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韓国のサッカー選手 ウィキペディアから
洪 明甫(ホン・ミョンボ、홍명보、1969年2月12日 - )は、韓国・ソウル出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現在は同国代表の監督を務めている。
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名前 | ||||||
愛称 | 永遠のリベロ、BO | |||||
カタカナ | ホン・ミョンボ | |||||
ラテン文字 | HONG Myung-Bo | |||||
ハングル | 홍명보 | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 大韓民国 | |||||
生年月日 | 1969年2月12日(55歳) | |||||
出身地 | ソウル特別市 | |||||
身長 | 181cm | |||||
体重 | 71kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF (CB) / MF (DH) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1987-1991 | 高麗大学校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1992-1997 | 浦項スティーラース | 110 | (14) | |||
1997-1998 | ベルマーレ平塚 | 42 | (0) | |||
1999-2001 | 柏レイソル | 72 | (7) | |||
2002 | 浦項スティーラース | 19 | (0) | |||
2003-2004 | ロサンゼルス・ギャラクシー | 38 | (0) | |||
通算 | 281 | (21) | ||||
代表歴2 | ||||||
2000 | 韓国U-23(OA) | 1 | (0) | |||
1990-2002[1] | 韓国 | 136 | (10) | |||
監督歴 | ||||||
2009 | 韓国U-20 | |||||
2009-2012 | 韓国U-23 | |||||
2013-2014 | 韓国 | |||||
2016-2017 | 杭州緑城 | |||||
2021-2024 | 蔚山現代/蔚山HD | |||||
2024- | 韓国 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2020年12月24日現在。 2. 2014年11月22日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
現役時代のポジションはセンターバック、ディフェンシヴハーフ。韓国代表史上最多の136キャップを誇り、ワールドカップには4大会連続で出場した。またペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人にも選出されている。引退後にサッカーを通じた慈善活動として財団「洪明甫財団」を設立、子供サッカー教室支援、有望な若手選手の発掘・育成・奨学金支援などを行なっている。
1992年浦項スティーラースでプロのキャリアをスタートさせ約5年間プレー。1995年5月10日には47メートルのFKを決めた。
1994年12月28日には、ワールドカップでの活躍で、アジア以外でも存在が知られるようになり、ASローマ主催のチャリティーマッチに、世界選抜の一員として、アジアから三浦知良と共に招かれて出場[2]、10番を着てプレー、裏に抜け出した三浦にスルーパスを出すなどのプレーを見せた[3]。12月30日には、ACミラン主催のチャリティーマッチにも世界選抜の一員として出場した[4]。
Jリーグではベルマーレ平塚に1シーズン半、柏レイソルに3シーズン在籍。Jリーグ移籍前にはイタリア、フランス、ドイツの各強豪と言われる様なクラブ、更にスペインのFCバルセロナからのオファーも受けたが[5]、数年間獲得に関心を持ち続け、条件のいい熱心なオファーをしていたことから、ベルマーレ平塚にシーズン途中の移籍をした[6]。1994年にもJリーグ入りの話は有ったが[5]、韓国サッカー協会、周囲の反対も有り、Jリーグ入りは実現しなかったが、2002年日韓大会の共同開催が決まったこともあり、ようやく移籍の話がまとまった[7]。デビュー戦となった7月2日の名古屋グランパス戦で、ストイコビッチを完全に抑え込んだ[5]。ベルマーレ在籍中はチーム事情からボランチでプレーした[8]。1997年12月4日にはワールドカップフランス大会を記念したヨーロッパ選抜対世界選抜の試合に、ジダン、中田英寿らと共に出場した。
1999年ヨーロッパのクラブからもオファーを受けたが[5]、柏レイソルに移籍、Jリーグで初の韓国人選手のキャプテンとなった。洪の加入でレイソルの守備は安定し[9]、1st、2ndステージ共に4位の成績を残した[9]。1stステージ、3月13日、第2節のアビスパ福岡戦でJリーグでの移籍後初ゴールを決め[10]、5月29日15節の古巣ベルマーレ平塚戦では同点ゴールを決めた[11]。第2ステージ12節のアビスパ福岡戦でゴール、13節のジュビロ磐田戦では決勝ゴールを決める活躍を見せた[12]。同年のナビスコカップ 準々決勝、ジュビロ磐田戦第1戦ではロスタイムにゴールを決め、準決勝進出に貢献[13]、準決勝の名古屋グランパス戦、2ndレグでイエローカードを受け[14]、イエローカード累積の為、決勝の鹿島アントラーズ戦ではプレー出来なかったが、ナビスコカップ優勝に貢献した。また同年開催されたJリーグたらみオールスターサッカーに出場した[15]。
2000年には韓国代表そして浦項時代のチームメート黄善洪がレイソルに加入、またこの年から西野朗監督からの依頼でキャプテンに就任した[8]。1stステージの第4節のFC東京戦では決勝ゴールを決め[16]、5月20日、第14節の川崎フロンターレ戦では先制点を決めた[17]。2ndステージ最終節柏は鹿島アントラーズとの直接対決で勝てば優勝というところまで迫るも、スコアレスドローで2位となり、ステージ優勝は逃したが[9](年間勝点数ではリーグ1位となった。[9])、チームを牽引して、Jリーグベストイレブンに選ばれた[9]。
2001年には洪の誘いで柳想鐵が加入し、韓国代表選手3名が揃う陣容で優勝を目指したが[18]、チームは調子が出ず低迷した。洪は怪我で2ndステージ、8月18日の横浜F・マリノス戦以降の試合を欠場し[19][20]、2001年12月9日退団セレモニーが行われ[21]、レイソルを退団した。同年8月4日にはJリーグたらみオールスターサッカーに出場した[22]。
その後、浦項スティーラースへの復帰を経て、新たな挑戦そして、英語やマーケティングなどを学ぶ意味も込め、MLSのL.Aギャラクシーでプレーし[23]、2003年MLSオールスターゲームにコミッショナー選出で出場、2004年に現役を退いた。
2004年3月にペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人に選出された。
2019年にはJリーググローバルアンバサダーに就任した[24]。
ワールドカップには4大会連続出場。高麗大学校時代より代表入りし、ワールドカップ1990年イタリア大会に出場。
1994年のアメリカ大会では、スペイン戦では1得点1アシスト(ソ・ジョンウォンのゴールをアシスト)、ドイツ戦でも1得点を決めたが、2分け1敗でグループリーグ敗退した。
1998年フランス大会でも、1分け2敗でグループリーグ敗退に終わる。
2000年にはオーバーエイジ枠でシドニーオリンピックにも出場した。
2002年日韓大会では、準々決勝スペイン戦では、PK戦で5人目のキッカーとしてPKを成功させ、韓国はベスト4入りとなった。韓国代表のベスト4進出に大きく貢献し[25]、アジア人初のブロンズボール賞に輝いた[26][27]。
2004年に現役を退いた後、2005年10月、ディック・アドフォカート監督の下、韓国代表アシスタントコーチに就任し、2006年ワールドカップに参加。アドフォカート退任後に就任したピム・ファーベーク監督の下でも同職を務め、AFCアジアカップ2007に参戦した。2007年から2008年までU-23韓国代表のアシスタントコーチを務めた後、2009年にU-20韓国代表の監督に就任。U-20ワールドカップ2009年大会で同代表をベスト8に導いた。2009年10月、その実績を認められオリンピック韓国代表の監督に就任。ロンドンオリンピックで韓国サッカー史上初となる銅メダル獲得の快挙を果たした。
ロンドンオリンピック後は、2013年1月から2002年ワールドカップ韓国代表監督だったフース・ヒディンクが率いるロシアプレミアリーグのアンジ・マハチカラで指導者研修を受けた。2013年6月26日、2014年ワールドカップ予選突破後に退任した崔康熙の後任として、韓国代表監督に就任した。契約では2014年ワールドカップだけでなく、2015年1月のアジアカップまで韓国代表を率いることとなっている[28]。2014年、ワールドカップ本戦は1分2敗でグループリーグ最下位で敗退し、大韓サッカー協会に辞意を伝えたが7月3日に協会は洪の続投を決定[29] した。しかし、10日になり一転して辞任することを表明した[29]。ワールドカップ敗退後に選手たちと会食した時の映像が流出した[30] ことや、代表メンバー選考において個人的な関係を優先した「義理起用」[31] などで批判報道に晒されていた。
Jリーグのアルビレックス新潟にも興味を示されており、就任の可能性はあったが契約には至らなかったという。
2016シーズンより中国サッカー・スーパーリーグの杭州緑城の監督をしていたが、2017年5月に退任。
2021年から蔚山現代FCの監督に就任、2022年にはチームを優勝に導き、リーグの最優秀監督に選出された[33]。
2024年7月、10年ぶりに韓国代表監督に就任した[34]。
ロサンゼルス・ギャラクシー在籍時の登録名は「BO」であった。リーグ戦でも選手名として背中に「BO」と書かれたユニフォームを着用してプレーし、2003年に母国・韓国で開催されたピースカップにギャラクシーの一員として参加した際、リーグ戦と同様に「BO」のネームの入ったユニフォームを着用しプレーしている。また「BO基金」を設立したほか、アメリカ・カリフォルニア州に開設したサッカースクールの名称も「BOサッカーアカデミー」である。
柏レイソル退団の際以下のメッセージを残した。
日本に来て4年7ヶ月、柏レイソルに来て3年、優勝の悲願を胸に、戦ってきましたが、ここで、ひとまず、ピリオドを打たなくてはいけない「とき」がきました。 ここ、レイソルには、実に、さまざまな思い出があります。 苦しいトレーニング、試合。勝ち、そして負け。 昨年の11月26日、鹿島アントラーズとの試合で引き分け、Jリーグ優勝を逃しました。とても、くやしかった。 そして、今年、8月23日、チームドクターの疲労骨折だとの診断。そして、当分、ゲームには出場できない、と聞かされました。言葉もないほど、くやしかった。 くやしかったことばかり申し上げました。しかし、そのくやしかったこと、全ては、私が愛する、「サッカー」のせいで、「サッカー」の為でくやしかったわけです。 それも仕方ない事だと思います。 私は、これからも、サッカーを続けようと思います。そして、現役を引退してからも、サッカーに関わり続けることと思います。みなさんも、これからも、サッカーを愛しつづけることと思います。
今日は、私たちの為に、ありがとうございました。 今までの、あたたかい、応援に対して、感謝申し上げます。 私、洪明甫は、これからも、サッカーと共に、歩み続けたいと、思います。 柏レイソルのサポーター、関係者の皆様、そして日本の皆様、ありがとうございました。」と述べ、日本を去った。
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
1992 | 浦項 | Kリーグ | 29 | 1 | 8 | 0 | - | 37 | 1 | ||
1993 | 11 | 1 | 1 | 0 | - | 12 | 1 | ||||
1994 | 17 | 4 | 0 | 0 | - | 17 | 4 | ||||
1995 | 24 | 1 | 7 | 0 | - | 31 | 1 | ||||
1996 | 29 | 7 | 5 | 0 | |||||||
1997 | 0 | 0 | 6 | 0 | |||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1997 | 平塚 | 37 | J | 10 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 13 | 1 |
1998 | 20 | 32 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 34 | 0 | ||
1999 | 柏 | J1 | 28 | 5 | 5 | 2 | 4 | 2 | 37 | 9 | |
2000 | 29 | 2 | 2 | 0 | 2 | 0 | 33 | 2 | |||
2001 | 15 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 18 | 0 | |||
韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
2002 | 浦項 | Kリーグ | 19 | 0 | 0 | 0 | |||||
アメリカ | リーグ戦 | リーグ杯 | USオープン杯 | 期間通算 | |||||||
2003 | LAギャラクシー | MLS | 25 | 0 | - | 2 | 0 | 27 | 0 | ||
2004 | 13 | 0 | - | 0 | 0 | 13 | 0 | ||||
通算 | 韓国 | Kリーグ | 129 | 14 | 27 | 0 | |||||
日本 | J1 | 114 | 7 | 10 | 2 | 11 | 3 | 135 | 12 | ||
アメリカ | MLS | 38 | 0 | - | 2 | 0 | 40 | 0 | |||
総通算 | 281 | 21 | 37 | 2 |
韓国代表 | ||
---|---|---|
年度 | 試合数 | ゴール |
1990 | 20 | 2 |
1991 | 1 | 0 |
1992 | 3 | 1 |
1993 | 18 | 2 |
1994 | 14 | 4 |
1995 | 5 | 0 |
1996 | 16 | 1 |
1997 | 12 | 0 |
1998 | 8 | 0 |
1999 | 5 | 0 |
2000 | 11 | 0 |
2001 | 7 | 0 |
2002 | 16 | 0 |
Total | 136 | 10 |
# | 日時 | 開催地 | 対戦国 | 試合結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 1990年 8月3日 | 北京, 中国 | 中華人民共和国 | 1–1 (6–5 PK) | 1990 ダイナスティカップ |
2. | 1990年 9月23日 | シンガポール | 7–0 | アジア競技大会 | |
3. | 1992年 8月24日 | 北朝鮮 | 1–1 | 1992 ダイナスティカップ | |
4. | 1993年 5月13日 | ベイルート, レバノン | インド | 3–0 | 1994 FIFA ワールドカップ予選 |
5. | 1993年 10月19日 | ドーハ, クエート | イラク | 2–2 | |
6. | 1994年 7月5日 | ボストン, アメリカ | エクアドル | 1–2 | 親善試合 |
7. | 1994年 7月17日 | ダラス, アメリカ | スペイン | 2–2 | 1994 FIFA ワールドカップ |
8. | 1994年 7月27日 | ドイツ | 2–3 | ||
9. | 1994年 9月11日 | 江陵, 韓国 | ウクライナ | 1–0 | 親善試合 |
10. | 1996年 8月8日 | ホーチミン, ベトナム | チャイニーズタイペイ | 4–0 | 1996 アジアカップ予選 |
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