Loading AI tools
日本の小説 ウィキペディアから
『菜穂子』(なおこ)は、堀辰雄の長編小説。堀の唯一のロマン(本格的長編物語)で、堀文学の到達点といわれる晩年の代表作である[1][2]。プロローグとなる「楡の家」と本編「菜穂子」を合わせた2編から成る。
或る小説家との恋で、生来のロマネスクな性格を生き、その情熱を慎ましさのうちに踏み堪えた母と、母の恋に反発しつつも、母と同じ素質と、それ以上に破滅的な傾向を自分のうちに予感した娘が、母が守ろうとした「永遠にロマネスクなもの」を敢然と拒絶し、心の平安を求めて愛のない結婚に逃避する物語[3][4][5]。不幸な結婚生活に陥ったヒロインが幼馴染の青年との再会を通じ、自己を見つめ「生」を追い求めて葛藤してゆく過程が、美しく厳しい信州の自然を背景にして、彼女を想う青年の孤独な旅の喪失感や、夫の心理との対位法的な構成によって描かれている[3][6]。
1934年(昭和9年)、雑誌『文藝春秋』10月号(第12巻第10号)に「物語の女」(のち「楡の家」第一部)が掲載された [7][8]。この一編は単行本『物語の女』に収録され、同年11月20日に山本書店より刊行された[7][8]。約7年後の1941年(昭和16年)、雑誌『中央公論』3月号(第56巻第3号)に「菜穂子」が掲載され、同年、雑誌『文學界』9月号(第8巻第9号)に「目覚め」(「楡の家」第二部)が掲載された[8]。
これら全ての編を合わせた単行本『菜穂子』は同年11月18日に創元社より刊行され、翌年1942年(昭和17年)3月に第一回(昭和16年度)中央公論社文藝賞を受賞した(賞金は当時の金額で3千円)[8]。文庫版は岩波文庫の『菜穂子・他五編』に収録されている。
堀辰雄は自身を主人公にした『美しい村』で、失恋の痛手から生への意欲を取り戻した後、モーリアックの『小説論』の中の「最も客観的な小説の背後にも、……小説家自身の活きた悲劇は隠されてゐる。……しかし、その私的な悲劇がすこしも外側に漏れて居なければ居ないほど、天才の成功はあるのだ」という一節に出会い[9]、再び『聖家族』以来の課題であった「我々ハ《ロマン》ヲ書カナケレバナラヌ」という意識に立ち返り、1934年(昭和9年)に、日記形式の作品『物語の女』(のち「楡の家」第一部)を書き上げた[2]。
堀はすぐにその続編となる「娘の日記」の構想を練っていたが、婚約者の矢野綾子の死去により、『風立ちぬ』を書くことになった。しかし堀は、『風立ちぬ』や、折口信夫やリルケ体験から結びついた王朝文学へ傾倒の作品を書きながらも、『物語の女』の続編を考えており[10]、1940年(昭和15年)1月に、「『菜穂子』(仮題)という小説」を目下構想中だと『帝大新聞』のアンケートに答え[3]、「おぼえてゐるかしら、僕のずつと前に書いた『物語の女』のなかに出てくる菜穂子といふ若い娘を」と切り出し[注釈 1]、以下のよう語っている。
あの娘がいつかしら僕の裡ですつかり大人になつて、知らぬまに思ひがけず悲劇的な相貌を具へ出してきてゐたのです。みかけは異ふが、あの母と同質の、悲劇――いはば生の根源に向はうとする無邪気な心の傾きをそのまま、血気のあまりそれによく踏みこたへた母の抵抗ももたなければ、又彼女の共に生きなければならなかつた人々のより非人間的な、(それが世間では反対になんと人間的とおもはれてゐることか!)冷たい心の機構のために、あやふく彼女を待つてゐたやうな悲劇のまつただ中に墜ち入らんとして、漸くふみこたへつつ、遂に一抹の光――あのレンブラントの晩年の絵のもつてゐるやうな、冬の日の光に似た、不確かな、そこここに気まぐれに漂ふやうな光を浴び出す一人の女の姿――そんな絵すがたを描いてみたい様な欲求が、いま、僕を捉へてゐるのです。 — 堀辰雄「帝大新聞アンケート 1940年1月」(「『菜穂子』覚書I」)[3]
堀は『菜穂子』の執筆動機を、「その短編(物語の女)の女主人公を母にもち、その素質を充分に受け嗣ぎつつ、しかもそれに反撥せずにはゐられない若い女性として、その母が守らうとした永遠にロマネスクなるものを敢然と自分に拒絶しようとする若い女性の人生への試みが私の野心をそそのかしたのだ」と語り[4]、書きあげた感想として、「作品の出来不出来はともかくも、作者の私にとつては、生まれてはじめて本当に小説らしい小説を書いたやうな気がする」と記している[4]。
ヒロイン菜穂子の母のモデルは、片山広子(筆名:松村みね子)であり、母の恋人のモデルは芥川龍之介である[2][12][13]。また、ヒロインや幼馴染の青年・都築明には、作者・堀自身も投影されているが[5]、都築明には堀の愛弟子であった立原道造もモデルとなっており、立原の急死の影響が加わった[2]。
なお、作中で三村夫人が娘・菜穂子に、自分が女でなくなった(閉経した)ことを告げ、「私は自分がさういふ年になれてから、もう一度森さんにお目にかかつて心おきなくお話の相手をして、それから最後のお分かれをしたかつたのですけれど……」と語る言葉は、堀が片山広子から実際に聞いた言葉に依拠しているという[13]。
『菜穂子』に登場した追分村の人々の挿話の小品「ふるさとびと」は、1943年(昭和18年)、雑誌『新潮』1月号に掲載され、『菜穂子』との連作の様相ともなっている[1][2]。「ふるさとびと」は、副主人公の都築明と関わった牡丹屋のおようを中心とした挿話だが、このおようには、堀自身の亡き母のイメージがだぶっているといわれている[2]。
1926年9月7日、O村(追分村)にて
1928年9月23日、O村にて
1931年
『菜穂子』は、永年「ロマン」を目指していた堀辰雄の生涯唯一の長編小説となり、晩年の代表作である[1]。『菜穂子』以後、病苦のために長編が書かれることなく、堀は亡くなるが、釈迢空(折口信夫)はその死を悼み、以下の弔歌を詠んだ。
菜穂子の後 なほ大作のありけりと そらごとをだに 我に聞かせよ—釈迢空
菜穂子の物語であったはずの『菜穂子』が、徐々に都築明の比重が大きくなっていったのは、立原道造の夭折に関わりがあり、明の比重が増すにつれて本当の小説に近づいていったと小久保実は解説している[2]。堀の創作ノートによると明と菜穂子は、「冬の旅(Winterreise)彼の生き方は、彼の死によつて、一層完成す。夭折者の運命。 雪(The snow)彼女の生は、彼女の耐へた生によつて、一層完成す。生者の運命。」という対位法的な主題となっている[2]。また、「秋 絶望視せられてゐた荒地からの真の夫婦愛の誕生。貧しけれども匂なけれども、誇らかに美し。――このあたりより、Rembrandt-ray を与へよ」と記されていたが、この主題は実現されなかった[2]。
この最後の主題が暗示的な予感のままだけで終わってしまったことについて佐藤泰正は、日本的な風土において、「〈受胎告知〉的なモチーフ」、「神の人間界への問いかけ」という一種メタフィジックなテーマの実現が難しいことを、この作品は逆説的に示しているとし[14]、この困難な課題は、最も日本的な風土と背景を用いた堀の最後の小説『曠野』でも試みられていると解説している[14]。
少年時代に堀文学を愛読していた三島由紀夫は、『菜穂子』の副主人公・都築明と石原慎太郎の『亀裂』の主人公が同姓同名であるという着眼から、書かれた時代も作風も青年の性格も全く異なる二作品を詳細に比較し評論している[5][注釈 2]。三島は、石原の『亀裂』がその破天荒な悪文にもかかわらず、「為体のしれない活力」の効果により「現代小説」として成功している一方、堀はその優れた文体の名文家にもかかわらず、『菜穂子』は成功作とならずに息切れしてしまい、都築明が老人か子供のようで、黒川圭介に凡俗の悪が足りないことを指摘しつつも[5]、堀の動植物の描写が美しく巧緻な点や、都会人や別荘人種の描写が得手と思われている堀が、実は村娘・早苗のような素朴な田舎の人物の描写に長じ、ある意味、早苗が菜穂子より「ヴィヴィッド」に描かれている利点を挙げている[5]。
また、都築明と黒川圭介の人物造型に、逆にもっと「多量のアクテュアリティー」を与え、実在感を持たせてみる修正案を三島は提示しながらも、ヒロイン菜穂子については、「どんなに周囲の物語が変貌しても、菜穂子だけは古びない」とし、その理由は、「菜穂子だけが作者が真に創造した人物であり、作者の文体にしつくり合つて、その文体と共に呼吸してゐる人物だから」だと解説している[15]。そして、堀が『風立ちぬ』で試み、さらに『菜穂子』で「もつと徹底的に試みたこと」は、フランス古典小説の手法や日本の王朝女流日記(蜻蛉日記や和泉式部日記)の伝統に沿って、「小説からアクテュアリティーを完全に排除し、古典主義に近づかうとしたこと」だったと指摘し[15]、もしも自分(三島)の修正案のように、副人物に「多量のアクテュアリティー」を与えてしまうと、菜穂子と副人物が「異質異次元」の「別の星の住人」になるため、「(堀)氏が決然と小説のアクテュアリティーと身を背けたことは、氏として正しかつたのであり、日本における古典性(これは西欧的な古典といふ意味とは大いにちがふ)の達成においても正しかつた」とし[15]、その理由は、「日本で小説が成立する方向は、文体を犠牲にしてアクテュアリティーを追究するか、アクテュアリティーを犠牲にして文体を追究するかのどちらかに行くほかはないから」だと説明し、「堀氏はその一方向を徹底した点で立派なのである」と解説している[15]。
さらに三島は、『菜穂子』を支えている三つの「方法論」として、「情念の純粋化による菜穂子の創造(フランス的方法)」、「形而上学的な生の模索の主題」、「自然描写」を挙げ、堀は、「二つの異質の抽象化と自然描写とを一応みごとに結合させ、氏一流の文体のうちに、さしたる不自然もなく融解させてしまふ」と説明し[15]、それは堀の中に、雪舟や光琳や宗達と同じ東洋人の風土的な「抽象衝動」が本能的に潜在していたためで、それゆえに「形而上学と自然と人間との、東洋人らしい、また日本人らしい混同と融和が可能であつた」とし[15]、堀の文体についても、「いかにも西欧的な文体と見えながら、氏は根本において、知的・精神的なものと無縁な抽象衝動によつて動かされ、独自の装飾的文体を創始した」と論考している[15]。
そして最後に、「現代における純粋行為の不可能」という、『亀裂』と『菜穂子』に共通性のある主題に三島は触れ、『亀裂』の「現実」の意味は、「はしなくも菜穂子があのやうに誘はれあのやうに追ひ求めた“生”の意味に似通つてくる」と解説し[16]、『亀裂』も『菜穂子』も共に、「暗い穴の記念碑」であり、「到達不可能の現実に対する絶望的な模索の試み」であるとし、その点で『菜穂子』は、「小説の広義の自然主義的要請をしりぞけず、それにこたへ得てゐるのかもしれない」と考察しながら[16]、「作家の信じた“生”や“現実”の存在は、それへの到達が不可能であることによつて、却つて作品の鞏固な存在条件をなす」と論じている[16]。また三島は『菜穂子』の先蹤的作品として、芥川龍之介の短編『秋』を挙げ、そこにはすでに「近代心理小説の見取図」が出来上っていて、「あとは作者のエネルギーの持続を待つだけだつた」と解説している[17]。
竹内清己は、母・三村夫人が自己省察する、「自己の外貌が自己の実在なのか、第三者の目にみえない自己の内界が実在なのか」という問題は菜穂子にも引き継がれているとし[6]、三村夫人が、自己の内面が「気まぐれな仮象にしかすぎない」のではないかという疑問を持つ点に触れ、以下のように解説している。
また、この存在様式は、堀が「生をかけて得ようとした芸術的形象」であり、「ロマネスク」とは、作中に見られるそういった感応の想念のドラマを「古雅な静謐のなかに存立させること」だと竹内は解説し[6]、そのロマネスクを帯びていた母に反発しつつも菜穂子の内界は、「母への同化回帰を志向」し、この二律背反が菜穂子の孤独や虚無を厳しくする、「大いなるクラシシズムを喪失した近代そのものの悲劇」であり、「ロマネスクなるものをもはや望みえない近代人の実存」だと考察している[6]。
そして竹内は、その堀が求めてやまない、ロマネスクなものを抱ける「新しいクラシシズム」は、リルケの『愛する女性』に見られる「ついに苦しみがきびしい氷のよな美しさに変貌」していくような、「心の中だけは自分一人の杳かな世界を守る孤独な方法」[18]を、『かげろふの日記』のヒロインに付与したものであったが、『菜穂子』においてはそれが、「その戸口に立っただけで終り、“孤独な方法”をみいだし生活のなかで実践しうるかどうか今だ提示していない」と解説している[6]。また竹内は、三島由紀夫が、ヒロイン菜穂子が新しく古びないと解説したのは正しいとし、それをさらに敷衍し、菜穂子が古びないのは、「菜穂子の生が人間の存在様式の極北を示している」からだ考察している[6]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.