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鎌倉幕府に置かれた役職。 ウィキペディアから
評定衆(ひょうじょうしゅう)とは、鎌倉・室町時代に置かれた役職のひとつである。鎌倉時代においては幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを行う最高機関だった。
評定衆家の中でも、席次上位を独占した北条氏系の十二家は以下の通りである。名越家、常盤家、塩田家、政村流北条氏、伊具家、甘縄家、佐介家(2家)、時房流北条氏、大仏家(3家)
鎌倉殿である源頼家の独裁権を掣肘するため1199年に開始された十三人の合議制が原型であるが、評定衆として制度化されたのは1225年、鎌倉幕府の執権北条泰時が、摂家から迎えた若年の鎌倉殿の藤原頼経が名目上支配する幕府政治を、有力御家人による合議により運営するべく設置したのが最初である。この年は北条政子・大江広元が亡くなり、鎌倉幕府創設時から幕府を支えてきた人々がいなくなってしまったことも、新たな評定組織の必要性が発生した一因と考えられている[1]。
なお、評定衆の長が執権であり、その地位は北条氏が独占していた。また、将軍は評定会議には出席せず、決定事項を閲覧するのみであった。成立時点での席次筆頭は、幕府の元勲である中原親能・大江広元の親族で、将軍頼経の侍読だった中原師員が務めた[2]。のち席次上位も北条氏が独占するようになるが、師員は非北条氏としては最高の席次を保った[2]。
これには、基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿(将軍)と個々の御家人の主従関係によって成り立っているという事情がある。北条氏も鎌倉殿の家来のひとつに過ぎず、数ある御家人の第一人者であっても主君ではなかったのである。従って鎌倉殿が名目上、形式上の存在になった時に、代わって幕府を主宰するのが有力御家人の合議になるのは、当然のなりゆきであった。
しかし鎌倉時代を通じて、執権の地位を独占する北条氏の実質的な権力は次第に増大していき、幕府の最高権力者は幕府の公的地位である執権ではなく、北条一門の最上位で、本来は北条一族内での地位に過ぎない得宗へと移って行く。鎌倉時代後期には、得宗を中心とした寄合(=寄合衆)が実質的な権力を掌握し始め、それらに先議権を奪われた評定衆は形骸化してゆく。
室町時代においても幕政の一機関として設置されたが北条氏の鎌倉幕府末期の評定衆同様、足利氏一門の栄誉職的な色合いが濃く、実質的な権力は小さかったとされている。式評定衆は吉良氏や畠山氏などの足利氏一門の内でも将軍家に近い高い家格の家の当主が就任し、他氏から就任した者は「出世評定衆」と称され処遇に明確な差があった。
注:年月は在任時期
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