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日本の落語・紙切師の名跡 ウィキペディアから
林家 正楽(はやしや しょうらく)は芸人の名跡。東京(江戸)、上方にそれぞれ存在するが、いずれも空き名跡となっている。
六代目 林家 正楽(はやしや しょうらく、1858年4月20日<安政5年3月7日> - 1929年<昭和4年>8月31日)は、上方落語の落語家。本名:織田 徳治郎。俳名は日歳庵程来。娘婿は五代目笑福亭松鶴。六代目笑福亭松鶴は孫にあたる。
1883年8月31日に林家宗太郎門下で、林家(または桜川)新三。大阪の新町九軒の末広席で初舞台。1888年ころにしん鏡を経て、1900年頃に六代目正楽を襲名。
師匠の影響で「藤原派」「互楽派」に参加、解散後は「寿々会」「浪花三友」「浪花」「吉原」「反対派」「花月」などを転々、主に神戸を中心に活動する。余芸で俳句も嗜み、弟子を持つほどの腕前であった。1927年ごろまで高座に上がったが、その後は若い噺家の稽古台に専念した。現在でも多くの噺家が演じる「鉄砲勇助」をよく演じていた。
76歳没。法名は釋見徳。
紙切りの正楽が登場する以前に確認されている正楽。
初代(自称八代目)林家 正楽(はやしや しょうらく、1896年11月18日 - 1966年4月15日)は日本の落語家、紙切り芸人。長野県出身。本名は一柳 金次郎。生前は日本芸術協会所属。
1917年ごろに、四代目五明楼春輔を訪ね、「正福」と名乗ってセミプロとなる。1919年1月、「落語睦会」設立騒動時に、下地があると認められて二ツ目となり「睦」の字にちなんで
紙切りを披露するにいたったのは睦会の忘年会であった。それが好評となり、1923年の関東大震災をきっかけに、専業の紙切り師になるにいたった。1925年に正楽を名乗り真打となった。改名時には上方の六代目正楽が生存していたため、2人の正楽が並立していたことになる。マッカーサーやスカルノ、昭和天皇の前で芸を披露したことがある。
1952年3月22日、東京放送会館で行われたNHKのカラーテレビ公開試験放送で紙切りを披露した[1]。白黒テレビさえ本放送にいたっていない時期に、カラーテレビに出演した日本最初の芸人となった。
69歳没。
二代目 林家 正楽(はやしや しょうらく、1935年9月21日 - 1998年7月2日)は埼玉県出身の紙切り芸人。生前は落語協会所属。本名:山崎 景作。出囃子は『琉球節』。
1954年に八代目林家正蔵に入門、前座名は林家正作。江戸言葉とは異なる埼玉弁特有のアクセントが抜けないため、師匠正蔵は比較的早い段階で噺家を断念させた。初代林家正楽を紹介し、1956年から初代正楽門下として、紙切りに転向する。厳密には預かり弟子と言う形での移籍で、正式な形としては一貫して彦六門下であった。
1957年に林家小正楽、1967年に二代目林家正楽を襲名。1988年に「正蔵師匠と私」を上梓、翌1989年には、この本を原作としたNHKの連続テレビドラマ「晴のちカミナリ」で、自身の父親役で出演した。1998年7月2日、腸閉塞のため死去。62歳没。
「紅梅白梅(こうばいはくばい)」という意地悪な題に対し、急な坂を白バイがのぼっているところ(勾配白バイ→こうばいはくばい)を切って喝采を浴びたが、次の「チルチル・ミチル」の題に「どんな漫才ですか」と聞き返し客席を爆笑させた。
時の首相佐藤栄作のお座敷にしばしば呼ばれた。佐藤は柄に似合わず犬やライオンなどと子どもみたいなものしか注文しなかった為、仕方なく「似顔を切りましょう」と鋏を持って近くに寄ったら「総理大臣のそばまで刃物を手にして行ったのはお前くらい」だと言われた。
三代目 | |
本名 | |
---|---|
生年月日 | 1948年1月17日 |
没年月日 | 2024年1月21日(76歳没) |
出身地 | 日本・東京都目黒区 |
死没地 | 日本・東京都 |
師匠 | 二代目林家正楽 |
弟子 | 林家楽一 林家富楽 林家楽三郎 |
名跡 | 1. 林家一楽 (1967年 - 1988年) 2. 二代目林家小正楽 (1988年 - 2000年) 3. 三代目林家正楽 (2000年 - 2024年) |
出囃子 | 琉球節 |
活動期間 | 1967年 - 2024年 |
活動内容 | 紙切り |
所属 | 落語協会 |
公式サイト | 林家 正楽 |
受賞歴 | |
国立演芸場花形新人演芸会金賞(1983年) 選抜若手演芸大賞色物部門奨励賞(1988年) 芸術選奨文部科学大臣賞(2020年) 松尾芸能賞功労賞(2023年) 浅草芸能大賞(2023年) | |
三代目 林家 正楽(はやしや しょうらく、1948年1月17日 - 2024年1月21日)は東京都目黒区出身の紙切りの芸人。本名∶秋元 真。落語協会所属。出囃子は『琉球節』。
東京都立小石川工業高等学校卒業[2]。1966年(昭和41年)、林家小正楽に弟子入りを志願し、紙切りの教えを受けるも、このときは正式な弟子入りは叶わなかった。1967年(昭和42年)に正式に林家小正楽に入門、修業のかたわら早稲田大学生活協同組合書籍部で店長を務めた。
1970年(昭和45年)、師匠正楽のダブルブッキングの代役として林家一楽の名前で越谷市役所イベントで初高座。1972年(昭和47年)にアルバイトを辞め、紙切りで一本立ちする。
1988年(昭和63年)に師匠の前名である林家小正楽を襲名。
2000年(平成12年)9月、三代目林家正楽を襲名。襲名披露興行では紙切りで寄席史上初の主任(トリ)をつとめた。
雑誌「東京かわら版」の表紙紙切りを二代目正楽から受け継ぎ、2000年より務めていた。
2024年(令和6年)1月21日早朝、自宅で倒れているところを家族が発見し搬送されたが、搬送先の東京都内の病院で死去した。76歳没。訃報は同月26日落語協会より公表された[3][4][5]。最後の寄席出演は同年1月19日の新宿末廣亭で、翌20日は千葉県船橋市の落語会に出演。その後、体調不良を訴えて自宅で休養したため、同日の末廣亭の定席興行(正月二之席楽日・夜の部)も出演予定であったが休席となっていた[6][7]。
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