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オーストリアの作曲家、指揮者 ウィキペディアから
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。
1860年 7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827年 - 1889年)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837年 - 1889年)の間の第2子として、オーストリア帝国に属するボヘミア王国のイーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に生まれた。
夫妻の間には14人の子供が産まれている[注釈 1]。しかし半数の7名は幼少時に様々な病気で死亡し[1][注釈 2]第一子(長男)のイージドールも早世しており、グスタフはいわば長男として育てられた。そのなか心臓水腫に長期間苦しんだ弟エルンストは、少年期のグスタフにとって悲しい体験となった。グスタフは盲目のエルンストを愛し、彼が死去するまで数ヶ月間ベッドから離れずに世話をしたという[2]。
父ベルンハルトは強く精力的な人物だった。当初は荷馬車での運搬業(行商)を仕事にしており、馬車に乗りながらあらゆる本を読んでいたため「御者台の学者」というあだ名で呼ばれていた[3]。独力で酒類製造業を開始し、ベルンハルトの蒸留所を家族は冗談で「工場」と呼んでいた。ユダヤ人に転居の自由が許されてから一家はイーグラウに移住し、そこでも同じ商売を始める。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。事業を成功させたベルンハルトは「ユダヤ人会」の役員を務めるとともに、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持った。グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施し、幼いグスタフはドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた[4]。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ、より良い音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。彼は強い出世欲を持ち、子供たちにもその夢を託した[3]。
母マリーもユダヤ人で、石鹸製造業者の娘だった。ベルンハルトとは20歳の時に結婚している。家柄は良かったが心臓が悪く生まれつき片足が不自由であり、自分の望む結婚はできなかったという。アルマ・マーラーは「あきらめの心境でベルンハルトと愛のない結婚をし、結婚生活は初日から不幸であった[5]」と書き記している。その結婚自体は理想的な形で実現したとは言えないものの、夫妻の間には前述の通り多くの子供が生まれている。ただし身体の不自由なマリーは、教育熱心な夫ベルンハルトと違い母親としての理想的な教育を子供たちに施すことができなかった。グスタフは生涯この母親に対し「固定観念と言えるほど強い愛情」を持ち続けた[3]。
ベルンハルトの母(グスタフの祖母)も、行商を生業とする剛毅な人間だった。18歳の頃から大きな籠を背に売り歩いていた。晩年には、行商を規制したある法律に触れる事件を起こし、重刑を言い渡されたが、刑に服する気はなく、ただちにウィーンへ赴き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に直訴する。皇帝は彼女の体力と80歳という高齢に感動し、特赦した。グスタフ・マーラーの一徹な性格はこの祖母譲りだとアルマは語っている[6]。
本人の回想によれば、グスタフは4歳の頃、アコーディオンを巧みに演奏したとされる[7]。5歳の頃、母方の祖父母の家を訪問した際、姿を消し長時間捜索されるが、見つかった彼は屋根裏でピアノをいじっていた。その時に父ベルンハルトはグスタフが音楽家に向いていることを確信したという[8]。1869年(9歳)にイーグラウのギムナジウムに入学。10歳となった1870年10月13日には、イーグラウ市立劇場での音楽会にピアニストとして出演した。ただし曲目は不明である[7]。1871年(11歳)にはプラハのギムナジウムに移りユダヤ人商人のモーリッツ・グリューンフェルトのもとに下宿する[9]。
1872年(12歳)、イーグラウに帰郷。ギムナジウムの式典ホールでピアノ演奏を行った[10][注釈 3]。
1875年(15歳)、ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学[11]。ピアノをユリウス・エプシュタインに、和声学をロベルト・フックスに、対位法と作曲をフランツ・クレンに学んだ[12]。この年に弟エルンストが死去する。1876年(16歳)にはピアノ四重奏曲を作曲。またウィーン楽友協会音楽院でフランツ・シューベルトのピアノ・ソナタ演奏によりピアノ演奏部門一等賞を、ピアノ曲で作曲部門一等賞を受賞した[13]。1877年(17歳)、ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。1878年(18歳)、作曲賞を受け、7月11日に卒業。1883年9月(23歳)、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。1884年(23歳)、ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。しかし6月、音楽祭でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『第9交響曲』とフェリックス・メンデルスゾーンの『聖パウロ』を指揮して、指揮者として成功を果たす。1885年1月(24歳)、『さすらう若者の歌』を完成。プラハのドイツ劇場の楽長に就任。しかしこの年、生活は窮乏を極めた。1886年8月(26歳)、ライプツィヒ歌劇場で楽長となる。この年『子供の不思議な角笛』を作曲する。
1888年(28歳)、『交響曲第1番ニ長調』の第1稿が完成。10月、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。1889年1月(28歳)、リヒャルト・ワーグナーの『ラインの黄金』と『ワルキューレ』のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得た。しかしこの年、2月に父を、10月に母と、続けざまに両親を失っている。1891年4月(30歳)、ハンブルク歌劇場の第一楽長となる。1892年1月19日(31歳)、ハンブルク市立劇場で行われたピョートル・チャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮。
1894年12月18日(34歳)、『交響曲第2番ハ短調』が完成。1895年2月6日(34歳)、弟オットーが21歳で自殺。12月13日(35歳)、『交響曲第2番ハ短調』全曲初演。1896年(36歳)、シュタインバッハ(ザルツカンマーグートのアッター湖近く)にて『交響曲第3番ニ短調』を書く。
1897年春(36歳)、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。5月、ウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)第一楽長に任命され、10月(37歳)に芸術監督となった。1898年(38歳)にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。1899年、南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニック(Maiernigg)に作曲のための山荘(別荘)を建て『交響曲第4番ト長調』に着手(翌年に完成)。
1901年4月(40歳)、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。
12月(41歳)、「私の音楽を君自身の音楽と考えることは不可能でしょうか。二人の作曲家の結婚をどう考えますか[14]」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出、彼女はその後作曲の筆を折った。なお、アルマはアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーに作曲を習い14曲の歌曲を残しており、これはウニヴェルザール出版社より出版されている。1902年3月(41歳)、当時23歳のアルマと結婚。2人とも初婚だった。
夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第5番嬰ハ短調』が完成。10月(42歳)、長女マリア・アンナ(愛称プッツィ)が誕生する。1903年には、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与された。この年、次女アンナ・ユスティーネ(愛称グッキー)も生まれた。1904年4月、シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに「創造的音楽家協会」を設立しマーラーを名誉会長とした。夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第6番イ短調』を書き上げ、『交響曲第7番ホ短調』の2つの「夜曲」を作曲。1905年夏(45歳)にはマイアーニックの作曲小屋で残りの第1楽章・第3楽章・第5楽章を作曲して7番も完成に至った。
1907年(47歳)、長女マリア・アンナがジフテリアで亡くなり、マーラー自身も心臓病と診断された。12月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から招かれ渡米し、『交響曲第8番変ホ長調』を完成。しかし翌1908年5月にはウィーンへ戻る。トーブラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)にて『大地の歌』を仕上げる。秋に再度渡米。
1909年(49歳)、ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。春、ヨーロッパに帰る。夏にトーブラッハで『交響曲第9番ニ長調』に着手し、約2カ月で完成させた。10月に再び渡米。体調も回復し旺盛な指揮活動を続ける。
1910年4月(49歳)、ヨーロッパに帰る。この際クロード・ドビュッシーやポール・デュカスと会う。8月(50歳)、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が掻き乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへきてようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。9月12日にはミュンヘンで『交響曲第8番』を自らの指揮で初演し、成功を収めた。10月にニューヨークに戻る。
1910年冬からの演奏会シーズンもニューヨーク・フィルハーモニックで精力的に演奏会活動を続けていたが、冬に咽喉炎を患い、翌1911年2月(50歳)にも発熱。連鎖球菌による感染性心内膜炎と診断され、パリで治療を受けるが回復の見込みが立たず。最終的に病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症で死去。暴風雨の夜だった。最期の言葉は「モーツァルトル(Mozarterl)![15][注釈 4]」だった。長女マリア・アンナと同じ、ウィーン郊外のグリンツィング墓地に埋葬された。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」というマーラー自身の考えを反映し、墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていない[16][17]。
なお、アルマの墓はその斜め後ろにあり、アルマの2番目の夫との娘でアルバン・ベルクがヴァイオリン協奏曲を捧げたマノン・グロピウスと共に埋葬されている。
出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている[18][注釈 5]。マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず[注釈 6]、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに「なに人か」と問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです(Ich bin ein Böhme.)」と答えている[19][18][注釈 7]。
酒造業者の息子として育ったマーラーは、「シュパーテンブロイ」という銘柄の黒ビールが好物だった[20]。しかし本人はあまり酒に強くなかった[21]。
アマチュアリズムを大いに好んだとされ、チャールズ・アイヴズの交響曲第3番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。
マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家であるブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらに大きな影響を与えている。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐した。クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき[22][23]、そのことについて後年までマーラーに感謝していた[24][注釈 8]。そのほか、オスカー・フリートやウィレム・メンゲルベルクなど当時の一流指揮者もマーラーと交流し、強い影響を受けている。なかでも非ユダヤ系のメンゲルベルクは、マーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は他にいない」との言葉を得るほど高く評価されていた。メンゲルベルクはマーラーの死後、遺された作品の紹介に努めており、1920年の5月には6日から21日にかけてマーラーの管弦楽作品の全曲を演奏した[25]。
一方、マーラーはその一徹な性格から周囲の反発を買うことも多かった。楽団員からはマーラーの高圧的な態度(リハーサルで我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、音程の悪い団員やアインザッツが揃わない時、当人に向かって指揮棒を突き出す、など)が嫌われた。当時の反ユダヤ主義の隆盛とともにマーラーに対する態度は日々硬化しており、ある日、ヴァイオリン奏者の一人が「マーラーがなぜあんなに怒っているのか全く理解できない。ハンス・リヒターもひどいものだがね」と言ったところ、別の者が「そうだね。だけどリヒターは同じ仲間だ[注釈 9]。マーラーには仕返ししてやるぜ」と言った[26]。当時のウィーンの音楽ジャーナリズムからも反ユダヤ主義にもとづく不当な攻撃を受けており、これらはマーラーがヨーロッパを脱出した大きな要因である。
なおマーラーの「敵を作りやすい性格」については、クレンペラーがブダペスト放送での談話(1948年11月2日)にて以下の通り擁護している[22]。
加えてクレンペラーは1951年にも「朗らかでエネルギッシュであったマーラーは、無名の人間には極めて寛大であり助けを惜しまなかったが、思い上がった人間には冷淡だった」「マーラーは真っ暗闇でも、その存在で周囲を明るく照らした」と述べ[27]、マーラーの死後に広まった一面的マーラー観(死の恐れに取り憑かれ、世界の苦を一身に背負い…など)を否定している。
マーラーの死後、評論家たちはマーラーのヨーロッパ脱出を「文化の悲劇」と呼んだ[28]。
しばしば引き合いに出される「やがて私の時代が来る」というマーラーの言葉は、1902年2月のアルマ宛書簡で、リヒャルト・シュトラウスのことに触れた際に登場している。以下がその一文である[29][25]。
マーラーは、当時の楽壇の頂点に登り詰めたトップ指揮者だった。音楽性以上に徹底した完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法は、カリカチュア化されるほどの強い衝撃を当時の人々に与えている。その代表的なカリカチュアである『超モダンな指揮者』(Ein hypermoderner Dirigent)には、1901年ウィーン初期の頃の、激しい運動を伴ったマーラーの指揮姿が描かれている。なおその指揮ぶりは次第に穏やかなものとなり、晩年、医師から心臓疾患を宣告されてからは「ほとんど不気味で静かな絵画のようだった」(ワルターによる証言)と変化した。
マーラーの指揮者としての名声は早くから高まっており、1890年12月にブダペストで上演された『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたヨハネス・ブラームスは、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と語ったといわれ[30]、1892年1月にハンブルクでオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮した際は、同席した作曲者チャイコフスキーが友人への手紙で指揮者マーラーの才能を称賛している。
マーラーは演奏する曲に対して譜面に手を入れることが多く、アルトゥーロ・トスカニーニはマーラーがメトロポリタン歌劇場を去ったのち、手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ!(Shame on a man like Mahler!)」と、憤慨したという逸話が残っている[31][注釈 10]。もっとも、ロベルト・シューマンの『交響曲第2番』『交響曲第3番』の演奏では、トスカニーニはマーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。
オーケストラ演奏の録音は技術が未発達の時代であり残っていないが、交響曲第4番・5番や歌曲を自ら弾いたピアノロール(最近はスコアの強弱の処理も可能で原典に近い形に復刻されている)、および唯一ピアノ曲の録音(信憑性に問題がある)が残されている。
指揮についてマーラーの言葉が、いくつか残されている[32]。
マーラーは指揮者として多くの改革を実行し、それは現代にも引き継がれている。ブダペスト王立歌劇場時代、マーラーは聴衆の理解のため、ハンガリー語で統一したワーグナーを上演した[30]。当時、オペラ歌手は容貌(舞台映え)がなにより重視されており、上演時にはそれら外部のスター歌手が起用されていた。そのためそれらスターが歌うことの出来る言語が優先され、ひとつのオペラ公演時に複数の言語が混じることすらあった。マーラーは聴衆の理解と歌手の実力を重視し、既存のスターではなく若い歌手を次々起用し歌劇場を活性化させている。ウィーン宮廷歌劇場では、マーラーはさくらを廃止し、ワーグナー・オペラを完全な形で上演した[33]。当時は劇場から雇われた人間が客席に陣取り、やらせの拍手やブラヴォーをし、長大なワーグナー作品はカットされることが常だったのである。
ウィーンを中心に活動した交響曲作曲家の先輩として36歳年上のアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。
17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている(前出)。同年マーラーは『ブルックナーの交響曲第3番』(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている[34]。
ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが[35]、その友好関係は途絶えていない。アルマは「マーラーのブルックナーに対する敬愛の念は、生涯変わらなかった」と記している[36]。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニヴェルザール出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の印税を放棄している[37]。
マーラーは14歳年下であるアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価し、また深い友好関係を築いた。
彼の『弦楽四重奏曲第1番』と『室内交響曲第1番ホ長調』の初演にマーラーは共に出向いている。前者の演奏会では最前列で野次を飛ばすひとりの男に向かい「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と言った。この際は相手から殴りつけられそうになったものの、マーラーに同行していたカール・モルが男を押さえ込んだ[注釈 11]。男は「マーラーの時にも野次ってやるからな!」と捨て台詞を吐いた[38][39]。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆を「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対しこう語った[40][39][41]。「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」
シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している[37]。1910年8月には、かつて反発していたことを謝罪し、マーラーのウィーン楽壇復帰を熱望する内容の書簡を連続して送っている[42]。
ある夜、マーラーがシェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。反発するシェーンベルクに怒ったマーラーは「こんな生意気な小僧は二度と呼ぶな!」とアルマに言い、シェーンベルクとツェムリンスキーはマーラー宅を「もうこんな家に来るものか!」と出て行った。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は、なぜ顔を見せないのだろう?」とアルマに尋ねるのだった[21]。
マーラーは、ポリフォニーについて独自の考えを持っていた。以下は、マーラー自身による結論である[43]。
マーラーの交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うことが多い。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲だが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。
楽器に関し、マーラーはカウベル、鞭、チェレスタ、マンドリン、鉄琴や木琴など、当時としては使用されることが珍しかったものを多く採用した。中でも交響曲第6番で採用した大型のハンマーは、人々の度肝を抜いた[44]。1907年1月に描かれたカリカチュア『悲劇的交響曲(Tragische Sinfonie)』では、奇妙な楽器群の前で頭を抱えたマーラーが描かれている。「しまった、警笛を忘れていた!しかしこれで交響曲をもうひとつ書けるぞ!」(英語版参照)
歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境がはっきりしないのも特徴である。なお現代作曲家のルチアーノ・ベリオは、ピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。
多くの作品において、調性的統一よりも曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に多調・無調的要素が大きくなっていった。作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは1970年代からだが、これは現代音楽において「新ロマン主義」とも呼ばれる調性復権の流れが現れた時期であり[45]、前衛の停滞とともに「多層的」な音響構造の先駆者としてマーラーやアイヴズ、ベルクなどが再評価された[46]。
現在、マーラーの交響曲作品はその規模の大きさや複雑さにもかかわらず世界中のオーケストラにより頻繁に演奏される。その理由について、ゲオルク・ショルティはこう述べている[47]。
以下の3曲のオペラはいずれも完成されず、そのまま破棄(もしくは紛失)している。
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