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高倉 美貴(たかくら みき、(旧姓:越沢美貴)、1960年12月14日 - )は、日本の女優。現在、あのねのね・原田伸郎の妻。
石川県金沢市の老舗料亭の長女として生まれる。金沢大学教育学部附属小学校、金沢大学教育学部附属中学校を経て、北陸随一のお嬢様学校・私立北陸学院高等学校(現在は共学校)を卒業。映画好きであり、高校時代は映画研究愛好会の部長を務めた。
高校卒業後、子供服のデザイナーを目指して上京し、表参道のブティックに勤務。ブティック時代、その美貌とスタイルがスカウトの目にとまってスカウトされ、本名と一字違いの「越沢美紀」の芸名でモデルとして芸能界デビュー。ポスター、雑誌GOROのグラビア等でビキニ姿等を披露した。
1983年(23歳)、ピンク映画制作会社・にっかつのドル箱として人気があったSM映画シリーズで、日活SM映画の原作者として大きな影響力をもっていた官能小説作家・団鬼六に見出され、芸名を「高倉美貴」とし、ロマンポルノ映画で女優デビューした。高校では映研の部長を務めるなど映画への関心は強かったものの、内容を巡り出演を拒んだ高倉に対して、原作者である団鬼六自ら出演交渉に乗り出し、ポルノ映画出演に反対する母親も同席させて高倉親子の説得にあたった。日活は高倉親子に対し、新人としては破格のギャラを提示した。さらに日活は高倉のロマンポルノ出演にあたり「3年間で4作品だけに主演する」ことを契約条件として提示した。さらに、出演を拒み続ける高倉親子を団鬼六の友人である巨匠大島渚監督が説得し、ついに高倉親子が折れてポルノ・デビューすることになったという。
元祖SMの女王・谷ナオミ、2代目SMの女王・麻吹淳子に続く「3代目日活SMの女王」とのキャッチフレーズで売り出され、『団鬼六 美女縄地獄」』(1983)でデビューした[1]。1970年代後半には週刊誌、グラビア誌等、多くのメディアで写真や映像が取り上げられ、日活ロマンポルノの看板女優へと成長した。長い黒髪、目鼻立ちのハッキリした容貌とスタイル、清楚で気品ありというイメージからは大きくかけ離れた大胆な演技、緊縛、鞭打ち、ローソク責め、浣腸などのシーンで注目された(ロマンポルノは女優も男優も性器の上に前貼り(ガーゼ+ガムテープ)を貼る)。1984年には4作目『団鬼六 縄責め』に主演した[2]。
団をして「日活ロマンポルノ史上もっとも美しい女優」と言わしめた。高倉のSMポルノデビュー後に、団は雑誌や各地の講演会で逆に「『あなたのような美しく、お嬢様育ちの人がこんな映画に出てはいかん』と説得したのだが、本人がどうしてもやりたいというので」と方々で語っている。これに対して高倉は、名誉棄損の訴訟や反論する等の行動をせず、耐え続けるだけだった。高倉と日活との出演契約は3年間だったが、高倉に対して団鬼六(日活側)が契約期間の延長を強く要求したため、高倉は団鬼六らの指示に従い契約期間を翌1985年(25歳)まで1年延長した。
1985年(25歳)、日活との契約が終了し、ロマンポルノを引退した直後には、第8回日本アカデミー賞授賞式で武田鉄矢と共に司会に抜擢された。また、テレビドラマや一般映画にも出演するが、脇役・端役が多く主役を射止めるまでには至らなかった。1985年の『カポネ大いに泣く』では萩原健一、沢田研二と共演した。
ヘア解禁(陰毛露出写真集の発売実現)の2年後の1993年(33歳)、突如”ヘアヌード写真集”『South Fairy Tale』を発表したが、残念ながら話題を集められなかった。1995年3月1日、タレントの原田伸郎と結婚し芸能界を引退した(高倉・初婚、原田は2度目の結婚)。原田とは、1987年によみうりテレビのドラマ『見上げればいつも青空』で、原田の浮気相手という役柄で共演したことが結婚のきっかけだった。結婚後は芸能活動は休止しているが、原田が出演する番組でまれに見かけることもある。またその際には「高倉美紀」の名前でテロップが流れることがある。
※以上主演作品
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