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北朝鮮の市 ウィキペディアから
開城特別市(ケソンとくべつし、朝: 개성특별시)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南部にある都市。高麗の王都として、また商業の中心として栄えた古都である。南北共同の工業団地として建設された開城工業地区を有する。
朝鮮戦争の休戦後、周辺部も含めて長らく北朝鮮の直轄市として扱われてきたが、2003年に黄海北道に編入された後、2019年に再分離し、現在は道に属さない「特別市」に位置付けられている[3]。推定人口は約35万人(1998年現在)。
朝鮮八道では京畿道に属し、朝鮮半島の主要都市の中では、最も板門店に近い位置にある。
市域の東はそのまま軍事境界線になっている。開城市街地から、板門店までの距離は8km。南には漢江及び臨津江の河口部があり、川を挟んで韓国領の江華島がある。典型的な城郭都市であり、歴史的に商都として知られていた。市内には高麗時代の遺跡が多く残っている。市街地周囲は松嶽山(海抜489m )、子男山など松の多い山に囲まれているので松都と呼ばれる事がある。韓国政府の協力により2000年代以降工業団地の建設が進み軽工業が盛んで韓国企業も多く進出した。しかし韓国との関係悪化により工業団地の生産が停止されるなど不安定な状況である。
朝鮮人参(高麗人参)の産地として有名で、人参酒は北朝鮮の主要な輸出品となっている。
儒学の最高教育機関であった「成均館」が残るほか、王建王陵、観音寺、高麗王宮の宮殿の基壇跡である満月台、開城南大門、旧市街に架かる石橋であり高麗に忠誠を尽くした学者・政治家の鄭夢周が李成桂側の人物に暗殺された場所である善竹橋などがこの街の歴史的な見所である。
2区域・1郡・27洞・5里を管轄する[4]。
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百済がこの周辺まで支配していた時代は「冬比忽(동비홀、トンビボル)城」と呼ばれており、高句麗時代を経て統一新羅の757年(景徳王16年)に地名を「開城郡」と中国風の漢字2文字に改めた。市街地には松嶽郡が置かれており、三国史記によれば、開城郡と松嶽郡は別個の郡であった[5]。
新羅末期(後三国時代)、松嶽(開城)を本拠としていた豪族の王建は、群雄の一人である弓裔に投降してその部下となり、弓裔を迎え入れた。弓裔は901年に松嶽で後高句麗王を称した。弓裔はやがて鉄円(現在の江原道鉄原)に都を移すが暴虐さを増したため、918年に王建は反乱を起こして彼を殺し、その勢力を継承して高麗を建国した。王建は翌919年に首都を故郷・松嶽に遷し開州と改めた。開州には王の居住する寿昌宮のほか、仁徳宮、寿徳宮などの宮殿があった。1015年に北宋に遣わされた郭元は、「三五千を下らぬ民がいる」と語っており、高麗後期、モンゴルの侵攻により江華島への遷都を余儀なくされた30年間を除き、約500年にわたって都だった。
その後、高麗が滅亡し、李氏朝鮮を建国した李成桂が都を現在のソウルに遷した。李氏朝鮮の時代も開城は朝鮮の重要都市であり続けた。
1910年からの日韓合邦期の1930年には、開城府(かいじょうふ)が置かれた。朝鮮を統治した日本の朝鮮総督府は朝鮮半島の社会基盤の整備に注力した。京城と改められた漢城は近代的な都市として開発が進むのと歩調を合わせて、鉄道(京義線)の敷設によって開城は京城都市圏となった。そのため京城と開城の間は鉄道の敷設と都市化によって形成された通勤通学圏として結びつきが強固になった。更に高麗人参の産地として、地域住民の所得が高かったので開城の朝鮮女性の多くが化粧や衣服など身なりに気を使うようになっていた。そのことは化粧品ビジネスに有利な環境であり、美顔液やクリームなどがよく売れた[6]。
1945年の日本の連合国に対する敗戦で、朝鮮半島における日本統治は終焉したが、代わって第二次世界大戦の連合国による統治が始まり、北緯38度線上を境に北はソ連が、南はアメリカが統治した。分割統治は当初、一時的なものであったはずであった。しかし、程なくして米ソ間で冷戦が始まり、連合国による分割統治中に南北それぞれで政権が立ち上がった。南北の境界は北緯38度線上に引かれていたため、この時点では、北緯38度線以南にある開城の中心部は、大韓民国側の統治圏内だった。また当時、人々の南北間の往来も、盛んではなかったものの可能ではあった。
1950年に朝鮮戦争が始まると、開城は真っ先に北側の朝鮮人民軍の手に渡った。その後アメリカ軍を中心とした国連軍が応戦したことで一時は開城全域が南側のものとなった時期もあったが、北側にも中華人民共和国から中国人民志願軍が参戦したことで国連軍は後退し開城は再び北側のものとなった。その後の国連軍の反撃で再び戦線が北に押し上げられたが南北の軍の最前線は開城のすぐ南で膠着した。
1953年、板門店での休戦協定締結により、朝鮮戦争は停戦(休戦)となる。それ以来、人々の南北間の往来は絶望的となった。更に、軍事境界線は北緯38度線からややずれていたことから、戦争前は南側の韓国の統治圏内だった開城は、戦争後は北側の朝鮮民主主義人民共和国の統治圏内になった。開城の人々は戦争の際、南に逃れた人もいれば、開城に留まった人もいた。この結果、南北間の離散家族は開城出身者が最も多い。
また、韓国政府統治範囲で首都圏を形成している旧京畿道所属地域の中では、開城だけが例外的に、軍事境界線よりも北に位置している。このことや、軍事境界線に最も近い主要都市であることから、開城とその周辺地域は、北朝鮮においてどの道にも属さない「開城直轄市」として1950年代半ばから行政がなされてきた。
2002年までの「開城直轄市」の行政区分は以下の通りであった。
2003年、開城市の一部と板門郡が特区「開城工業地区」として再編されるとともに、開城直轄市が解体されて黄海北道へ編入された。一時期「開城特級市」が設立されたという報道もなされたが、現在は開城市として黄海北道に属しているとみられる。「開城工業地区」の中にはソウルとまったく同じバスが走っておりコンビニエンスストアもあったが、長距離ミサイル発射・核開発を受けて韓国との関係が悪化して、2016年に韓国側に閉鎖措置がとられたため、同地区で韓国企業による工業生産は停止している。政権交代後も再開しないことを北朝鮮は批判し、再開要求をしている[7]。
この節の出典[8]
高麗の古都である開城(市街など)は観光地としても有望な場所であり古くから外国人観光に開放されている。平壌を観光する外国人はあわせて開城を訪問する事例が多い。高麗時代の城壁、王陵、教育機関などは2013年に「開城の歴史的建造物群と遺跡群」として世界遺産リストに登録された。
2005年8月にソウル発の日帰り試験観光が実施された。その後北側に支払う観光料などの条件面で交渉が続いた。2007年12月から観光会社の現代峨山(ヒョンデアサン)が実施する韓国側からのバスによる陸路での観光は開始された。
大韓民国国民は大韓民国旅券ではなく観光証を携帯する。外国人も参加可能であるが、外国人は旅券を持参する必要がある(都羅山で通常の出入国審査がある。ただし、出入国スタンプには「都羅山開城」の但し書きスタンプが添えられる)。2008年11月28日をもって開城観光は中断された。これにより、すでに中断している金剛山観光も含め、韓国側からの北朝鮮への陸路観光が全面中断することになった。
ソウルからの開城への鉄道は2003年6月までに修復され、2007年5月には列車の試運転が行なわれた。同年12月からは、開城工業地区に隣接する板門駅と韓国側の汶山駅との間で、貨物列車が土・日曜日を除いて毎日1往復運行されていた。しかし、北朝鮮側が南北間の列車往来を中断すると発表し、2008年11月28日から再び中断した。以後列車の定期運行は行われておらず、また旅客列車が往来したこともない。
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