熊代聖人

日本のプロ野球選手、コーチ (1989 - ) ウィキペディアから

熊代聖人

熊代 聖人(くましろ まさと、1989年4月18日 - )は、愛媛県上浮穴郡久万高原町出身の元プロ野球選手外野手内野手)。右投右打。

概要 埼玉西武ライオンズ 外野守備走塁コーチ #84, 基本情報 ...
熊代 聖人
埼玉西武ライオンズ 外野守備走塁コーチ #84
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2024年5月
基本情報
国籍 日本
出身地 愛媛県上浮穴郡久万高原町
生年月日 (1989-04-18) 1989年4月18日(35歳)
身長
体重
175 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手内野手
プロ入り 2010年 ドラフト6位
初出場 2011年6月6日
最終出場 2022年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 埼玉西武ライオンズ (2023 - )
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経歴

要約
視点

プロ入り前

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今治西時代(2007 全国高校野球選手権大会)

野球ファンだった祖父の影響を受け、プロ野球選手を志す。祖父は小学校2年生時に死去したが、生前に「必ずプロ野球選手になる」との約束を交わしていたといい、告別式の日に祖母から渡されたアイスの棒へ「絶対プロ野球選手になるけん」と書き記し、祖父の霊前に供えた[1]。その後、柔道を習い始めるが[注 1]、それと並行して小学校4年生より地元の野球チーム・久万クラブで硬式野球を始める。クラブでは全ポジションを経験。

愛媛県立今治西高等学校では投手兼外野手として、第88回全国高等学校野球選手権大会第79回選抜高等学校野球大会第89回全国高等学校野球選手権大会と3度の甲子園を経験する。最後の夏ではエースで4番を任され、1回戦で八代東高、2回戦で小熊凌祐擁する近江高等学校を破り、3回戦では佐藤祥万を擁する文星芸術大学附属高等学校を相手に9回に決勝本塁打を放ち、チームのベスト8進出に貢献した。準々決勝では野村祐輔土生翔平上本崇司小林誠司を擁する広陵高等学校に敗れる。

甲子園における打撃成績は通算打率.421、1本塁打、8打点を記録、投手としては最速143km/hを記録し、75回3分の1を投げ自責点27、防御率3.23の成績を残している。なお、甲子園で放ったホームランボールと完封した試合のボールは共に祖父の仏壇に供えた。

高校卒業後は、社会人野球日産自動車に入社し、内野手に転向する[1]。1年目の2008年からレギュラー選手として起用され、チームの第79回第80回の2度にわたる都市対抗野球出場に貢献した。

2009年11月、同社野球部の休部に伴って王子製紙へ移籍。移籍と同時に外野手(主に中堅手)へ転向し[1]、同社でも第81回都市対抗野球大会への出場を果たしている。

2010年10月28日に行われたプロ野球ドラフト会議において、埼玉西武ライオンズから6位指名を受け[3]、入団した。背番号は58[4]

西武時代

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(2012年)

2011年は開幕を二軍で迎えた。打率は2割台前半だったが、チーム最多の犠打、三塁打、四死球を記録し、6月5日に不振の上本達之に代わり一軍に昇格した。6月11日の対阪神タイガース戦では「9番・左翼手」として先発出場し、プロ入り初安打を含む2安打1盗塁を記録した。その後は主に代走や試合終盤の守備固め要員として起用され、公式戦全日程終了まで二軍落ちすることなく一軍に帯同した。81試合の出場で打率.250、8打点、2盗塁だった。

概要 映像外部リンク ...
映像外部リンク
トリプルプレイ成立!! 埼玉西武・熊代のスーパーキャッチから 2012.08.17 L-E プロ野球速報・ライブ中継 パ・リーグTV
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2012年も代走・守備固め要員として4月の一時期を除き一軍に帯同。左投手相手にはスターティングメンバーとしての起用も多かった。8月17日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、ホセ・フェルナンデスの大飛球をキャッチし、シーズン2度目となるトリプルプレーを成立させた。スイッチヒッターにも挑戦したが左打席の完成度は低く、右投手相手には代打を出されることが多かった。二軍落ちの理由も左打席の習熟だった。109試合に出場し、打率.270、6打点、2盗塁を記録した。

2013年はスイッチヒッターを断念し、右打者に専念。開幕一軍入りするが[5]、104試合の出場で打率.239、6打点、4盗塁だった。

2014年のシーズン開幕前、監督の伊原春樹から木村文紀斉藤彰吾と共に「2番・右翼手」の候補として名を挙げられ[6]、実際に「2番・右翼手」として自身初となる開幕スタメン入りを果たす。しかし、シーズン通しての一軍出場は46試合、打率は.217と2年連続で成績が下降した。秋季キャンプでは内野守備に取り組んだ。

2015年は8月31日の楽天戦に右翼手として先発出場すると、試合途中から一軍では初となる遊撃の守備に就いた。38試合の出場で打率.111、3打点、1盗塁だった。

2016年は28試合の出場で打率.167と振るわず、2017年はプロ入り後初めて一軍出場が無いままシーズンを終えた。二軍では後半から内野守備にも就いた。

2018年はシーズンを全て一軍で過ごし、一軍で初めて二塁と三塁の守備に就いた。守備固めとして25試合に出場したが、打撃では無安打だった。オフの契約更改ではムードメーカーぶりが評価され、現状維持で更改した[7]

2019年は4月9日の楽天戦で「9番・三塁手」で初めて内野での先発出場を果たした。この年に一軍では初の一塁守備に就き、バッテリー以外の7ポジションを経験した。主に控えとして33試合に出場し、打率.267、2盗塁を記録した。

2020年は38試合に出場。12月1日、シーズン中に取得した国内FA権を行使した上で西武に残留することを発表した[8]

2021年6月10日の横浜DeNAベイスターズ戦では、新型コロナウイルス陽性で離脱していた源田壮亮の穴を埋めていた山田遥楓が胃腸炎でベンチを外れたため、2019年4月17日の楽天戦以来となる遊撃での先発出場を果たした[9]。コロナ禍や故障者続出というチーム事情もあり、この年だけで投手・捕手以外の7ポジションを守り[10]、代走と守備固めを中心に60試合に出場した。

2022年は、一軍では43試合の出場で打率.200、0本塁打、0打点に終わり、10月17日に球団から戦力外通告を受け、その後現役を引退した[11]

引退後

戦力外通告を受けた翌日の18日、2023年より西武の二軍外野守備・走塁コーチを務めることが発表された[12]。背番号は84[13]2025年より一軍外野守備走塁コーチに配置転換された[14]

選手としての特徴

俊足・強肩を誇る[1]。守備では内・外野全てのポジションを守れるだけでなく、緊急時に備えて捕手の練習も行っているユーティリティープレイヤー[15][16][17]。外野守備では球際の強さが武器[18]。打撃ではバットコントロールが良く、小技と粘り強さも武器である[1]。持ち味の一つである俊足を生かすため、2011年シーズンオフの秋季練習より本格的にスイッチヒッターへ転向すべく練習を開始した[19][20]が、2013年3月21日に両打ちから再び右打ちに登録変更された[21]

人物

愛称は「クマ[22]、「クマシー[23]

プロ入り当初は青々と剃り上げた坊主頭がトレードマークであり、その容貌から同僚からは「たこ焼き」と呼ばれていた[24]

2011年12月8日、今治西高時代の同級生と入籍したことが発表された[19][25]

明るくイジられやすい人柄であり、チーム屈指のムードメーカーとしてチームメイトからもファンからも親しまれている。熊代は「ムードメーカーはチームの役割の一つでもある思う。プレーで貢献できることが一番だけど、雰囲気を盛り上げたり、ベンチからの声出しで味方を鼓舞したり、プレー以外にもチームのためにできることがあると思う。だから、できる限りそういうことも率先してやりたい」と語っている[26]

2012年8月17日でお立ち台にあがった際、以前トークショーでやることを宣言していた「クマさんポーズ」(頭に握った両手を耳のようにのせるポーズ)を披露した。

2013年9月29日、長男が誕生。同日の対千葉ロッテマリーンズ戦に代走として途中出場、試合中に誕生を伝えられたという。試合は延長戦となるも、プロ入り後初めてとなるサヨナラ安打を放った。ヒーローインタビューの中で試合中に長男が誕生したことを自ら観客に報告した[27]

2016年6月2日、自身の出場は無かったものの治療によりヒーローインタビューを辞退した髙橋光成の「代打」としてお立ち台に上がり、高橋になりきってインタビューを受けた。また勝利時にサインを書くプレートやボールにも「こうな #17」と代筆した[28]

試合前の円陣では、自ら“訓示”と称したユニークなトークでチームメイトの笑いと闘争心をあおり、士気を高めることが恒例となっている[29][30]。2019年9月11日には辻発彦監督のお面をかぶってゲキを飛ばし、チームは勝利した。また、9月18日にはお笑い芸人オードリー春日俊彰のお面をかぶり、チームはまたも勝利。日々、声出しを担当する熊代は「本当にありがたい。全員分のお面をつくってほしいくらい」と球団に要望した[31]

詳細情報

年度別打撃成績

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O
P
S
2011 西武 8177646161001782042601200.250.315.266.581
2012 109133115143120033621121302301.270.298.287.584
2013 104999211222002464210600250.239.286.261.547
2014 46140115102541031611601900291.217.328.270.598
2015 3841363400043101130060.111.175.111.286
2016 28962100010012010020.167.286.167.452
2018 251096000000100010040.000.100.000.100
2019 3317155410050211010050.267.313.333.646
2020 3811102100010200010030.100.182.100.282
2021 60978200020111000110.286.375.286.661
2022 4314106200020014000040.200.200.200.400
通算:11年 6055604797310810101202916832441041292.225.290.251.540
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年度別守備成績

外野守備
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外野












2011 西武 7243020.956
2012 10299331.971
2013 8360421.970
2014 4064010.985
2015 36300001.000
2016 2590001.000
2018 11110001.000
2019 104010.800
2020 30220001.000
2021 2531001.000
2022 20111011.000
通算 454356993.976
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内野守備
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一塁二塁三塁遊撃手
















































2015 西武 ---113011.000
2018 -516011.000214011.000-
2019 120001.000111001.000812001.000433011.000
2020 130001.000-101001.000-
2021 1217111.947201001.00010000----958051.000
2022 22244011.000-103001.000-
通算 3646512.981828011.00013210011.00014914071.000
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記録

初記録

背番号

  • 58(2011年[4] - 2022年)
  • 84(2023年[13] - )

登場曲

脚注

関連項目

外部リンク

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