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日本の文芸評論家、演出家、作家 ウィキペディアから
島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1918年〈大正7年〉11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、本名は瀧太郎。
島根県那賀郡小国村(現・浜田市)に佐々山一平の長男として生まれる。実家は貧しく、小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となる。同裁判所検事・島村文耕から学資の援助を受け、上京。1891年(明治24年)に文耕の養子となる[1](後に文耕の姪と結婚)。
増田藤之助が塾主を務める日本英学院を経て[2]、東京専門学校(現・早稲田大学)文学科で坪内逍遙、大西祝から文学、美学を学び、1894年(明治27年)に卒業。「早稲田文学」(第一次)誌の記者を経て、1898年(明治31年)に読売新聞社会部主任となる。その後母校の文学部講師となり、1902年(明治35年)から3年間、早稲田の海外留学生としてイギリスのオックスフォード大学とドイツのベルリン大学に留学[3]。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、「早稲田文学」誌を復刊(第二次)して主宰。自然主義文学運動の旗手の一人となる。
『早稲田文学』1906年(明治39年)1月に「囚はれたる文芸」を発表、1906年坪内逍遥とともに文芸協会を設立、2月17日芝紅葉館で発会式、「妹背山」「沓手鳥孤城落月」「新曲浦島」を上演。『早稲田文学』1908年1月に「文芸上の自然主義」を発表した。1909年(明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に新劇運動をはじめる。しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となったことで逍遥との関係が悪化。これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となった。
同年9月、抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成。第1回公演としてモーリス・メーテルリンクの「モンナ・ヴァンナ」を有楽座で上演[4]。翌1914年(大正3年)にトルストイの小説を基に抱月が脚色した『復活』の舞台が評判になり、各地で興行が行われた。須磨子が歌う劇中歌『カチューシャの唄』はレコードにも吹き込まれて大ヒット曲になり、新劇の大衆化に貢献した。1915年(大正4年)、須磨子とともにロシア帝国のウラジオストクを訪れ、須磨子とロシアの劇団との合同公演をプーシキン劇場で行い大好評を博した。しかしその成功も束の間、1918年(大正7年)、抱月は世界的に大流行していたスペイン風邪に罹患し、さらに急性肺炎を併発し、東京市牛込区横寺町(現・東京都新宿区横寺町)の芸術倶楽部の居室で急死した。戒名は安祥院実相抱月居士[5]。須磨子は抱月の死後も芸術座の公演を続けたが、やがて抱月の後を追って自殺。芸術座も解散になった。
1954年(昭和29年)、故郷浜田市の浜田城山公園内に抱月の記念碑が建てられた。その後、地元の顕彰委員会などにより、次の三つの公園が整備され、直筆の句碑や胸像の建立などでその業績を顕彰している[10][11]。
このほか、浜田市金城歴史民俗資料館では関連資料および遺品を収蔵展示しており、浜田郷土資料館には抱月愛用の机が保存管理されている。
2004年、東京都豊島区の雑司が谷霊園と島根県那賀郡金城町(現・浜田市)の浄光寺に分骨埋葬されていた遺骨が、浄光寺に完成した島村家の墓にまとめられた。雑司が谷霊園の墓は抱月の三女島村トシコ(東京都在住)が管理していたが、高齢のため管理が難しくなったこともあり、トシコから「遺骨を里帰りさせたい」と同町に打診があったという[12]。
なお、雑司が谷霊園の墓は管理者不在となったため2022年12月に墓じまい(墓を解体・撤去して更地にし、その使用権を墓地の管理者に返還)され現存していない[13]。
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