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日本の音楽プロデューサー、投資家、実業家 ウィキペディアから
長戸 大幸(ながと だいこう、1948年〈昭和23年〉4月6日[1] - )は、日本の音楽プロデューサー、ギタリスト、ドラマー、不動産投資家、企業経営者。滋賀県大津市出身[1]。音楽制作会社『B ZONE』グループの創業者で現相談役、エフエム滋賀取締役。株式会社ドリーマップス代表取締役。兵庫県在住。
両親は公務員[2]。3歳から地元の大津少年管弦楽団に入れられヴァイオリンを習わされる[2]。中学時代はジャズに凝り、マイルス・デイヴィスやセロニアス・モンクなどを聞く[2]。高校時代にビートルズを知り[2]、滋賀県立膳所高等学校1年のとき、音楽サークルを立ち上げ[2]、サッカー部の1年先輩とロックバンド「ザ・プラネッツ」を結成[2]、ギターを担当した[2]。これ以降、7つのバンドを組んだが、全てバンマスだったという[2]。メンバーにはポール岡田(後にザ・カーナビーツ)や、森下彰夫(後のSONY洋楽ディレクター、フジパシフィック音楽出版取締役)が在籍していた。
1967年に高校を卒業後、新たなGSバンド「The Sounds Of Weeds」を結成(その後、The WEEDSに改名)。京都の月世界、大阪のナンバ一番などで活動した。
1969年5月に東京の大学を中退後、京都で5人組のロックバンド「FeedBack」を結成。ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ京都公演のオープニングアクトで出演。「FeedBack」は、のちにバンド名を「赤と黒」と改名し[1]、1972年2月1日にデビューシングル『Mr.D.J.』をテイチクのBLACKレーベルよりリリースした[1]。ラジオDJを風刺した作風となっており、ヴォーカル、ギター、作詞、作曲を担当。一作のみリリースし、残りのメンバー2名が大学卒業を機に解散。レーベルメイトのゴローと共にゴローと長戸大幸名義でアルバムを制作。
音楽では生活ができないと悟り[2]、1972年、20歳か21歳のときに京都で「BAL」にてブティックを経営[2]。藤川学園(現・京都芸術大学)に入学し、寺町に注文生産のアトリエを作って、ブティックも軌道に乗る[2]。しかし23歳~25歳の時、吉田拓郎の「こうき心 '73」を聴き、体に電撃が走るほどのショックを受ける[2]。ブティックも結婚が決まっていた女性も友達も全部捨てて、「拓郎に会いたい」と100万円と車1台だけで1974年、再び上京する[2]。
上京一週間で、後にトランザムのボーカルになった西濱哲男やクールスに参加する佐藤秀光、ビクターに勤めていた星加哲(星加ルミ子の弟)らと知り合い、星加に紹介された妹尾隆一郎のマネージャーとなる[2]。京王井の頭線池ノ上駅近くに家賃8,000円の部屋を借りて住み込み、妹尾の事務所「BIG MUSIC」を作り、そこで妹尾のテスト盤を作る[2]。
『ぎんざNOW!』(TBSテレビ)に妹尾を売り込んだところ、応対した月光恵亮から「作曲家に向いているよ」と誘われ[2]、1975年に音楽事務所「オフィス・トゥー・ワン」に入社し[2]、作曲活動を開始する[1]。1976年11月23日公開の東映『世界の空軍 AIR FORCE'77』のサントラ、シーチャン・ブラザーズ「愛の翼」で作曲家デビュー[1]。
同じ28歳の頃[2]、喫茶店で漫画を読んでいると「フォーライフ・レコード設立、新人プッシュ」という広告が目に留まり、吉田拓郎のモノマネの楽曲を作ってフォーライフ・レコードにテープを送った[2]。「音楽を始めるなら、目一杯トップと関わりたいと歌謡曲なら阿久悠と知り合おう、フォークだったらフォーライフ・レコードがいいんじゃないか」と、歌謡曲とニューミュージックの両方から攻めるという戦略を実行した[3]。長戸は「フォーライフのオーディションを受けたのは、拓郎に会いたかっただけ」と述べている[2]。フォーライフの1975年第一回新人オーディションに応募して、応募約5万人の中から川村ゆうこ、原田真二らと最終の4人に残る[2][3]。小室等・拓郎、井上陽水、泉谷しげるの前で歌を歌うと、すぐにレコードデビューが決定[2]。フォーライフより1977年8月27日までの新人ツアー「FORLIFE Fresh Forward FESTIVAL」への出演と、8月25日「軽い気持で」(FLS-1008)でソロデビューとが予定され、発売2週間前にテスト盤もできていたが急遽全て中止になる[2]。見本盤は作られたがデビューはできず[2][3]、「もう表に出るのは絶対にやめよう」と決意する[2]。当時、フォーライフは『フォーライフ』というタイトルの雑誌を作っていて、この編集に携わる(編集長は森永博志)[2]。急に泉谷しげるから『俺はフォーライフを脱退するけど、大幸どうするんだ?』と言われ、結局フォーライフを辞めた[2]。
1977年、舘ひろしと渡米しナッシュビルで録音。ここで「朝まで踊ろう」(長戸大幸作曲)をレコーディングしてリリースした。
30歳の頃、いい曲を書いても不本意なタイトルと歌詞をつけられるのがイヤで、曲だけでなく詞も曲もアレンジも全部自分でやらないと、と思い立ち[2]、1978年11月、オフィス・トゥー・ワンの社長から100万円、阿久悠から100万円を出資してもらい自身の100万円と合わせ、計300万円でビーイングを設立[2]。当初は赤字が続いたため、自分以外の200万円の株を買い取って独立[2]。以降は音楽プロデューサーとして多数のアーティストを手掛け[1]、三原順子、BOØWY、LOUDNESS、TUBE、B'z、ZARD、WANDS、大黒摩季、DEEN、T-BOLAN、倉木麻衣、小松未歩、GARNET CROWなどをデビューさせている[2]。
1993年10月31日、耳の持病悪化を理由に音楽プロデューサーを、一時的に引退[4]。東京(東日本)での仕事や文化を嫌うようになり、大阪(西日本)にて別名義で[5]活動を始める[4]。この頃より代官山や北堀江などで不動産投資を始める。
1994年11月23日、西心斎橋(アメリカ村)にクラブ「Grand Cafe」をオーナーとしてオープンさせる[4]。(2016年5月10日閉店)
2007年、音楽事務所ビーイング代表取締役を退任[4]。退任はするが音楽プロデューサー及び大株主として実質的な経営権を持つ。
2008年、大阪市福島区に堂島リバーフォーラムをオーナーとしてオープンさせる。
2020年10月から放送されているバラエティ番組『いつありのブラ街』の番組プロデューサーを担当。
2020年10月スタートの初のラジオ番組『OLDIES GOODIES』にてばんばひろふみと共にパーソナリティを務める。
2022年7月、長野県戸隠に「うぃるそば 戸隠本店」をオープンさせる。
2022年8月、大阪北堀江に「café NoHo」をGIZA studio本社ビル横にオープンさせる。
2022年10月、大阪南堀江に「うぃるそば 堀江店」をオープンさせる。
1980年代から1990年代にかけて、日本の音楽業界で活躍していた人物にも関わらず、ほとんどメディアに姿を現すことがなく、顔写真も現役歌手時代のジャケットなどを別とすれば散発的に取材に応じた際に掲載された程度だった。2010年代以降応じることが増えたインタビューや取材でも、公開される姿は背後からが多く、顔を出すことは極めて少ない[6]。
長戸は、数多くの別名や変名を使って活動している。ここでは、歌詞カードやクレジット等で書かれて知られている別名や変名を記する。
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