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ボブ・オートン(Bob Orton、本名:Robert Dale Orton Sr.、1929年7月21日 - 2006年7月16日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。カンザス州カンザスシティ出身。
息子のボブ・オートン・ジュニアとバリー・オートン、孫のランディ・オートンもプロレスラーである[1]。
ビッグ・O(Big O)、ゾディアック(Zodiac)、エル・ディアブロ(El Diablo)などと名乗り、覆面レスラーに変身して活動したこともある[1]。
オクラホマ大学にてレスリングで活動後[2]、1950年にプロデビュー[3]。地元のカンザスおよびミズーリを拠点とした中西部を主戦場に、1951年12月20日と1954年1月28日にNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を獲得[4]。1954年1月1日にはサニー・マイヤースからNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取した[5]。
1955年7月、ジェス・オルテガやプリモ・カルネラなどと共に日本プロレスに初来日[6]。9月5日の水戸大会では力道山とシングルマッチで対戦した[6]。1960年の再来日時には、レオ・ノメリーニらと共に『第2回ワールド大リーグ戦』に出場している[7]。
1960年代より南部のフロリダ地区にヒールのポジションで参戦し、エディ・グラハム、カウボーイ・ボブ・エリス、トニー・マリノらを破り、フラッグシップ・タイトルのNWA南部ヘビー級王座を再三獲得[8]。1964年にはルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座にも、タンパやジャクソンビルなどフロリダ各地で再三挑戦している[9]。
AWAのテリトリーにも進出して、オマハ地区では1967年にロック・ロゴウスキーやイゴール・ボディックと中西部ヘビー級王座を争い[10]、1968年3月15日にはマッドドッグ・バションと組んで中西部タッグ王座も獲得した[11]。
1968年下期からは、ロッキー・フィッツパトリック(Rocky Fitzpatrick)の変名でWWWF(現:WWE)に参戦[12]。9月23日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した[13]。WWWFではプロフェッサー・タナカ、ブル・ラモス、キラー・コワルスキーなど、同じヒール陣営のレスラーとも対戦している[14]。
その後も各地で活動し、1970年にはテキサスのダラス地区でミル・マスカラスやワフー・マクダニエルなど、当時売り出し中だったベビーフェイスと対戦[15]。フロリダ地区では1972年8月15日、ヒロ・マツダと組んでニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取[16]。1973年には古巣のカンザス地区においてハーリー・レイスとも抗争した[17]。
1975年1月、ダニー・リンチやボブ・スローターと共に国際プロレスに参戦。15年ぶりの来日を果たし、ラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上、アニマル浜口らとシングルマッチで対戦した[18]
主戦場のフロリダでは1976年4月、負傷したボブ・ループに代わって息子のボブ・オートン・ジュニアのパートナーとなり、NWAフロリダ・タッグ王座に返り咲く[16]。オートン・ジュニアのシングル王座戴冠後はループとコンビを組み、ジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコの兄弟チームともタイトルを争った[16]。
1970年代後半からはセミリタイア状態となるも、1980年にはループやオートン・ジュニアも参画していたインディー団体ICW(アンジェロ・ポッフォ主宰のインターナショナル・チャンピオンシップ・レスリング)に出場。バリー・オートンを加えての親子トリオも実現した[19]。
1981年の引退後は公の場にあまり姿を現さなかったが、2005年にオートン・ジュニアがWWE殿堂に迎えられた際は顕彰式に参列している。
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