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一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )は大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。略称は一式陸攻(いっしき / いちしきりくこう、- りっこう)。日本海軍の呼び名は中型攻撃機の略の、中攻。連合国側のコードネームは「Betty」(ベティー)。(Betty bomberが、一式陸攻の米軍側の名称)三菱重工業株式会社(改称前は三菱内燃機株式会社)の設計・製造。支那事変(日中戦争)・大東亜戦争(太平洋戦争)で日本海軍の主力攻撃機として使用された。
大直径の胴体内部に爆弾や魚雷を搭載し、胴体下の機体外部に搭載していた九六式陸攻よりも攻撃時の空気抵抗を大きく削減した。エンジンは大馬力の火星を装備した。主翼内をインテグラルタンクとし、4,000km以上に達する大航続力を得た。空気力学的洗練により、大型双発機としては軽快な運動性を得た。尾部に20mm旋回機銃を装備するなど、九六式に比べて防御火器を充実しているが、搭乗員や燃料タンクの防護は不十分だった。
九六式陸攻では胴体を細く、後方を引き絞ったために胴体内に爆弾倉を設けることができず、雷爆装は剥き出しで胴体下面に懸吊していたためこれが大きな空気抵抗源となっていた。また一式陸攻では、後方銃座を設ける関係で特に胴体後方は太くせざるを得ないこととなった。そこで空技廠における実験データを参考に、最も太い箇所で幅2 m、高さ2.5 mの楕円断面を持ち前後をゆるく絞った上で丸めた太い葉巻型胴体を採用した。この太い胴体によって空気抵抗源となる雷爆装を収容する爆弾倉を設けることができ、また葉巻型形状によって引き絞らないことによる空気抵抗増を抑えることができた。爆弾倉に搭載する追加燃料タンクも用意され、偵察時はこれを搭載して航続距離をさらに伸ばすことができた。ただし、爆弾倉に開閉式の扉は設置されず、取り外し式の覆いが用意された。この覆いは魚雷用、大型爆弾(50番・80番)用、偵察用の3種類で、25番以下の小型爆弾を搭載して出撃する際は覆いは取り付けなかった。なお、当初一一型の胴体は製造の簡易化を図って側方銃座の後方で前後に分割できるようになっていたが、これはすぐに廃止されている。[1]
主翼は付け根で12.5パーセント、翼端で10パーセントという薄翼とし、アスペクト比8、テーパー比1 : 4というかなり先細りの平面形を採用した。主翼を胴体中ほどに取り付ける中翼形式とすることで、胴体との間にフィレットを設けずに済ますことができた。重心位置を考慮し、燃料タンクは全て主翼の2本の主桁の間に設けられたインテグラルタンクに収められた。外板との接合部を水密処置し躯体を直接燃料タンクとして利用するこの手法によって、重心位置に近い薄い主翼内に5,000リットル近い燃料を搭載することができ、長大な航続距離を実現した。水平尾翼、垂直尾翼は共に面積を大きく取り、各舵面を翼の25パーセントという当時としては小さくとることで操舵力を抑え操縦を容易にした。水平尾翼はアスペクト比が大きく取られているが、垂直尾翼はアスペクト比が小さくなっており強い横滑り時でも方向舵の効きを失わない。また高さを抑えられたため格納庫の高さも高くせずに済んだ。[2]
エンジンは大直径の火星を搭載しているが、エンジンナセルの直径はこれよりも一回り大きく、また最大直径はエンジンのやや後ろにある。これは胴体と同じ空技廠のデータに基づく抗力軽減策に加えて、気化器空気取入口や滑油冷却器空気取入口を完全にエンジンカウル内に収めてさらなる抗力の削減を狙ったものである。そのため一一型初期まではエンジンナセル前部に突出部がなく滑らかに整形されているが、仮称一三型開発時に気化器吸入口をカウル内に開口した場合と、カウル外に開口した場合とで性能比較した所、後者はエンジンの全開高度が1速/2速とも300m高くなり、最高速度[注釈 1]、上昇時間[注釈 2]、上昇限度[注釈 3]が向上した[3][4][注釈 4]。これを受け以降の型式では気化器吸入口がカウル外開口に変更となり、滑油冷却器の空気取入口も流量確保[注釈 5]のため抵抗増を忍んで外部開口に変更されている。九六式陸攻では引き込んでも半分近くが露出していた主脚は完全にエンジンナセルに収容されるように設計された。また主脚、フラップなどの操作系は油圧ではなく電動を採用し、これによって作動油配管からの油漏れを回避することができた。[1][7]
本機はパイロットの技量が確かであれば片発飛行が可能とされ、その場合は機体を軽くするため搭載物の空中投棄が行われる[8]。電信機、機銃、弾倉、機上レーダー、余剰の燃料から航空弁当まで捨てられるが、爆弾の投棄には爆管[注釈 6]を使うため細心の注意を要し、被弾により漏れた燃料に引火すれば命取りになった。実際に火に包まれ敵艦船に自爆した機もあり、別の機は投下を思い止まって生還したが機内は一時、強いガソリン臭がしたという[9]。また本機が海上に不時着した場合、空の燃料タンクが浮力を産み半没状態ながらも数日間沈まなかった例が複数記録されている[10]。
九六式陸攻で省略された機首銃座は、その後の日華事変の戦訓を受けて一式陸攻では設置された。操縦席後ろの胴体上部、主翼後ろの胴体側面にはそれぞれ卵型のブリスター風防を備えた銃座があり、尾部には20 mmの九九式一号銃を備えた旋回銃座を設置した。これらを合わせると20 mm 1丁、7.7 mm 4丁となり、渡洋爆撃に参加した九六式陸攻一一型(7.7 mm 3丁)と比べると火力・射界ともに大きく向上している。太平洋戦争の進展に伴って銃座の動力化や全周化、口径の増大が行われ、最終生産型の三四型では13 mm 1丁、20 mm 4丁と強力な防御火力を有するに至っている。[11]
ただし防弾装備に関しては、搭乗員に対しての防弾鋼板も、燃料タンクに対する防弾ゴムも、当初はまったく装備されていなかった。一式陸攻開発時には既に、8 mm厚以上のゴムを外貼りしたアルミニウム製燃料タンクであれば7.7 mm焼夷弾によって発火させられずに済むことが実験で確かめられていた。しかし、九六式陸攻に対しては重量増加に対して防弾効果が小さいこと、一式陸攻に対してはインテグラルタンクでは(性能を害しないで)防弾タンク化することは不可能な上、内蔵タンクに改設計した上で防弾タンク化するというのは燃料容量減、構造重量増などデメリットが大きすぎることを理由に採用されなかった。それでも陸攻隊の損害が急速に拡大するにあたってインテグラルタンク前後面に対するスポンジゴム貼り付けや二酸化炭素を利用した自動消火装置の装備がされ、さらに663号機からは性能低下を承知で主翼下外面のインテグラルタンク部に30 mmのスポンジゴムを貼るという対策が実施されるに至った。桜花母機用の二四型丁では、操縦席、1番燃料タンク[注釈 7]、各燃料コックは防弾鋼板によって防護され、2番タンク[注釈 8]は四塩化炭素による液層で防御されていた。[12][13]
1942年(昭和17年)11月には連合艦隊から「航続力を減らしてでも一式陸攻の防弾を充実してほしい」という要望が出され、三四型では主翼構造を再設計して別体の防弾タンクを収納するように改修された。ただし開発に手間取って生産初号機完成は1944年(昭和19年)10月に遅れた上、空襲や地震の影響でわずかしか生産されなかった。[14]
通常7人~8人乗り。主操縦員、副操縦員、搭乗整備員、射爆員、主偵察員、副偵察員、電信員。機長は主偵察員。必要に応じて編隊指揮官が搭乗する。それぞれが機銃や電信などを兼任することができた。
なお1943年5月テニアンで錬成中の七五一空では1機5人(操縦、偵察、電信、搭乗整備、射撃)での運用が開始されている[15][注釈 9]。同空の蔵増機では搭乗整備員に操縦の練習をさせ操縦員が倒れた場合に備えていた[16]。
皇紀2601年(西暦1941年)4月に制式採用されたため、「一式陸上攻撃機」と命名された[17]。日本海軍では、急降下爆撃を行える機体を爆撃機、水平爆撃および雷撃のみを行える機体を攻撃機(艦上攻撃機および陸上攻撃機)と呼んだ。これは日本海軍独特の機種の分類であった[18]。
連合国側コードネームは「Betty(ベティー)」であった。太平洋戦争でのアメリカ軍は、日本軍の航空機に対してコードネームを付けて、種類を区別していた。戦闘機などは男性名、爆撃機や輸送機などは女性名を付けているが、実在の人物との関連はないというのが公式の発表である。しかし、一式陸攻の「Betty」と言う名は、命名に携わっていた情報部のとある軍曹のガールフレンドの名前である。彼女はペンシルベニア州で看護師をしていた。機体の左右にある大きなエンジンが、軍曹に彼女の身体的特徴を思い起こさせて、名付けられた[19]。
いわゆる「one-shot lighter」、「fly-ing zippo」は米軍パイロットが使った呼び名で、当時米国で売られていたライターの宣伝文句に引っ掛けた蔑称である。[20][注釈 10]四空主計長としてラバウルに居た野間口文雄は米軍放送が一式陸攻を皮肉る言葉として「一式ライター」[21]を使ったとし、七五一空の陸攻操縦員 蔵増実佳は「敵戦闘機の一撃で火を発しやすいために、敵は"一撃ライター"と称して、あなどっている」[22]と書いている。
ただし後期型では不十分ながらも防漏化や自動消火装置などが効果を発揮し評価の変化がみられる。
一式陸攻の撃墜された瞬間は米戦闘機側のガンカメラによっていくつか記録されているが、その映像内でも炎上する機体は少ない。タラワの戦い(第一次ギルバート諸島沖航空戦)中の1943年11月20日の例では、空母「インディペンデンス」に向かう一式陸攻7機編隊に対してまず米駆逐艦「キッド」が5インチ砲と40mm機関砲を用いて攻撃し2機を撃墜[23]。さらにF6F 4機が一式陸攻編隊を迎撃したがなかなか撃墜できず、インディペンデンスは被雷大破した。その後一式陸攻のうち4機は撃墜されたが、最後の1機は墜落せず、とうとうF6Fは諦めて一式陸攻の逃走を許した。空戦全体を見れば7機中6機が撃墜されたが、アラン・ロビー艦長は戦闘報告書の中で一式陸攻の頑丈さを評価している[24]。
沖縄戦での菊水作戦でも多数の一式陸攻が出撃したが、迎撃したアメリカ海軍・海兵隊戦闘機パイロットの印象では「 (搭載の)AN/M2 12.7mm機関銃で一式陸攻を撃墜するのは難しい」であった。のちにアメリカ海軍・海兵隊主力戦闘機であったF6FヘルキャットにはAN-M3 20mm機関砲が搭載されるようになり、7月14日に伊江島のアメリカ軍飛行場を爆撃した日本軍機を迎撃した、ロバート・ベアド海兵隊大尉のAN-M3 20mm機関砲搭載型のF6F-5N(ヘルキャットの夜間戦闘機型)が1機の一式陸攻を撃墜したが、この戦果によって海兵隊は、ようやくヘルキャットによって一式陸攻が撃墜できるようになり、問題が解決したと評している[25]。
1930年代大日本帝国海軍は、ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン条約で対米劣勢を余儀なくされた戦艦・巡洋艦・航空母艦勢力を補うため、陸上基地から発進して洋上にいる敵艦を攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)の開発に力を注いだ。
こうした目的に沿って試製されたのが、海軍広工廠の九五式陸上攻撃機、三菱内燃機製造株式会社名古屋工場(1935年(昭和10年)10月1日三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所と改称)の本庄季郎技師を主務者として設計された九六式陸上攻撃機だった。細い胴体に双垂直尾翼を配したスマートな機体である九六式陸攻は当時としては高い性能を発揮したが、いわゆる「渡洋爆撃」で大きな被害を出したことから、九六式陸攻の防備能力を向上させた後継機として1937年(昭和12年)9月に「十二試陸上攻撃機」が発注され、再び本庄季郎技師を主務者とした設計陣で開発に取り組んだ。
第一回一式陸攻打ち合わせ会で、本庄季郎技師(三菱)から「防備が不十分。小型で航続距離求めれば燃料タンクに被弾しやすいため、四発機にして搭載量、空力性能、兵儀装要求を満たし増えた二発馬力で防弾鋼板と燃料タンクの防弾、消火装置を備える」と提案があったものの、和田操(航空技術廠長)から「用兵については軍が決める。三菱は黙って軍の仕様通り作ればいい」と議論なく棄却された[26]。
1939年10月、一号機が完成[27]。初飛行は1939年(昭和14年)10月23日、パイロットは志摩勝三。1941年(昭和16年)4月1日、「一式陸上攻撃機」として制式採用された[28]。 このG4M1爆撃機が量産に入る以前に、重護衛戦闘機型を制作することが試みられた[29]。この爆撃機の量産は1940年に開始され、量産1号機は1941年4月に生産ラインを離れた。
最初に一式陸攻が配備されたのは高雄空であり、1941年(昭和16年)7月25日に24機が漢口に進出し、7月29日に6機で行なった宜昌西岸地区爆撃が一式陸攻の初陣[注釈 11]となった[30]。8月11日には零戦との初の協同作戦となる成都攻撃に参加し、零戦の誘導を行なった[31]。 爆弾搭載能力は、前身の九六式陸上攻撃機と変わらなかったが、速力、上昇力に非常に優れ、零戦を随伴して飛行でき、七千メートル以上の高度が取れ、対空砲、敵機圏外から爆撃が可能であった[27]。
太平洋戦争開時、九六式陸攻と協同して台湾からフィリピンのアメリカ陸軍航空基地を攻撃し、B-17爆撃機を含む爆撃機兵力を壊滅させている。また、やはり九六式陸攻と協同して、マレー沖でイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する(マレー沖海戦)など、太平洋戦争初期に活躍した。
その後、海軍陸攻隊の主力として主に南太平洋方面の対連合軍作戦に従事したが、基本構造の問題に起因する防弾性能の低さから、被害が増大するようになった。被害は特に雷撃時に顕著(ミッドウェー海戦に見られるように米軍機でも同様の傾向が見られる)だったが、それなりの数の護衛戦闘機を揃え、この規模の爆撃機としては良好な高高度性能と、防御火力を活かした高高度爆撃を行えば、損耗率を比較的低く抑えることも可能だった。
しかし、戦力バランスが大きく崩れ、護衛戦闘機はおろか陸攻も十分な出撃数を揃えることが出来なくなった大戦中盤以降は、戦術を夜間爆撃、夜間雷撃に変更せざるを得なくなった。それでも、雷撃により、レンネル島沖海戦で重巡洋艦シカゴを撃沈、他重巡2隻、駆逐艦1隻に損傷を与え、他にもトラック島空襲の際に空母イントレピッドを大破、台湾沖航空戦でも重巡キャンベラを大破させるなどの戦果を挙げている。
また、この時期にソロモン諸島ブインで連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将が戦死した際の乗機としてもよく知られる(海軍甲事件を参照)。
大戦終盤は特攻兵器「桜花」の母機としても使用された。しかし、全重量2,270 kgの桜花は一式陸攻の搭載量を遥かに超過しており、飛行性能の低下をもたらした。航続距離は30パーセント減、巡航速度は170ノット(314 km/h)で約10パーセント減、さらに運動性能の低下が著しかった。そのため軍令部は、一式陸攻に強力な援護戦闘機を付ける必要性を感じ、桜花を搭載した一式陸攻の4倍の護衛戦闘機を付ける計画であったが[32]、1945年3月18日の九州沖航空戦での桜花の初陣では、野中五郎少佐指揮による一式陸攻18機(編隊長機3機は桜花未搭載)に対して、最終的に随伴できた護衛機の零戦は32機にしか過ぎず、護衛機を蹴散らしたF6Fヘルキャットに桜花を搭載して退避もままならない一式陸攻は次々と撃墜されて全滅している。
その後、沖縄戦でアメリカ軍は占領した飛行場で桜花を鹵獲すると、潜在的な脅威と認識し、鹵獲した桜花を本国に送ってアメリカ技術航空情報センターで徹底した調査が行われている[33]。そこでは「人間という最高の制御、誘導装置を備えた、潜在的に最も脅威となる対艦攻撃兵器である。」と評価されていくつかの桜花対策が講じられたが、もっとも強調されたのは「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を最優先で攻撃すること。」であり、一式陸攻はアメリカ軍にとって最優先の迎撃目標となった[34]。
一方で日本軍も、第1回目の攻撃失敗を検証して対策を講じ、昼間に一式陸攻の大編隊による攻撃を断念し、主として薄暮及び黎明時に一式陸攻少数機が1 - 2機ずつに分かれての出撃を行う戦術に転換した。その結果として迎撃が分散され、沖縄戦では桜花射程内までアメリカ艦隊に接近できた一式陸攻も増えて戦果も少なからず挙がるようになった(総合戦果、1隻撃沈 2隻大破除籍 1隻大破 3隻損傷)[35]。しかし、アメリカ軍の徹底した対策もあって、日本軍の大きな期待を裏切る戦果に終わり、アメリカ軍は桜花作戦全体に対して「この自殺兵器の使用は成功しなかった。」との総括をし、その原因としては「母機の脆弱性が制限要素となった。」と評している[36]。
また終戦時には白色塗装の上、緑十字を描いた「緑十字機」として、軍使の乗機に使用された。
後継機として、陸上爆撃機「銀河」、十三試陸上攻撃機「深山」、十六試陸上攻撃機「泰山」(計画中止)、十八試陸上攻撃機「連山」、対潜哨戒機・輸送機「大洋」(計画中止)が開発された。
制式名称 | 一式陸上攻撃機一一型 (火星一五型装備機) |
一式陸上攻撃機二二型 | 一式陸上攻撃機三四型 |
---|---|---|---|
機体略号 | G4M1 | G4M2 | G4M3 |
全幅 | 24.88 m | ||
全長 | 19.97 m | 19.63 m | 19.50 m |
全高 (水平) |
4.506 m | 6.000 m | |
主翼面積 | 78.125 m2 | ||
自重 | 6,741 kg | 8,050 kg | 8,391 kg |
過荷重重量 | 12,895 kg | 15,451 kg | 14,772 kg |
発動機 | 火星一五型(離昇1,460馬力) | 火星二一型(離昇1,850馬力) | 火星二五型(離昇1,850馬力) |
最高速度 | 453.7 km/h(高度4,200 m)[注釈 15] | 437.1 km/h(高度4,600 m)[注釈 15] | 479.7 km/h(高度5,066 m) |
実用上昇限度 | 9,660 m | 8,950 m | 9,026 m |
航続距離 | 2,176 km(爆撃)/5,882 km(偵察) | 2,500 km(爆撃)/6,060 km(偵察) | 4,334 km(偵察) |
爆装 | 60 kg爆弾12発、250 kg爆弾4発、 500 kg又は800 kg爆弾1発 | ||
雷装 | 800 kg魚雷1発 | ||
武装 | 7.7 mm旋回機銃4挺(前方・上方・側方) 20 mm旋回機銃1挺(尾部) |
7.7 mm旋回機銃3挺(前方・側方) 20 mm旋回機銃2挺(上方・尾部) |
13 mm旋回機銃1挺(前方) 20 mm旋回機銃4挺(側方・上方・尾部) |
乗員 | 7名(主/副操縦手、主/副偵察手、主/副通信手、搭乗整備員) |
参考:中攻通信
型名 | 機体写真 | 所在地 | 所有者 | 公開状況 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
一一型 | アメリカ カリフォルニア州 | プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館 | 公開・非復元 | 静態展示 | 1280号機、尾翼番号 ?-321 (龍を用いる第七六一海軍航空隊所属機と目されている)。 | |
一一型 | ソロモン諸島 バラレ島 | ソロモン諸島国立博物館(交渉窓口) | 公開 | 野外放置 | 1800号機および2806号機、尾翼番号 U2-???。 | |
一一型 | 主翼・座席等 日本新潟県 山本五十六記念館 胴体 ソロモン諸島ブーゲンビル島アクア近郊 |
(左記参照) | 公開 | 静態展示 | 2656号機、尾翼番号323。海軍甲事件時に山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗していた機体。 | |
二二型 | 日本 山梨県 | 河口湖自動車博物館・飛行舘 | 公開・胴体のみ | 静態展示 | 12017号機、尾翼番号 62-22の機体だが、現在は尾翼番号 龍41と塗装されている。「龍」の字は第761海軍航空隊所属機を表す。主翼を除いて復元されているが、胴体のみ公開されている。 | |
三四型 | アメリカ メリーランド州 | ポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設 | 公開・機首のみ | 静態展示 | ||
一式大型陸上輸送機 | 日本 静岡県 | 磐田市役所 | イベントで公開・部品のみ | 静態展示 | 尾翼と増加燃料タンクの一部が展示されている。 | |
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