北条時基
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時基の史料上の初見は建長5年(1253年)で、康元2年(1257年)2月2日以前に六位の地位にあった[1]。
名越流と得宗家との対立により、兄たちが宮騒動、二月騒動で度々討伐を受けるが、兄弟の中でも年少であった時基は、その埋め合わせ的に引き立てられ、文永10年(1273年)6月、38歳で引付衆となり、弘安元年(1278年)、43歳で評定衆となる。弘安3年(1280年)11月、遠江守、弘安6年(1283年)4月、三番引付頭人。弘安7年(1284年)4月、執権・北条時宗の死去に伴って出家し、法名は道西と称する[1]。
その後、三番引付頭人を再任、二番引付頭人就任などを繰り返し、正安元年(1299年)4月1日、64歳の時に三番引付頭人を辞任した記録が最後である。
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