコモで大神諸男が造った御薦枕が、先の国内初の御神輿に載せた御神体である。[33]
奈良時代の元正天皇の治世、養老4年(720年)九州で起こった「隼人の乱」にあるという。同年2月九州南部の大隅・薩摩に住む隼人は、大隅国守・陽侯麻呂を殺害して反乱を起こした。朝廷は歌人としても有名な大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、1万を超す軍隊を派兵した。この時、朝廷は宇佐八幡宮に勅使を派遣し、国家鎮護と隼人討伐を祈願した。当時は、今の大分県宇佐市小倉山でなく、近くの小山田に鎮座していた八幡神は、この願いに応じ、「われ征きて降し伏すべし。自ら神軍を率いて隼人討伐に赴く」と託宣を下した。朝廷は豊前国司(ぶぜんこくし)宇努首男人(うぬのおびとおひと)に命じ、八幡神の神霊が乗る神輿を作らせた。『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、「豊前国司に仰せつけられ、初めて神輿を作らしむ」とある[要出典]。
聖武天皇が奈良に東大寺を建て、毘盧舎那仏(奈良の大仏)を建立して国の象徴として建設にあたる時、天平勝宝元年(749年)に、これを助けるために、宇佐八幡神は、屋根に金色の鳳凰が輝く天皇の乗り物(鳳輦)に乗って奈良の都へと渡御した。この鳳輦こそが、1300年の歳月を経て今に伝わる神輿の原型である。
平安時代になると、近江の日吉大社や京都の祇園社(現・八坂神社)・今宮神社・北野天満宮や、大阪の大阪天満宮などでも神輿が作られた。鳳輦をもとにして、これに魔除けの巴紋や神紋を飾り、ミニチュアの神社のように鳥居や玉垣、高欄などが付けられた。こうして、主に奈良・京都を中心にして神輿が一般化された。
以下は江戸(東京)の話であるが、本来神輿は神社から1台が(宮神輿)、山車は町内から出るもので、通常、神輿のいち形態ではなく、神輿とは別物である[34]。また山車は市中に電線が貼られた都合などから明治中期以降は運用が難しくなった[35]。このため神社より町神輿へ分祀を行い、山車の代わりに町神輿が巡行するようになった[35]。この風習は近隣地域にも広がった[35]。なお太平洋戦争中は兵員の召集による担ぎ手不足や金属供出などのため、そして戦後は空襲による焼失などのために一度神輿は減少したものの[36]、その後1953年-1960年にかけて神輿の新調ブームが起こったと言う[37]。
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