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東北大学 青葉山キャンパス(とうほくだいがく あおばやまキャンパス)は、宮城県仙台市青葉区荒巻に所在する東北大学のキャンパスの一つである[1]。その名の通り青葉山山中に置かれているキャンパスで、広大な敷地と豊かな自然が特徴である。
東北大学の理系学部の施設が集積しているキャンパスで、理学部・薬学部・理学研究科・薬学研究科などが使用する青葉山北キャンパスと工学部・工学研究科・環境科学研究科・情報科学研究科・医工学研究科などが使用する青葉山東キャンパス、農学部・農学研究科などが使用する青葉山新キャンパスを擁する[1]。
1957年11月に文部省が発表した科学技術振興方策の実施に伴い、東北大学は理工系学部の拡充を行うこととなった[2]。工学部は学部の建物面積を従来の4倍にするという拡充案を評議会で提示したが、この案が実行された場合、工学部の立地する片平地区では土地・建物の狭隘化が問題になることが予想されたため、東北大学は大学全体の再編計画を構想していくこととなった[2]。そこで黒川利雄学長は青葉山地区の旧米軍用地33万坪に着目した。しかし、この土地は食糧増産と失業対策のために閣議決定された緊急開拓事業実施要領に則り、開拓事業をすることになっており、開拓者らに払い下げの優先権があった[3][4]。そのため、東北大学と青葉山開拓組合は土地を巡って争うこととなったが、最終的に東北大学が開拓者らに対して金銭で離作補償をすることで決定した[5]。こうして、工学部機械系三学科(精密工学科・機械工学科・機械第二工学科)の移設工事が開始された[6]。
農学部では、教授会で移転に関して議論が行われた際、教授らは『総合移転計画に参加し、方針としては移転する』という意向にまとまったとされ、当時の有山農学部長は教授会の了解を得たものとして考え、移転計画への賛意を表明した[7]。有山の後任を任された梅津農学部長も農業工学科および林学科の二つの学科新設のために広大な土地が必要であると考えていたため、「条件さえ整えば青葉山に移転する」と当時の愛知文部大臣に明言した[8][9]。梅津は農学部の移転予定地として久保田山地区全部[注 1]を要求していた[11]。
着々と移転計画が進む一方で、農学部教授会内部には農学部移転を前提とした審議が進むにつれ、農学部教授会の決定なしに移転が実施されるのではないかという警戒感が醸成されていた[11]。そんななか、「移転の実現が可能と考えられるような条件について」の検討を教授会から付託されていた農学部青葉山問題委員会は「久保田山地区移転に反対する理由書」と題した報告書を農学部教授会に提出した[12]。その中には、移転に反対する理由として「久保田山地区は、生物環境的に作物栽培に不適当であること」「久保田山地区は地形的に研究上利用できる面積が少ないこと」「久保田山地区は孤立しており、他学部との密な交流・相互連絡が困難であること」を挙げていた[12]。これは梅津が農学部長就任以来示してきた、農学部教授会の意思として移転は決定しているという方針とは矛盾するもので、東北大学石津学長は、鳥羽農学部長代理に海外出張のために不在の梅津の代わりに農学部の早急な態度決定を要望した[13]。鳥羽は教授会での協議内容および青葉山問題委員会報告に基づき、久保田山地区は農学部の移転先には不適格と発言せざるを得ないと申し入れた[13]。そして、梅津の後任を任された内山農学部長のもと、「農学部は久保田地区への移転をせず、宮城教育大学が久保田山地区を使用することに異存はない」という書簡が宮城教育大学に提出され、農学部は雨宮地区に残存することが決定された[14][15][16]。
1992年(平成4年)1月、宮城県知事浅野史郎のもと、青葉山県有地の利活用についての議論を目的とした私的諮問機関である「青葉山県有地の土地利用に関する懇談会」が設置された[17]。これを受けて、当時の東北大学学長であった西澤潤一は仙台市内に分散し、施設の老朽化が進む片平キャンパスや雨宮キャンパスなどを県有地に移転・統合することで学術研究機能を強化しようと考えた[18]。そして、県有地をキャンパスとして活用する案の是非を評議会で審議し、これが承認され、雨宮キャンパスと片平キャンパスを廃して青葉山県有地に本部を含む機能を移転することが決定した[19]。懇談会も東北大学のキャンパス用地として県有地を活用することに賛成する報告書を県知事に提出しており、これを受けて西澤総長は1992年11月1日に県知事に対して青葉山県有地の譲渡を正式に要請した[20]。
県有地の譲渡を要請した東北大学はキャンパスの将来構想の立案に取り組みはじめた[21]。1994年12月12日の評議会で各学部長や研究所長、評議員からなるキャンパス将来構造検討委員会を設置することが決定され、青葉山県有地以外の土地の取得も視野にいれた大学全体のキャンパス将来構想を検討することとなった[21]。委員会で構想案が検討され続けられた結果、1996年5月28日の評議会で「東北大学新キャンパス構想」が決定された[22]。この構想では、東北大学が教育研究機関としてさらなる発展を遂げるために「一体的キャンパスを目指す」「創造性あふれる教育研究の場を目指す」「社会に開かれた大学を目指す」という三つの指針をうちたてた[22]。そしてこの指針を実現するためには青葉山地帯に全学の主要な研究教育施設を展開することが必要であると主張し、快適で迅速な通学・通勤手段の確保、交通体系の整備を強く求め[22]、1996年に東北大学では新交通システム委員会が設置し、仙台市との間で協議を進めた[23]。当初、検討されていたのは仙台市が都市計画道路として計画を進めていた川内旗立線の上に高架の新交通システムを建設するという案であったが、高架よりか地下鉄のほうが、「東北大学が川内旗立線建設のために提供する面積が少ない」「景観や環境が損なわない」「県有地への移転整備に不可欠な輸送手段の確保ができる」と判断され、最終的には、都市計画道路川内旗立線と地下鉄が建設されることとなった[23]。かくして、その後の移転整備計画では地下鉄東西線青葉山駅や都市計画道路川内旗立線の設置を前提として具体化がはかられていくこととなった[24][25]。
1996年7月29日には「新キャンパス部局配置について」が評議会において審議決定した[26]。この配置案は「東北大学新キャンパス構想」に基づいて、100年後の配置案(A案)と片平・雨宮キャンパスが移転する時の部局配置案(B案)からなっていた[26]。
「東北大学新キャンパス構想」を決定した東北大学は、部局の建物配置やライフライン、環境整備などについて検討する機関として施設整備委員会のもとに片平・雨宮地区等整備専門委員会を設置した[28]。専門委員会は1996年12月19日に「片平・雨宮地区等移転整備計画策定作業概要」を作成して作業スケジュールを決定し、続いて、「片平・雨宮地区等の移転に関わる新キャンパス整備にあたっての基本的な考え方」を計画具体化のガイドラインとして完成させた[28]。これには、自然林、人工池、散策路、遊歩道、ショッピングモール等をキャンパス内に配置し、職員・学生・市民が交流できる場として整備することや職員・学生・外国人研究員・共同研究者等との情報交換を行うためのスペースの確保、市民との交流施設、ファカルティクラブ、オープンスペース等を整備することなど、開かれたキャンパスとして新キャンパスを作り上げることを意識した施設内容が盛り込まれていた[23]。
2002年3月19日、評議会で片平キャンパスの機能をすべて移転するといういままでの方針を転換して、片平キャンパスの一部を記念建造物、ロースクールなどのエクステンション教育施設、研究所施設として利用するという決定をした[29]。方針転換をした理由として、「歴史的建造物保存や市の中心部活性化への市民的な要求があること」「市街地適合的な新しい教育研究機能が出てきたこと」が挙げられている[30]。「移転特別会計の収支バランスの観点から移転規模の調整が必要であること」とは、つまり「従来の計画を実行すると大赤字になってしまうため、移転規模を調整し、支出を抑える必要がある」ということを意味する[31]。これは、移転方針を決めた当時、片平・雨宮両地区の土地評価額は1,500億円と見積もられていたのに対し、日本経済のデフレ的状況のなかでその価値は2000年ごろになると550億円近くに下落し、片平・雨宮地区を売却して得た金額だけでは従来の移転計画を完全に実行することが不可能になったためである[31]。結果として、2002年5月2日、片平地区約24haのうち、8haが残されることが評議会で決定した[29][32]。なお、2005年にはさらに計画が変更され、片平地区の売却予定地が南側の5.5haのみに決定され、片平地区の約77%が残ることとなった[33]。
2006年5月31日、宮城県は青葉山県有地を約30億8,700万円で青葉山県有地約81haを売却する仮契約を締結し、同年7月5日き県議会で関連議案が可決されたため、正式に契約が成立した[34]。
青葉山東キャンパスは、工学部が使用するキャンパスである。青葉山の三キャンパスの中で最も広大なキャンパスであり、仙台市内に所在する東北大学の各学部の占有面積としては最大規模である。AエリアからFエリアまでの6エリアに区分されており、エリアごとに施設を利用する学科や研究科が決められている[1]。
Aエリアは青葉山東キャンパスの東端に位置し、工学部・工学研究科の機械・知能系および環境科学研究科が利用する施設が集積している[59]。
Bエリアは青葉山東キャンパスの東端に位置し、工学部・工学研究科のマテリアル・開発系が利用する施設が集積する[60]。
Cエリアは青葉山東キャンパスの中央部に位置し、工学部の管理棟や工学研究科の総合研究棟などが立地するほか、購買や食堂も立地する[61]。
Dエリアは青葉山東キャンパスの中央部に位置し、工学部・工学研究科の電子情報システム・応物系が利用する施設が集積する[63]。
Eエリアは青葉山東キャンパスの西端に位置し、工学部・工学研究科の化学・バイオ系が利用する施設が集積する[64]。
Fエリアは青葉山東キャンパスの西端に位置し、工学部・工学研究科の人間・環境系や東北大学産業連携機構、未来科学技術共同研究センターなどが利用する施設が集積する[65]。
青葉山北キャンパスは理・薬学部が使用するキャンパスである。GエリアからIエリアまでの3エリアに区分されており、エリアごとに施設を利用する学科や研究科が決められている[1]。
Gエリアは青葉山北キャンパスの南端に位置し、情報科学研究科や様々な東北大学附属機関が利用する施設が集積している[66]。
Hエリアは青葉山北キャンパスの中央部に位置し、理学部・理学研究科・生命科学研究科が利用する施設が集積している[67]。
Iエリアは青葉山北キャンパスの北東部に位置し、薬学部・薬学研究科やニュートリノ科学研究センターが利用する施設が集積している[68]。
青葉山新キャンパスは、主に理学工学関連の研究所の増設に用いられている他、旧雨宮キャンパスに所在した農学部の移転先としても使用されている。JエリアからNエリアまでの5エリアと実験フィールドに区分されており、エリアごとに施設を利用する学科や研究科が決められている[69]。
2001年まで仙台カントリー倶楽部青葉山コース(青葉山ゴルフ場)として利用されていた土地を整備して、2017年5月15日に竣工した東北大学で最も新しいキャンパスである[53][70]。宮城県と用地の売買契約をする際に宮城県議会から「県民、市民にも広く開放し、憩うことができるような、緑地の中の開かれた大学として整備すること」という条件が提示されたため、青葉山新キャンパスはキャンパスを囲う壁や柵が存在せず市民に開放されている[71]。総敷地面積は814,123.30m2である[72]。
Jエリアは青葉山新キャンパスの北東部に位置し、環境科学研究科や様々な東北大学の附属機関が利用する施設が集積する[73]。
Kエリアは青葉山新キャンパスの北西部から西にかけて位置し、農学部・農学研究科が利用する施設が集積するほか、植物実験フィールドが所在する[74]。
Lエリアは青葉山新キャンパスの西部に位置し、学生寮であるユニバーシティ・ハウス青葉山が立地する[75]。
Mエリアは青葉山新キャンパスの南西部に位置し、国際放射光イノベーション・スマート研究棟と青葉山ユニバースが立地する[76]。
Nエリアは青葉山新キャンパスの南部に位置し、次世代放射光施設ナノテラスが立地する[78]。
大学院入試の阻止を唱える全共闘系学生らにより、1969年(昭和44年)10月5日に理学部生物棟が、同年10月16日に工学部管理棟が封鎖された[79]。これを受けて一部の部局では、教官・大学院生が結束して施設内に泊まり込み、出入口を厳重に守るなどの対策を施して防衛にあたった[80]。なお、封鎖は11月に解除され、11月25日から学生らの入構が許可され、授業が再開されたが、大学院入試が延期されるなどの影響があった[81][82]。
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