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日本の映画監督 ウィキペディアから
堀川 弘通 (ほりかわ ひろみち、1916年〈大正5年〉12月28日 - 2012年〈平成24年〉9月5日)は、日本の映画監督。成城大学名誉教授の堀川直義は兄。
京都府京都市出身[1]。東京市立一中(現:九段高校)、成城高等学校(現:成城大学)を経て、1940年、東京帝国大学文学部卒業。同年、東宝撮影所製作部に演出助手係として入社。最初に山本嘉次郎の『馬』の盛岡ロケから助監督として参加し、この時にチーフ助監督だった黒澤明と仲良くなり、仕事を終えるといつも2人で飲みに回ったという。入社1年後にオーバーワークがたたって肺を病み、1年半休職する。復帰後はすでに監督になった黒澤の作品に就き、『一番美しく』『続姿三四郎』に参加、1945年に軍隊に召集されるが、敗戦となり10月に復員して東宝に戻る。再び黒澤組に参加し、『わが青春に悔なし』ではチーフ助監督をつとめる。しかし完成後まもなく病気が再発し、今度は3年半の休職を余儀なくされる。1950年に復職、東宝争議で他社を転々としていた黒澤も東宝に復帰し、黒澤復帰第一作『生きる』や『七人の侍』に助監督をつとめる。
1955年に『あすなろ物語』(黒澤明脚本)で監督としてデビューするが、黒澤流の妥協を許さない撮り方で撮影したため、途中でフィルムを全て使いきってしまったという。そのため、会社からの命令で本作撮影後に成瀬巳喜男監督の下で『驟雨』『妻の心』(1951年)の助監督に就き、きっちり予算内で収め、スケジュールを守る成瀬の演出術を学んだ。以後、『女殺し油地獄』(1957年)、『裸の大将』(1958年)、『黒い画集・あるサラリーマンの証言』(1960年)、『狙撃』(1968年)、『軍閥』(1970年)など、数々の話題作を監督。
1977年、『アラスカ物語』撮影中に東宝との専属契約を解除し、フリーとなる。その後は、『ムッちゃんの詩』(1985年)、『花物語』(1989年)、『エイジアン・ブルー』(1995年)など主として独立プロから作品を発表する。2001年10月に発表した『評伝 黒澤明』(毎日新聞社、ちくま文庫で再刊、2003年)で第11回Bunkamuraドゥマゴ文学賞(選考委員小林信彦)を受賞。
「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていた[2]。
2012年9月5日、食道癌のため東京都世田谷区の自宅で死去。95歳没[1][3]。
黒澤の愛弟子として知られ、黒澤は堀川のために山本周五郎原作『日々平安』をシナリオ化したが、これは日の目を見ず、後に黒澤監督で『椿三十郎』となる。黒澤の死後「評伝 黒澤明」を上梓。天皇と呼ばれた黒澤を間近で見た堀川ならでは視点で評価している。妥協を許さない黒澤に反対意見を言える助監督は堀川だけだったという。
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