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もち米やうるち米などで作った餅 ウィキペディアから
ちまき(粽、中国語: 粽 または 粽子、拼音: ツォン または zòngzi ツォンズ)は、もち米やうるち米、米粉などで作った餅、もしくはもち米を、三角形(または円錐形)に作り、ササなどの「ちまきの葉」(中国語: 粽葉; 拼音: zòngyè)で包み、イグサなどで縛った食品。葉ごと蒸したり茹でて加熱し、その葉を剥いて食べる。
後漢の『風俗通義』(2世紀末)に古い記載があり、粽は「角黍」とも呼び、菰葉(マコモ)の葉でもち米を包んで灰汁で煮たものと記載されており[1]、同様の記述が周処(297年没)の『風土記』にみられる[2]。
『説文解字』の原書にはないが、宋代になって追捕された『説文新附』(10世紀)には、「粽」の字が追加され、本字を「糉」とし、字義を「蘆葉裹米也」(蘆(あし)の葉で米を包む也)とする[3]。この字の
中国において、ちまきは水分を吸わせたもち米を直接葦の葉で包み、茹でる、もしくは蒸す方法で加熱して作る方法が主流である。材料の米にはもち米のみを用いることが多い[7]。米と一緒に、味付けした肉、塩漬け卵、棗(なつめ)、栗などの具や、小豆餡などを加えることが多い。特別なものでは、アワビやチャーシューを包んだものもある。形は正四面体が多いが、直方体、円筒形のものもある。中国北部では甘いちまき、南部では塩辛い味のちまきが好まれるが、そうした違いは南北との交流が盛んになった現在では少なくなってきている。
吉林省、遼寧省、内モンゴル、天津市、山東省、上海市、江蘇省、江西省、広東省、福建省などの地域では端午節にちまき(粽子)を食べる習慣がある[7]。
中国の戦国時代、楚の政治家で詩人の屈原は、汨羅江(べきらこう)で入水自殺したとされる。のちに次のような伝説が生まれた。屈原の命日(5月5日)には[注 1]、民衆はこれを悼んで、供物の米を竹筒につめて川に投じていた。しかし、後漢の初めの建武(26 - 56年)の頃、長沙の區曲という者の夢枕に屈原(の霊)が現れ、供物は悪い竜に食べられてしまうので、蛟竜が苦手とする楝樹(おうち)の葉でふさぎ、魔除けの五色の糸で縛って、川に投げ入げよとさとしたのが粽の起源とされる[5][8]。ただしこの伝説は漢代から数世紀たった呉均撰『続斉諧記』(6世紀)に記載されたものである[5][注 2]。
これはあくまで起源伝説であって、屈原にちまきを供える慣習が、この伝説のとおり西暦1世紀に遡るとは鵜呑みにできない。屈原と粽が結び付けられたのは、せいぜい5世紀前半、『世説新語』においてであって[4]、また、6世紀より以前に屈原が広く人口の間で祀られていたという実証はない[10]。『荊楚歳時記』(6世紀)は、端午節の川の競渡を、屈原の供養とする慣例ができたとするが、ちまきを供えるとはしておらず、ちまきは夏至の食べ物だとしている[11]。
ちまき(粽、ツォン)の記載についても、古くとも漢代の末期頃にまでしか遡れないようである。これは後漢の『風俗通義』(『風俗通』とも。2世紀末)に、粽(別称は角黍)の記載があった[1]。だが通説によれば粽に関する最古の記載は西晋(3世紀)の周処が著した『(周処)風土記』にあり[4][12]、そこには「仲夏端午、烹鶩角黍(夏の端午の節句に鶩(あひる)や角黍を調理する)」と記されており、角黍とはもち米を菰の葉でくるんで煮たものと定義されている[2]。
承平年間(931年 - 938年)に編纂された『倭名類聚鈔』には「和名知萬木」という名で項目があり、もち米を植物の葉で包み、これを灰汁で煮込むという製法が記載されている。元々は灰汁の持つ殺菌力や防腐性を用いた保存食であった。その後、各地で改良や簡略化が行われ、京では餅の中に餡を包み込んだり、餅を葛餅に替えるなど独自の物も出来て来た。
ちまきは柏餅と並ぶ端午の節句の供物として用いられる[7]。ちまきは地方によって形や中身が異なる[13]。2018年のウェザーニュースが実施したちまきに関する調査によると、北海道から関東甲信越、九州の一部では中身がおこわ、東海から九州では中身が甘い団子との回答が多数を占めた[13]。 奈良時代に中国から端午の節句の風習の一環でちまきが伝来[13]。平城宮のあった近畿地方には白い団子のちまきが根付いた[13]。一方で、関東地方には、この風習は根付かず、柏餅を食べることが多い[13]。
『伊勢物語』(五十二段)、「人のもとより飾り粽 おこせたりける返事に、菖蒲(しょうぶ)刈り 君は沼にぞまどひける 我は野に出でてかるぞ わびしき」とあり、昔は菖蒲の葉も用いたようである。
日本ではもち米だけでなくうるち米も用いられる[7]。包むのに使う葉はチガヤ、笹、竹の皮、ワラなど様様である。
江戸時代、1697年(元禄10年)に刊行された本草書『本朝食鑑』には4種類のちまきが紹介されている。
このうち、1は新潟県の「三角ちまき」など現在でもよく作られるちまきである。うるち米の粉で餅を作った後、これをササの葉やマコモの葉で包む。これを茹でるか蒸籠で蒸らして作る。そのままか、もしくは4に準じた食べ方をしている。
2は現在の和菓子屋で作られる和菓子のちまきの原型であり、現在の餅の原料は葛に代わっている。端午の節句に作る店が多い。
3の飴粽(糖粽とも書く)は、餅が飴色になっているため、この名があるという。詳細は糖粽売の項目を参照。
4は、灰汁(あく)による保存と品質維持を期待した保存食の一種。きな粉や砂糖を混ぜた醤油で食べる。宮崎県や鹿児島県および熊本県南部では「あくまき」とも呼ばれる。
このほか、新潟県、山形県で笹団子と呼ばれる、笹で包んで両端をワラで結んだ形状のものも茨城県常陸太田市ではちまきと呼び、名物となっている。また、山形県ではちまきに非常に類似している笹巻きというものが名物となっている。ちまきとは呼ばず端午の節句とも無関係であるが、月桃の葉で包んだムーチーと呼ばれる類似の菓子が沖縄にある。
京都の祇園祭では粽(ちまき)が厄除けの縁起物となっている[14]。これは厄除けの縁起物で食べるためのものではない[14](中身も葉のみである)。もともとは山鉾巡行の際に山鉾から撒れていたものが、今は宵山の際に祭会所で販売されている[14]。蘇民将来信仰の茅の輪に起源があるとされる。
滋賀県の大津祭では現在も曳山の上から撒かれる。一本ずつではなく十本を一纏めにしたものを一把と言い、一把ずつ配布したり、撒いたりする。かつては、そのまま撒いたりしていたが、近年では袴や巻紙などと呼ばれる山鉾名や曳山名の書かれた紙を巻いたり、お守りや鈴などをつけたりしている。かつては和菓子のちまきも「上ちまき」と称して撒いていた。「上ちまき」は一本ずつ撒かれていた。
南北で多少異なり、それぞれ「南部粽」、「北部粽」と呼ばれる。この他に、「客家粽」と呼ばれるもの、「鹸水粽」、「鹸粽」とよばれるあくまきなどがある。
シンガポール、マレーシアは福建系の移民の子孫が多いためか、これらの国のちまきは基本的に中国福建式の肉粽(Bak Chang)が主流である。豚の角煮、しいたけ、栗、干しエビなどを具とし、醤油、塩、砂糖、五香粉、白胡椒などで味付けをしている。地域が変わるとピーナツや豆が具に加わることもある。また、中国とマレー文化の融合したニョニャのちまきとして「娘惹粽(Nyonya Chang)」とも呼ばれるものもあり、これは豚肉の具にコリアンダーのスパイス、冬瓜の砂糖漬けなど加えてやや甘めの味付けがされる。また、餅米にカンスイを加えて味付けをせずに蒸した鹸水粽(Kee Chang)というミニサイズの粽もある。これはデザートとして椰子糖のシロップや、カヤ(ココナッツミルクと卵で作ったジャム)を添えて食べる。
インドネシア、タイのちまきも基本的に中国系の国民が作るが、主に福建料理風であり、名称も閩南語のbah-chàng(バーツァン、漢字では「肉粽」)からの借用語でバッチャン/バチャン(インドネシア語: Bakcang/Bacang)、バチャーン(タイ語: บะจ่าง)と呼ばれる。脂身の多い豚肉、落花生などを煮て包んだ甘辛い味である。
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