財部羌
ウィキペディアから
ウィキペディアから
財部 羌(たからべ すすむ、弘化2年1月28日〈1845年3月6日〉[1] – 1909年〈明治42年〉4月8日[2])は、鹿児島藩の陸軍指南役、御親兵、警察官、函館区長(第7代)。位階および勲等は従五位・勲六等。幼名は、八十郎、郁之助、高朗羌。旧姓・鮫島[3]。
薩摩国鹿児島郡下伊敷村玉里(現在の鹿児島市玉里町)の生まれ。父は鮫島八郎、母は貞子(秩父太郎の長女)である。若くしてイギリス式兵術を学び、薩長同盟の倒幕では隊長(3個中隊を率いた。)を任された。鳥羽・伏見の戦い後の慶応4年(1868年)1月7日に八幡にて仁和寺宮嘉彰親王の護衛兵を拝命する。戊辰戦争時には「会津飯寺の戦い」において長岡藩上席家老・軍事総督の山本帯刀を捕えて斬首した功績により、後日、凱旋を命ぜられて有栖川宮熾仁親王より恩賞を賜り、皇太后より恩状を賜った。維新後は鹿児島藩陸軍指南役となるも明治3年(1870年)に辞職し、翌年の御親兵募集に応じて御親兵となる。明治5年(1872年)の解隊後は各地を漫遊し悠々自適に過ごした。やがて西南戦争がおきると陸軍征討別働隊第一旅団本隊雇となり、南九州各地を転戦するも明治10年(1877年)7月10日に敵兵の銃弾にて負傷し東京へ戻ることとなった。同年9月に銃弾の傷はすでに癒えていたが軍の命令で東京陸軍本病院に入院した。明治11年(1878年)、三等少警部として採用され進級して4年ほどで山形県警部長となった。以後、京都、広島の警部長を務め、明治25年(1892年)には、第6代函館区長曽我部道夫の退任に伴い区長代理となっていた井川武策の後任として、第7代函館区長に任じられる。同職を4年ほど勤めたのち、台北県書記官を経て沖縄県書記官となったが、明治30年(1897年)6月21日に依願退職した。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.