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明蝶芸能学院(めいちょうげいのうがくいん)は、松竹新喜劇俳優の曽我廼家明蝶が設立した俳優養成所。漫才師ぼんちおさむ(ザ・ぼんち)らを輩出。師弟制度を基本のお笑い界に衝撃を与え、吉本興業の吉本総合芸能学院(NSC)設立の嚆矢となり、特に漫才界に大きな足跡を残した。
1964年(昭和39年)9月5日、大阪府大阪市東区(現中央区)南久宝寺町のビルに開校した。
前年の1963年(昭和38年)8月に曽我廼家明蝶が突然、松竹新喜劇を退団。その理由として明蝶は、新喜劇の結成当時に渋谷天外が「脚本・演出は天外、座頭は明蝶」と約束したが、藤山寛美の台頭で約束は忘れられているため、という[1]。
そして明蝶は、私費を投じて学院を設立し学長に就任。作家戸田学によると、学院設立の理由について明蝶は、井原西鶴や近松門左衛門らを生んだ上方文化の伝統継承を掲げ、「今の芸人は基礎(の教養)が弱いうえにマナーが悪い。私の学院で立派な社会人としても通用する芸人を作りたかった」[2]。
学院の顧問として劇作家の北条秀司と漫才作家の秋田實が就任。一流の講師陣を迎え、授業は週3日、午前・午後・夜の3部制。「本科」「高等科」「専攻科」それぞれ各1年間(1966年「漫才専科」も設置)、演技の基礎から日本舞踊、洋舞、音楽、そのほか英語やフランス語、放送業務の実技など多岐にわたり、生徒も14歳から68歳までさまざまな年代が集まったという。
1965年(昭和40年)3月、入居ビルの都合で大阪市中央区心斎橋に移転。明蝶が1971年(昭和46年)に脳血栓となり、資金難などから1972年(昭和47年)閉校したが、明蝶と学院について3期生で漫才コンビの横山たかし・ひろしは「売れてないころも“うちの子や”と、よく名前を出してくれた。明蝶学院は、たかし・ひろしの原点」と語っている[3]。
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