総合車両製作所新津事業所
日本の新潟県新潟市にある総合車両製作所の車両製造工場 ウィキペディアから
日本の新潟県新潟市にある総合車両製作所の車両製造工場 ウィキペディアから
総合車両製作所新津事業所(そうごうしゃりょうせいさくしょにいつじぎょうしょ)は、新潟県新潟市秋葉区南町にある総合車両製作所(J-TREC)の鉄道車両製造工場。かつて官営鉄道新津工場として開設された。
1994年(平成6年)6月[1]、東日本旅客鉄道(JR東日本)が新津車両所(にいつしゃりょうしょ)を改組して発足させた新津車両製作所(にいつしゃりょうせいさくしょ、英称:Niitsu Rolling Stock Plant)を前身とする。
東日本旅客鉄道新潟支社が所管していたが、2012年に東急より事業譲受したJ-TRECへの車両製造業務の一本化することに伴い、本事業所に関する業務・資産を2014年(平成26年)4月1日付で会社分割により譲渡し、現在の体制となった。
新津車両製作所時代は、西武所沢車両工場が1999年(平成11年)に車両製造を終了して以降、鉄道事業者が直営する日本国内唯一の車両製造所となっていた。JR東日本では、車両の調達コスト抑制と車両生産の技術向上を自社生産の目的として掲げてきた[2]が、前掲のJ-TRECへの鉄道車両製造事業の一本化に伴い、JR東日本子会社という位置付けへと変化している。
新津事業所で整備された車両に記される略号は、NiiTsu から取った「NT」である。
素材となるステンレス板を加工するところから生産を行い、台車も当所で製造している。またCAD・CAMやロボットを活用した効率性の高い生産を行っている。
さらに、当所と総合車両製作所横浜事業所、JR東日本の各支社、東京総合車両センター・長野総合車両センターとは専用回線による情報ネットワークが構築されており、社内各部門とネットワーク環境下で設計情報などを共有しながら設計・製造を行うことが可能である。
2008年(平成20年)10月に放送された『あしたをつかめ』において、当所で働く社員の仕事が紹介された。また、2003年(平成15年)7月に発売されたのりもの探検隊では、当時製造中であったE231系(常磐線快速電車用)の制作過程を、2009年(平成21年)8月4日に放送された『生中継 ふるさと一番!』でも当所が紹介された。
2013年(平成25年)12月18日、JR東日本の取締役会において、当所の車両製造事業とそれに係る資産や負債、権利及び義務(ただし当所でのJR東日本従業員とJR東日本との雇用契約を除く)を総合車両製作所に譲渡し、車両製造の一元化を図ることが決議された[3][4]。
2018年2月14日、当所の車両製造両数が累計で5000両を迎えることとなり、記念式典が挙行された。式典では、当初は3日に1両の製造能力が、現在は1日1両に上がっていることや、5000両目となるクハE235-16に記念プレートが付けられる予定が述べられた[5]。
なお、JR東日本テクノロジーに製造工程の一部を委託していたが2021年4月を以って総合車両製作所へ承継し、新津事業所を閉所した。
日本国有鉄道新津工場[6]にその歴史が始まる。同工場は鉄道省時代の1941年(昭和16年)1月に開設され、貨車などの新造を行ったこともあったが、基本的に修繕・保守拠点としての役割を果たしていた。
転換前は車両の改造・修繕が主な業務であった新津車両所であるが、例外的に107系[備 1]の製造も行っていた。これは新津車両製作所の発足に先駆けて社員の技術向上を目的としたもので、以後の基礎となっているものも多い。
その後、当時東急車輛製造横浜製作所の近くに立地していた大船工場では205系500番台、901系、209系、E217系のそれぞれ一部車両の製造を手掛けており、当所の発足に至っている。
国鉄分割民営化後、JR東日本は国鉄時代に引き続き鉄道車両の改造・検査・修繕を中心に業務が行われていたが、1994年(平成6年)10月、車両の計画から設計、製造、運用、保守、廃車後のリサイクルに至る「車両トータルマネジメントの実現」を目標に、新津車両所を電車の新造工場に改組転換し、当時の東急車輛製造からの技術供与により電車の製造を開始した。
設立当初は東急車輛製造で製造している車両を当所でも生産する方式だったが、技術力の強化を目的に209系950番台(のちにE231系900番台へ改番)[備 2]では設計段階から東急車輛製造と共同で製造を手掛けた。
JR東日本が自社で製造工場を所有したのは、JR東日本初代会長、山下勇の基本哲学「どんな会社であれ、技術が会社発展の原点である。技術なくして会社の発展はありえない」から[7]、会社として技術力を高めることとモノ作りの重要性を得るため[7]、山下の強いリーダーシップにより実現にこぎつけたものである[7]。当初の計画では年間200両の生産を目指していたほか、特急形車両の生産も計画されていた[8]。修繕工場から製造工場への転用のため、建物や機械の整備など約180億円の費用を要した[8]。
車両新造工場の計画にはJR東日本自社だけではできず、三井造船(生産設備)、東急車輌製造(技術提携)が協力している。1993年(平成5年)3月の新津車両所での検査修繕終了後、作業員はJR東日本大井工場、大宮工場、大船工場や、新津車両製作所発足に協力した三井造船・東急車輌製造の製造工場に出向し、製造技術や溶接技術の習得を行った(工場名・社名は当時)[9]。
JR所管時にこの工場で落成した車両の車内ステッカーに表記されている「新津車両製作所」の文字は、山下勇の筆がそのまま用いられている。
生産ピッチは 3日で1両を生産していたが、段階的にピッチを上げていき、2001年(平成13年)5月17日以降は 1日1両(稼働日)の生産ピッチとなり、年間平均250両、最大262両の生産体制となっている[9]。
JR東日本新津車両製作所としては、1995年(平成7年)4月に落成した209系の浦和電車区第36編成(10両編成のうち9両[注 1])が竣工第1号の車両である。車両工場として操業を開始して以来、主に首都圏で使用する新系列車両のうち、通勤形・一般形電車を製造している。
また、JR東日本の車両以外にも同社の通勤電車をベースとした私鉄等の車両も製造を行っている。これは自社向けだけではなく、他社(顧客)向けの製造を行うことは品質や納期への責任感の向上[7]、私鉄他社との情報交換など、両者のメリットを考慮したものである[7]。なお、同系列車体の大量生産に特化した工場のため、新幹線車両や在来線特急用車両の生産実績はない。
1994年(平成6年)の操業から2014年(平成26年)3月31日までの新津車両製作所時代に製造された車両は、累計で4,293両である[15]。
JR東日本新津車両製作所時代に製造
新津車両製作所時代に製造開始し、総合車両製作所新津事業所への継承後も製造
総合車両製作所新津事業所への継承後に製造
なお、E217系等に存在する2階建てグリーン車については、本事業所では製造ラインがないため、横浜事業所や他のメーカーが製造を担当、製造後本事業所まで輸送[18]後、本事業所製の車両と編成を組む(後節を参照)[19][20][注 2]。
JR東日本新津車両製作所時代に製造
総合車両製作所新津事業所への継承後に製造
JR東日本の車両の場合は、総合車両製作所移管前は最寄りの新津駅から直接、移管後は試運転を終えた後に新潟車両センターへ入区してJR東日本へ引き渡しを行った後、同センターから基本的に同社所有の機関車(専用の装備を施したEF64形1000番台1030 - 1032号機またはEF81形0番台134・140・141・151号機)の牽引によって配給列車扱い[注 3]で配置区所へ輸送されている。また、2階建てグリーン車を連結する車両(E217系、E231系近郊タイプ、E233系3000番台、E531系、E235系1000番台)は、グリーン車は総合車両製作所横浜事業所(旧・東急車輛製造時代も含む)や川崎重工業兵庫工場(現・川崎車両兵庫工場)で製造され、本事業所に輸送(甲種輸送)[18]の上、本事業所で製造した普通車と組み合わせて編成を完成させ[注 4]、完成後は前述の同様の経路で引き渡し、同社他の新製車両と同様に輸送される。なお、自力回送を行わないのは長岡駅から先の踏切が軽量化対策がされておらず、軽量車が通過した場合に踏切不動作などのおそれがあるため、重量のある電気機関車を先頭にすることで、軌道短絡を確実に行えるようにしている[23]。例外として、E129系など新潟車両センター配置車両の場合は同センターにて引き渡しを終えた段階で配置完了となる。
JR東日本以外の車両(相鉄10000系や東京都交通局10-300形など)はJR貨物により甲種輸送として輸送される。
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