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宝永7年(1710年)、本多忠晴が三河国伊保藩より1万5000石で入部したことから立藩した。延享3年(1746年)、第3代藩主・本多忠如のときに陸奥国泉藩へ移封となったため、入れ替わりで板倉勝清が1万5000石で入る。寛延元年(1748年)11月、勝清は2万石に加増されて城主格となる。しかしその翌年、勝清は上野国安中藩へ移された。代わって三河挙母藩より本多忠央が1万石で入る。ところが宝暦8年(1758年)、美濃国郡上藩の金森氏が騒動や苛酷な統治を理由に改易となると、その縁戚関係にあった忠央も連座として改易された。
代わって第9代将軍・徳川家重のもとで頭角を現わし始めていた田沼意次が1万石で入った。意次は第10代将軍・徳川家治のもとで宝暦12年(1762年)2月15日に5000石、明和4年(1767年)7月1日には側用人に栄進して5000石を加増されて2万石の大名となり、さらに城主格に任じられて相良城の築城を許された。相良城は安永7年(1778年)に完成した。ちなみに田沼は安永元年(1772年)1月に老中に出世し、「田沼時代」を現出し、権勢並ぶ者なしの栄華を極め、所領は最終的に5万7000石にまで加増された。順次加増されたため、5万7000石の内訳は遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡に跨った分散知行となった[1]。
藩政において、築城とともに城下町の改造を行なって手腕を見せた。意次は郡上一揆の調査と裁定を行った経歴から、年貢増徴政策だけでは家を滅ぼすことを知っていたので、家訓で年貢増徴を戒めており、領内の年貢が軽いことから百姓が喜んだ逸話が残されている。江戸定府であった意次は国元の町方と村方の統治を明確化し、城代・国家老などの藩政担当家臣を国元に配置した。殖産興業政策にも取り組み、農業では養蚕や櫨の栽培を奨励、製塩業の助成、相良港の整備、瓦焼きにも助成金を出して火事対策を進め、食糧の備蓄制度も整備した。また、東海道藤枝宿から相良に至る分岐路を整備し、これは後に田沼街道(相良街道)と呼ばれることとなった[2]。
しかし天明6年(1786年)、家治が死去すると松平定信の粛清にあって意次は失脚して強制的に隠居させられ、意次の孫・田沼意明が家督を継いだが、陸奥下村藩に1万石で移封された。定信はさらに、和泉国岸和田藩主の岡部長備をして相良城を破却せしめ、相良藩は廃藩となる。
その後、文政6年(1823年)7月8日、徳川家斉の尽力もあって意次の四男・田沼意正は旧領相良に1万石で復帰を許された。第3代藩主・田沼意尊の代である明治元年(1868年)、上総国小久保藩へ移されたため、再度廃藩となった。
1万5000石 譜代
譜代 1万5000石→2万石
1万石 譜代
1万石→1万5000石→2万石→2万5000石→3万石→4万7000石→5万7000石→3万7000石→1万石 譜代
譜代 1万石
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