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鎌倉時代中期~後期の武士・武将。北条氏金沢流3代。左近将監、越後守、従五位上。鎌倉幕府 評定衆、引付4・3番頭人、伊勢守護。子に北条時雄、北条顕景、名越殿(北条時如の妻)。 ウィキペディアから
北条 顕時(ほうじょう あきとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将。北条氏の一門・金沢流北条氏の第3代当主。金沢顕時とも称される。父は第2代(実質的には初代)当主で鎌倉幕府の重職を歴任した北条実時。正室は安達泰盛の娘の千代野。
時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝治2年(1248年)[1][2] |
死没 | 正安3年3月28日[1](1301年5月7日)[2] |
改名 | 時方(初名)→顕時、恵日(慧日とも、法名)[1][2] |
別名 | 越後四郎時方、赤橋殿[2]、金沢顕時 |
墓所 | 横浜市金沢区の称名寺[1] |
官位 | 左近将監、越後守、従五位上 |
幕府 | 鎌倉幕府評定衆、引付4・3番頭人、伊勢守護 |
主君 | 宗尊親王→惟康親王→久明親王 |
氏族 | 北条氏(金沢流) |
父母 |
父:北条実時[2][3](異説あるが誤りか[4]) 母:北条政村の娘[2][3] |
兄弟 | 実村、篤時、顕時、実政、時直?、女子(長井宗秀室)、女子(北条長頼室)、女子(飛鳥井雅有室) |
妻 |
正室:安達千代野[2] 側室:遠藤為俊の娘[2]、千葉泰胤の娘[2] |
子 | 顕弁、顕実、時雄、顕景、貞顕、北条越後左近将監入道[5]、名越殿(北条時如室)、娘(千葉胤宗室)、釈迦堂殿(足利貞氏室) |
安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより逼塞を余儀なくされたが、その後に第9代執権・北条貞時の信頼を回復して復権。顕時の代に、金沢流北条氏は全盛期を迎えた[6]。
北条実時の子として生まれる。父について、『尊卑分脈』や諸本の「北条系図」では北条実村[注釈 1]の子としている[注釈 2]が、関靖の著書[4]によって誤りであることが考証されている[3](弟の実政、時直についても同様である[7])。
正嘉元年(1257年)11月23日、10歳で、得宗家当主・北条時頼の邸宅において元服し、越後四郎時方と名乗る[1][注釈 3]。文応元年(1260年)に将軍家庇番衆となって宗尊親王に仕え、歌学などの学問を学ぶ[12]。この時までに顕時に改名したようである[1]。文永2年(1265年)以前に左近将監で伊勢守護に任命されている[1]。
文永6年(1269年)4月27日に引付衆となった後[1][2]、弘安元年(1278年)2月には評定衆に加えられ[2]、弘安3年(1280年)には越後守に任官[1]。弘安4年(1281年)には引付四番頭人へと昇進[2]。その間、左近将監、越後守に任じられている。弘安6年(1283年)には従五位上に叙任。
弘安8年(1285年)11月17日、幕政を主導していた安達泰盛らが内管領・平頼綱に滅ぼされた霜月騒動では[13]、泰盛の娘婿にあたる顕時は騒動には関与しなかったが、縁戚として連座し金沢家の領地であった下総埴生庄に隠棲し[2]、出家して「恵日」(えにち)と名乗ったが、実際は謹慎処分であり出家したために助命されている[14][1]。
永仁元年(1293年)4月22日に執権・北条貞時が平禅門の乱で頼綱を滅ぼした。その5日後の4月27日に顕時は鎌倉に戻って幕政に復帰し(『武家年代記』)[15][2]、10月には貞時が引付を廃止して執奏を新設し、顕時は北条宗宣らと共に任命された[15]。永仁2年(1294年)には引付四番頭人に[16]、永仁4年(1295年)には三番頭人に加わり、赤橋館を与えられる。
晩年は長年の激務から胃病を患って政務を退くが、貞時の信頼は厚く度々諮問を受けたという[注釈 4]。
正安3年(1301年)3月28日に死去[17][1]。享年54[17]。跡を子の貞顕が継ぎ、金沢北条家は引き続いて得宗家の厚い信任と抜擢を受け続けることになる[18]。
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