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日本の国文学者 ウィキペディアから
1894年、愛知県知多郡藤江村(現・知多郡東浦町)で生まれた。愛知一中、第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部国文学科に進んだ。1919年(大正8年)、大八車で搬入したとされる大部の卒業論文[1]を提出して卒業し、同大学大学院に進学した。
1922年(大正11年)、佐佐木信綱の三女三枝子と結婚[2]。一高教授となり、1925年からは東京帝国大学国文学科助教授となった。1934年(昭和9年)、学位論文『日本文学評論史ノ研究』を東京大学に提出して文学博士を取得[3]。 1936年(昭和11年)に同大教授に昇格。
戦時体制下では日本文学報国会国文学部会幹事長を務め、民族精神の醸成に加わった。1936年には、『国体の本義』編纂委員(国文担当)を務めた[4]。
1947年、帝国学士院会員に選出された。1955年に東京大学を退官し、同大学名誉教授となった。その後は慶應義塾大学教授、鶴見女子大学教授、國學院大學教授として教鞭をとった。
1970年正月、宮中歌会始で召人を務めた。1971年から日本近代文学館名誉顧問。郷土に対して愛着を持ち続け、1974年、郷里にある愛知県立東浦高等学校の校歌を作詞した。詞の1番では郷土の風土について、2番では知性と感情が融和することを、3番では強い意志をうたった。1976年、肺癌のため死去[5]。墓所は故郷の東浦町安徳寺にある。
専門は国文学全般に及んだ。契沖研究に始まり、国学、『万葉集』、和歌など古典文学の全体について基礎的研究を行った。自らも「心の花」に所属する歌人でもあった。戦時体制下では日本文学報国会国文学部会幹事長として盛んに民族精神を鼓吹したため、戦後、その戦争責任を追及されたが、長く国文学界に君臨した。
郷里の東浦町中央図書館には久松と久米常民に関する特別資料室があり、久松の編著作書約200冊や直筆原稿約400点が展示されている[6]。
国文学科の三宅清の学位論文「御杖の学説」(1946年)を10年近く放置したまま退官した[7]。のちに三宅が何らかの理由で訴訟を起こしたため、久松退官後に論文審査にあたった時枝誠記と坂本太郎 (歴史学者)が裁判所に呼び出される騒ぎとなった。また、久松が長年助教授だった池田亀鑑を教授に推した際には、久松が事前の意見調整を怠ったようで、選考委員の時枝の大反対に合い、池田は助教授に留まり、久松退職時にやっと後任教授として就任したもののその翌年死去した[7]。
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