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日本の武士、華族、海軍軍人、政治家 ウィキペディアから
赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈1841年12月13日〉 - 大正9年〈1920年〉9月23日)は、日本の武士(幕臣)、華族、海軍軍人、政治家。貴族院議員。栄典は海軍中将。位階勲等爵位は従二位勲一等男爵。通称は大三郎。「日本造船の父」と呼ばれる。
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中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる[1]。弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。祖父赤松良則(泰輔)の墓は網干本柳寺に現存する。
(旗本である石野赤松家とは祖先を同じとする以外は全く関係ないが一部で混同されている場合がある。軍艦奉行の赤松範静は大叔父とするのは根拠のない誤りである)
オランダ語を学び、蕃書調所に勤める。安政4年(1857年)に長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学ぶ。万延元年(1860年)日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸で渡米する。文久元年(1861年)に幕府よりアメリカ留学生として選任される。しかし南北戦争勃発のためオランダ留学生に変更となり、内田正雄・榎本武揚・澤太郎左衛門らと共に文久2年(1862年)、長崎を出航してオランダへ向かう。文久3年(1863年)4月にオランダ・ロッテルダムに到着。開陽丸建造と同時進行で、運用術、砲術、造船学などを学ぶ。慶応2年(1866年)に完成した開陽丸に乗船して帰国する榎本武揚ら、同行のオランダ留学生達と別れてオランダへ残留、留学を継続する。慶応4年(1868年)大政奉還を知り、留学を中止し帰国の途に着く。同年5月17日、横浜港へ帰着した。
戊辰戦争が勃発すると、幕府海軍副総裁となった榎本と合流して江戸脱走を試みるが果たせず、徳川家臣らと共に静岡藩へ移る。静岡藩沼津兵学校陸軍一等教授方として徳川家のために尽くした。
その後は明治政府に出仕して海軍中将にまで累進。主船寮長官、横須賀造船所長、海軍造船会議議長、明治22年(1889年)に開庁した佐世保鎮守府の初代長官などの要職を歴任した。明治20年(1887年)5月24日に男爵を叙爵[2]。
明治26年(1893年)に予備役となったのち、見付(現・静岡県磐田市)へ本籍を移し、終の住家として旧赤松家(静岡県・磐田市指定文化財)を建造する。旧赤松家は現在磐田市教育委員会の管理のもと、一般公開されている。1897年(明治30年)7月10日、貴族院議員に就任し[3]、1917年(大正6年)9月13日に辞職した[4]。明治38年(1905年)10月19日、後備役に編入[5]。1909年11月1日に退役[6]。1917年9月14日に隠居した[7]。
日本海員掖済会初代会長(1881年 - 1891年委員長、1891年 - 1905年会長)を務め、明治25年(1892年)3月には、有栖川宮威仁親王を同会総裁に推戴した。
子は6男10女とする資料もある。うち1男2女が幼児期に、1女が10代で没している[14]。
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