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日本の作曲家、ピアニスト ウィキペディアから
加古 隆[注 1](かこ たかし、1947年1月31日 - )は、日本の作曲家、ピアニスト。
大阪府豊中市出身。東京藝術大学作曲科卒業、同大学大学院修了。パリ国立高等音楽院卒業。息子は俳優・声優の加古臨王。神奈川県湯河原町と長野県軽井沢町の2カ所にアトリエを構える[1]。
作曲においては、ジャズ・クラシック・現代音楽の要素を融合させた独自の作曲形式を確立しており、ピアニストとしては、自身の作品の演奏を中心に活動している。また、映像作品とのコラボレーションによる音楽も数多く手掛け、映像音楽の作曲家としても活動の幅を広げている。自身の作品によるコンサートは世界各国に及び、オリジナルアルバムは50作品を超える。ピアノから紡ぎ出される透明な音の響きから、「ピアノの詩人」あるいは「ピアノの画家」と称される。1980年代からかぶり始めた帽子がトレードマークとなっており、ステージでも必ず身につけている。コンサートでの演奏は全て暗譜で行う。
1947年に、音楽とは全く縁のない家庭に生まれ、大阪府豊中市で育つ。音楽との出会いは小学校のとき。知り合い宅に行った際、当時日本ではまだ珍しかったレコードプレーヤーと、1枚だけあったLPレコード。そのレコードを聴いた加古は大変心地よくなり、これを機にその知り合い宅へレコードを聴きたいがために、泊り込みで通うようになり、枕元にプレーヤーを置いて何度も何度も音楽を聴きながら眠った。この曲がトスカニーニ指揮、ベートーヴェン作曲の交響曲第5番『運命』であった[2]。小学2年頃、当時の担任が音楽の教師で、生徒に器楽合奏をやらせていたが、どんな楽器も上手に演奏する加古をみて、両親にピアノを習わせることを薦める。小学校から中学時代にかけて、クラシック音楽のレコード収集に熱中するが、当時は唯一の情報源がレコード店であり、何度も訪れるうちに、店主に珍しがられ、いろいろなレコードを教えてもらう。中学生のある日、ストラヴィンスキーの「三大バレエ組曲」(『火の鳥』『春の祭典』『ペトルーシュカ』)に出会う。これまでのクラシック音楽とは大きく異なる、現代音楽の魅力にとりつかれる。
中学3年生の頃、当時ピアノを習っていた先生のひとこと「君はあまりレッスンに熱心ではないけれど、作曲家を目指すのも、夢があっていいと思う」という言葉が決め手となり、東京藝術大学作曲科への入学を決意[3]。
中学校を卒業後、大阪府立豊中高等学校へ入学。1年のとき、先輩に誘われて行ったフェスティバルホールでのアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのライブで、ジャズの刺激的な音に体を雷に打たれるほどの衝撃を受け、次の日からジャズのレコード収集に奔走する。
1965年、東京藝術大学作曲科へ入学。その後約1年間は、作曲の勉強よりもジャズの演奏活動に夢中になっていた。三善晃の指導をきっかけに作曲に魅力を感じ、作曲の勉強とジャズの両方をやっていてはどちらも中途半端になってしまうと思い、ジャズからは意識的に距離を置き、聴くこともやめ、現代音楽の作曲家を志す。1969年、同大学院へ進学。在学中の翌1970年には、自身の作品が毎日音楽コンクール作曲部門・管弦楽曲第2位を受賞するほか、翌年には「オーケストラの為の《構成》」が若杉弘指揮、東京フィルハーモニー交響楽団により初演される。
1971年7月、フランス政府給費留学生として渡仏。パリ国立高等音楽院で、オリヴィエ・メシアンに作曲を学ぶ。翌年、「アルトとピアノのための《旅人と夜の歌》」・「オーケストラの為の一章」が、パリ音楽院管弦楽団により初演される。メシアンは折に触れて、「加古君、あなたが日本人であることは、とてつもない財産なのです」と語っていた。そしてこの言葉が、西欧風の曲を主に書いていた加古に、自分の生まれ育った国である日本に目を向けさせるきっかけとなった。
パリに留学して1年が経った頃、学友の家で、それまで知らなかったフリー・ジャズのレコードを聴く。現代音楽とフリー・ジャズの間に、何かしらの共通性を見出した加古は、これなら自分にもできると思った。そしてある偶然のきっかけで、学校には籍を残したまま、1973年、即興ピアニストとしてプロ・デビューを果たす。このことが以後、現代音楽分野における作曲活動と、ジャズにおける即興演奏活動の共存を生み出し、加古にとって、より広い意味での現代音楽の追求へとつながった。
一方で、フリー・ジャズ仲間のリズム・セクションでトリオ「TOK (トーク)」を結成(TakashiのT、Oliver Johnson(ドラム)のO、Kent Carter(ベース)のK、の頭文字がグループの名前)。ヨーロッパ全土で演奏活動を繰り広げ、1979年に日本人として初めて、ECMレコードからアルバム『パラドックス』を発表する。これは加古自身の、ジャズにおける金字塔とも言われている。
同じ1979年の冬、天候の悪化でロンドンから来られなくなったピアニストの代役として、急遽フランスのカーンで行われた音楽祭に出演。音楽祭当日に電話が入り引き受けた。加古にとって初となるピアノ・ソロ・コンサートで、それまでのどんなステージとも違う啓示のようなものを感じる。
帰国後の1985年2月。東京西武劇場(現パルコ劇場)での3夜連続のソロ・コンサート。音楽評論家野口久光の「一度でいいから、誰でも知っているメロディーを、取り上げてごらん」という言葉から始まった、新しい音楽への追求、その結果がここに完成した。しかし、完成した作品は当時の加古の音楽とは著しく性格を異にするものだったため、自分らしさを失うのではないかという思いから、この曲を初演すべきか否か、当日の朝まで迷っていた。しかしながら思い切って演奏に踏み切った後、世間の評価は別として、イングランドの民謡「グリーンスリーブス」をモチーフにした楽曲「ポエジー」をきっかけに、シンプルなメロディーの大切さを再認識し、音を丹念に選んでいく訓練を長く受けてきた自分にとっての「作曲」という作業に、新たな音楽の世界:自分らしさ、を発見する。「作曲」という概念を自身の音楽に積極的に取り入れるようになった加古の音楽は、この作品を機に、大きくその容貌を変化させる。まさに、作曲家・ピアニストとして自覚する契機となったのが「ポエジー」であった。
1995年にNHKスペシャル『映像の世紀』の音楽を担当した。テーマ曲の「パリは燃えているか」は大きな反響を呼び、加古の代表曲となる。
1997年、NHK『ドキュメントにっぽん』の音楽を担当(テーマ曲「青の地平」)、翌1998年に担当したベルギー映画『The Quarry』ではモントリオール世界映画祭で「最優秀芸術貢献賞」を受賞。2000年にはNHK『にんげんドキュメント』のテーマ曲「黄昏のワルツ」が誕生する。
2001年、映画『大河の一滴』の音楽を手掛け、翌2002年には映画『阿弥陀堂だより』の音楽で、第57回毎日映画コンクール「音楽賞」および第26回日本アカデミー賞「優秀音楽賞」を受賞。2005年、NHKスペシャル『日本の群像 再起への20年』の音楽を担当。2006年に担当した映画『博士の愛した数式』の音楽では、第61回毎日映画コンクール「音楽賞」を受賞した。2014年の映画『蜩ノ記』の音楽でも第38回日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞した[4]。
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