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1751-1818, 出雲松江藩の第10代藩主。江戸時代の代表的茶人の一人 ウィキペディアから
松平 治郷(まつだいら はるさと)は、江戸時代中期から後期の大名。出雲国松江藩の第10代藩主。雲州松平家7代。
松平不眛像(松江観光パンフレットより) | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 寛延4年2月14日(1751年3月11日)[1] |
死没 | 文政元年4月24日(1818年5月28日) |
改名 | 鶴太郎(幼名)、治郷、不昧(法号) |
戒名 | 大円庵不昧宗納大居士 |
墓所 |
東京都文京区大塚の護国寺 京都府京都市北区紫野の大徳寺塔頭孤篷庵 島根県松江市外中原町の月照寺 |
官位 | 従四位下侍従、佐渡守、出羽守、左近衛権少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 出雲国松江藩藩主 |
氏族 | 雲州松平家 |
父母 |
父:松平宗衍 母:歌木 |
兄弟 | 治郷、衍親、蒔田定静、五百、幾百 |
妻 |
正室:伊達宗村の9女・方子 側室:武井氏 |
子 |
斉恒、男子、富、幾千 養子:岡田善功 |
寛延4年2月14日(1751年3月11日)[1]、6代藩主・松平宗衍の次男[2]として誕生。
明和4年(1767年)、父の隠居により家督を継いだ。10代将軍・徳川家治からの偏諱と祖父・宣維の初名「直郷」の1字とにより治郷と名乗る。この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様(松江藩の藩主)は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。そのため治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みた。しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。これらの倹約、引き締め政策を踏まえ、安永7年(1778年)に井上恵助による防砂林事業が完成、天明5年(1785年)の清原太兵衛による佐陀川の治水事業も完了し、これらの政策で藩の財政改革は成功した。これにより空になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われる。
ただし、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」を始め、300両から2000両もする茶器を多く購入するなど散財した。このため、藩の財政は再び一気に悪化した(改革自体は茂保主導による箇所が大きく、治郷自身は政治に口出ししなかった)。
文化3年(1806年)3月11日、家督を長男・斉恒に譲って隠居し、文政元年(1818年)4月24日に死去した。享年68。墓所は松江市の月照寺。
弟・衍親(のぶちか)は、俳諧などをよくする趣味人の松平雪川として知られる。
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