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海軍軍医学校(かいぐんぐんいがっこう、旧字体:海󠄀軍軍醫學校󠄁)とは、大日本帝国海軍における軍人の医療・衛生を担当する軍医および看護士・薬剤師を養成する教育機関のことである。医学・薬学・歯学の3コースを設定し、海軍病院を総括指導する軍医を養成する普通科・高等科・特修科、医療現場で活動する看護士・技師を養成する選修科を設置した。
1872年(明治5年)、東京・築地の現在国立がん研究センター中央病院が所在する場所にあった海軍病院に「海軍病院学舎」を増設し、11名の医師にイギリスから招聘したウィリアム・アンダーソン医学博士による医術の手ほどきをさせたのがルーツである。9年にわたって医術教育は継続されたが、1880年にアンダーソン博士が帰国し、1881年に第1回卒業生を送り出したが、これを機に教育が続行不能となってしまった。
そこで、高木兼寛医務局副長を中心とする日本人医療スタッフが自ら教鞭をとり、翌年に海軍医務局学舎を立ち上げ、10名の医師の指導を始めた。と同時に、軍医官依託学生制度を新設し、東京帝国大学医学部生7名を候補に挙げた。これが1886年に「海軍医学校」と改称された。改称とほぼ同時に同じ東京市の芝山(現・港区西新橋)へ移転。海軍病院と離れてしまったため、臨床実験や実習は隣接する東京慈恵医院の協力を得た。東京慈恵医院は海軍生徒として英国セント・トーマス病院医学校(現ロンドン大学群キングス・カレッジ・ロンドン医学部)で学んだ高木兼寛が松山棟庵と共に設立した医院であり、海軍とも関係が深い場所だった。
また、1884年(明治17年)には東京府荏原郡に第二附属病院(国立東京第二病院を経て現・国立病院機構東京医療センター)が開院した。
1889年には特認されていた私費学生制度を全廃する一方、薬剤官候補生の実習を始めている。
1894年3月に全生徒・候補生が卒業したため、医学校は廃止された。医学教育は海軍大学校に増設した軍医科で続行され、8名が編入された。
日露戦争を目前に、激増すると予想される医療スタッフの養成機関を拡張するため、医務局は1898年4月に軍医学校を再設置した。士官相当の医師には軍医教育、下士官相当の医師・薬剤師には講習及び実習を推進した。1908年に築地へ移転、翌年には直営の東京施療病院を併設し、長らく続いていた東京慈恵医院での臨床実験・実習を終えた。以後は海軍教育本部の拡張と解体に呼応した制度変革と、その他の術科学校と同様のコース設定が行われたのみで、教育内容を刷新しながら医学・薬学の教育を進めた。なお、歯科医養成は1942年より始まった。
大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)終結に伴い帝國陸海軍が解体されたため、1945年(昭和20年)11月1日付で閉校。跡地は建物を進駐軍に接収された聖路加国際病院が一時移転した後、厚生省に引き継がれ、国立がん研究センター中央病院の系譜につながっていった。第二附属病院は直接厚生省に引き継がれ、国立東京第二病院を経て、国立病院機構東京医療センターとなった。
選修科は下士官相当の軍医・技官が対象。細菌検査・レントゲン撮影・化学実験などの技師養成コース。
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