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日本の小説家 (1906-1994) ウィキペディアから
(つのだ きくお、1906年5月25日 - 1994年3月26日)は日本の小説家。伝奇小説と呼ばれる時代小説、探偵小説で活躍した。
神奈川県横須賀市に生まれ、父は佐倉藩士の家系で、海軍工廠印刷部創設要員だったが、翌1907年に浅草で印刷業を始めて一家で移転する。小学生の頃から、俳句、短歌、新体詩の投稿をしており、滝沢馬琴、山東京伝、黒岩涙香を愛読、中学時代はトルストイ、ドストエフスキーなどを愛読していた。
東京府立三中時代の1921年(大正10年)に『現代』誌のスポーツ小説の懸賞に応募して二等となる。英語教師からシャーロック・ホームズの話を聞いて探偵小説に興味を持ち、翌1922年に『新趣味』に「毛皮の外套を着た男」を発表してデビュー。1923年に関東大震災で家が焼け、一時は進学を断念するが小説は書き続け、1925年に『キング』の懸賞小説に応募した「罠の罠」が掲載される(奥田野月名義)。同年に東京高等工芸学校入学。1926年に「発狂」で第1回サンデー毎日大衆文芸賞を受賞、同年に作品集『発狂』を刊行する。この頃『新青年』の作家による「探偵趣味の会」で江戸川乱歩、横溝正史らを知る。1928年に東京高等工芸学校を卒業し、研究助手嘱託。1929年から海軍水路部に勤務。
1929年に初の時代小説『倭絵銀山図』を『週刊朝日』に連載。報知新聞の映画小説募集に応募したが入選せず、書き直した原稿「妖棋伝」を『日の出』で1935年から連載して人気作家となり[1]、1938年から推理を取り入れた伝奇小説「風雲将棋谷」を『講談倶楽部』に連載して、同誌を代表する作家となる。続いて『髑髏銭』などの奇想作品を発表、国枝史郎ともに「伝奇小説」というジャンルを生み出した[2]。「鍔鳴浪人」を読売新聞に連載する頃には、原稿料の収入が月給の何倍にもなり、読売新聞社客員となって月300円の専属料と、東宝から原作獲得の優先権のための嘱託料を受けるようになり、1939年に海軍水路部を辞して作家専業となる。1942年には海軍報道班員として徴用され、南洋諸島に従軍する。『講談倶楽部』では看板作家で、「緋牡丹盗賊」や、戦後の「妖異忠臣蔵」など連載は8回を数え、この頃舟橋聖一と丹羽文雄を合わせた原稿料を取る流行作家であった[3]。しかし時節により伝奇ロマンの執筆が難しくなり、現代小説『妻なれば』を連載、時代小説が誌面縮小などで中断したりもした。
1946年に戦後初めての探偵小説『高木家の惨劇』は、発表のあても無く20日間で書き上げ、翌年『小説』誌に「銃口に笑う男」の題で一挙掲載、江戸川乱歩は「登場人物達の性格描写の筆力」に敬服したと評し[4]、「本格ミステリ第一の波」の一翼を担った小説とされる。その後も謎解きをメインにした探偵小説を多く執筆。1958年に「笛吹けば人が死ぬ」で第11回日本探偵作家クラブ賞の短編賞を受賞。警視庁捜査第一課長加賀美敬介の活躍するシリーズに「怪奇を抱く壁」「高木家の惨劇」「Yの悲劇」「奇跡のボレロ」「霊魂の足」などがある。1954年から1960年まで日本探偵作家クラブ副会長を務める。1955年頃からは心理スリラーとも言うべき短篇を発表[5]。
時代小説も1948年の大岡政談もの『緋牡丹盗賊』などから執筆を再開。1958年に大阪新聞に『恋慕奉行』を連載、続いて同じ大岡越前配下の同心水木半久郎の登場する『半九郎闇日記』『寝みだれ夜叉』『盗っ人奉行』の<半九郎四部作> も発表。
1959年に大阪新聞で『半九郎闇日記』を連載する際、文化部の福田という記者が『恋慕奉行』の続編をと依頼に来た。色々と話している中で、「誰か目ぼしい新人作家はいませんか?」と福田が聞いてきたので、「『梟の城』を書いた司馬遼太郎という新人作家はいいです。あれは大物ですよ。」と答えた。その後『梟の城』が直木賞を受賞して、司馬遼太郎という作家の顔を見て大笑いした[6]。
他に、『ぷろふいる』誌上で、海野十三との共有ペンネームである青鷺幽鬼の筆名で作品を発表したこともある。1959年頃から日影丈吉、山田風太郎、山村正夫ら推理作家の親睦グループを持ち、「例の会」と呼ばれていた。趣味の将棋は棋士高柳敏夫に師事して四段の腕前で、しばしば作家を集めての将棋会も開いた。1966年には還暦を記念して『角田喜久雄氏華甲記念文集』が出版される。1975年頃に創作からは手を引いた。1985年に胃癌の手術。1994年3月26日、急性肺炎のため東京都東村山市の病院で死去。
「発狂」は「トリックの着想がきわめて斬新」として子母澤寛が強く推した。「妖棋伝」が連載開始後の6月に林不忘が急逝し、その後の『日の出』誌で人気の穴を埋めることになり、また三上於菟吉が高く評価し、第4回直木賞候補となった際にも強く推した。子供の頃浅草寺の境内で遊んでいてお賽銭らしい幾枚かの絵銭を掘り出したことがあり、これが『髑髏銭』の発想の元になっている[7]。
好きな作家にはジョルジュ・シムノンを挙げており、加賀美敬介もメグレ警視の造型から生まれた。『日本少年』誌に掲載した「いろはの左近捕物日誌」、「女形同心」鳥飼春之助などの捕物帳作品は『怪異雛人形』に収められている。
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