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実家はサザンクロスCCのごく近くで、ゴルフ場に囲まれた地で育った[1]。伊東南中学時代は近所のゴルフ場でキャディのアルバイトをしていた[2]。
卒業後は川奈ホテルに入社し、キャディを勤めながら杉本英世に弟子入りしてプロを目指す[3]。その後は東京よみうりカントリークラブに移籍し、1963年にプロテスト合格[2]。1964年にプロデビューし[4]、1967年にグランドモナークで橘田規・島田幸作を破って[5]初タイトルを獲得して以降、直実に勝ち星を伸ばしていく[2]。
1968年の西オーストラリアオープンではピーター・タウンゼント(イングランド)、ビル・ダンクに次ぎ[6] [7]、1アンダー71の通算285でケル・ネーグルと並んでの3位タイ[8]に入った。オーストラリアン・オープンではジャック・ニクラス(アメリカ)、ゲーリー・プレーヤー(南アフリカ)に次ぎ、通算279で7位[9]に入った。
1969年にオーストラリアPGAで3日目に2アンダー70の好スコアをマーク、通算213で前日の3位から2位に進出し[10]、ブルース・デブリンに次ぐ2位に入る[11] [12]。ニュージーランド・オープンではネーグル、ジョン・リスター、ランドール・バインズに次ぎ、通算277[13]でモーリス・ベンブリッジ(イングランド)、フランク・フィリップスと並んでの4位タイ[14]に入った。
国内では1968年の第1回ロレックストーナメントで河野光隆・石井冨士夫を破って[15]初代チャンピオン[16]となり、1971年の西日本サーキット宇部では島田を破って優勝[17]。
1969年から1973年にかけては全日本プロダブルスを4勝し、第1回優勝と連覇を含む3勝(1969年, 1970年, 1973年)は師匠・杉本とのペア、1972年には尾崎将司とのペアで制覇[18]。
1972年のニュージーランドPGAでは初日からグリーンを外したのが1回という好調さで5バーディー、ボギー無しの66で首位タイに並び、最終的には通算15アンダーで地元のボブ・チャールズと並んで尾崎に次ぐ2位を記録[19] [20]。その後のアジアサーキットでも好調で、フィリピンオープンで杉本・謝永郁(中華民国)に次ぐ3位、シンガポールオープンでは河野高明と日本勢ワンツーの2位[21]に入る[22]。マレーシアオープンでマーティ・ボーエン(アメリカ)、ウォルター・ゴドフリー(ニュージーランド)、スクリー・オンシャム(タイ)を抑えて通算10アンダーでサーキット初優勝を果たす[23] [22]。マレーシアオープンでは、「最後まで勝てる気がしなかった」という村上を、先輩の杉本が「本当によかった」と祝福し[22]、香港オープンでもゴドフリーの2位と活躍[24]。
帰国後は日吉定雄・草壁政治と共に関東プロ協会制定の月例競技得点表でも4位以内を占め[25]、長野県オープンでは青木功をプレーオフで下す[26]。東北地方初の男子プロトーナメント「七夕杯・東北クラシック」[27]で初日を68の2位[28]でスタートすると、2日目には69で通算7アンダーの首位に上がる[29]。3日目には7番と10番でバーディを出しながらも16番と18番をボギーとして振り出しに戻すが、追い上げた尾崎将が最終ホールで自滅して首位を保った[30]。最終日はアイアンショットが決まらない苦しいゴルフであったが、前半3ボギーで優勝意識を捨てたことで気分が楽になり、17番までに3バーディを取って再び先行[31]。最終ホールでは左OBを警戒してスプーンで打った第1打がクロスバンカーに嵌るが、ボギーでも優勝できると思って7番アイアンで軽く打ち、グリーン手前まで持っていった[31]。ピンまで30ヤード余りをサンドウェッジで打った第3打はグリーンをオーバーし、4オン2パットのダブルボギーで草壁と並ぶが、3ホールのプレーオフを制して優勝[31]。
第20回大会となったワールドカップ日本代表にも初選出[32]され、団体戦では5年連続出場となった河野とのペアで呂良煥&謝敏男(中華民国)に次ぎ、ティーニー・ブリッツ&プレーヤー(南アフリカ)、ブルース・クランプトン&ダンク(オーストラリア)、ジム・ジェイミーソン&トム・ワイスコフ(アメリカ)を抑えての2位と健闘。個人戦では謝敏、河野、ブリッツに次ぎ、クランプトン・呂良と並んでの4位タイに入った。村上は大会初日、初めての大舞台にも臆することなく1アンダー70でホールアウトし、個人戦では首位タイの好スコアでスタート[32]。河野もイーブンパーの71にまとめ、日本は1アンダー141で、団体でも台湾とベルギーに3打差をつけて首位に立った[32]。ワールドカップでの首位は優勝した1957年以来で、2度目の快挙に向けて絶好のスタートを切ったが、翌日は悪天候で中止となり、大会は54ホールに短縮されることになった[32]。仕切り直しの2日目はインで苦戦して73にとどまり、河野もアウトで2アンダー33をマークするが、インでは3ボギーと崩れてこの日は1オーバーの72[32]。日本は通算2オーバーの2位に後退し、代わって首位に立った台湾は謝が69をマークして引っ張り、通算1オーバーで初めての世界一に王手をかけた[32]。最終日は強い風が吹き荒れて選手達は軒並みスコアを崩す中、風に強い台湾勢は踏ん張り、日本勢は大苦戦[32]。一時は台湾との差は8打にまで広がっていたが、台湾勢も徐々にスコアを落とし始める。個人戦でトップを走る謝が9番から6ホール連続でパーセーブにならず、残り2ホールとなったところで日本が台湾に並ぶ[32]。明暗が分かれたのが17番パー5で、台湾が呂良、謝敏と立て続けにバーディーを奪ったのに対して先にプレーしていた日本は2人ともにパーに終わっていた[32]。ここでついた2打差を18番で詰めることができず、河野は「17番で2人ともバーディーパットを逃したのが痛かった」と悔しがったが、大会史上初となるアジア勢の1、2位独占となった[32]。
1973年の札幌とうきゅうオープンでは最終日の2番ホールでホールインワンを決めるなど通算287で3位に入り[33]、日本シリーズでは初出場ながら初日に4アンダーで首位に立つなど健闘し4位に入った[34] [35]。月例競技では20パットをマークし、18ホール最少パット数日本記録を作った[36]。
1974年には『月刊パーゴルフ』で、戸田藤一郎が有望な若手選手をコーチする「戸田道場」という連載に登場し、村上は戸田からパッティングを教えられた[37]。
常に上位の常連ながら[38]、それまでは優勝に届かず「万年2位」などと囁かれたこともあったが[3]、1974年のゴルフダイジェストトーナメントで優勝して挽回[38]。
同年の中日クラウンズでは初日からアプローチとパットが冴え渡り、アウトで3バーディ、12番からは4連続バーディと7バーディ、ノーボギーという完璧な内容であった[39]。16番では1.5mのバーディチャンスを外し、コースレコードタイを惜しくも逸したが、63の好スコアで首位に立った[39]。2日目は5m前後の風が吹く厳しいコンディションで、ピン位置もバンカー際に寄せられているホールが多く、ホール攻略の難度が上がって各選手とも苦戦を強いられた中、71と1つスコアを落としながらも首位をキープ[39]。3日目は14番でグリーン左に外しボギーを叩き、前日首位に並ばれた尾崎に2打差を付けられた[39]。最終日には尾崎の崩れを前に、守りから攻めのゴルフに転換すると、16、17番で連続バーディを奪い、勝負を決めた[39]。アウトでは、5度もバンカーに入れながらいずれもリカバリーに成功し、1パット8回と「グリーン周りの魔術師」の本領発揮を見せつけて優勝[39]。
その後の日本プロ・オールスターも8アンダーで優勝[40]し、日本シリーズでは初日の6番でバーディーパットを決める[41]など好調で2位に入った[42]。
1975年、初めて海外で開催された日本のトーナメント「クイリマ&タカヤマ・クラシック」[43]に出場し、2日目には朝から15m前後の強風が海側から吹き荒れ、時折、南国特有の豪雨も混じる最悪のコンディションの中で7バーディー・3ボギーの68をマーク[44]。この日のベストスコアで首位の鷹巣南雄と1打差2位[44]に浮上し、3日目も好調で6バーディー・1ボギーの67とベストスコアをマーク[45] [46]。通算10アンダー206で首位に立ち、河野とペアを組んだダブルスでも猛烈な追い込みを見せ、二人合計7アンダーで10位から一気に2位タイ[45] [46]に浮上。最終日もそのまま首位を独走し[47]、2位の鈴村照男に4打差の11アンダーで逃げ切って優勝[48] [49]。
帰国後の5月に同年創設された日本プロマッチプレーに優勝して初代チャンピオンになると同時に初の日本タイトル獲得で調子に乗ると[50]、9月には日本オープンを最終日に66を出して勝ち[50]、10月にはプレーオフの末に日本プロ優勝、11月には日本シリーズをも制して空前絶後の日本タイトル4試合を1年間で制覇する"日本4冠王、年間グランドスラム"という現在でもただ一人の快挙を達成し、3870万円余で同年の日本男子プロゴルフツアー賞金王[50]に輝いたが、グランドスラム達成という快挙を一面トップで扱った新聞は無かった[51]。村上は「来年が怖い」と言いながらも喜びを爆発させ、優勝賞金の半分250万円を社会福祉施設に寄付[51]。
長打力はないが、持ち味のパッティング、アプローチを最大限に生かした堅実なゴルフで金字塔を打ち立て[2]、「日本のビッグ・ワン」と言われた[52]。
日本プロマッチプレーはストロークプレーの予選を18位で通過し、1回戦で予選2位の安田春雄と対戦[53]。コンシードをせず、心理戦を制し、安田が自滅[53]。2-1で勝つと、2回戦は謝敏に19ホール1アップと接戦をものにし、3回戦では島田を2-1と撃破[53]。準決勝は後に「マッチの鬼」の異名をとった青木であったが、波に乗って3-2で制し、決勝へと進む[53]。鷹巣との決勝では2番パー3で共にグリーンを外したが、30cmに寄せ、鷹巣は1.5mのパーパットを外して1アップ[53]。以後はリードを許さず、9番で12mのパーパットを沈めて分けるなど、得意のアプローチ・パットが冴えた[53]。2アップで迎えた17番パー3でボギーとして1アップで最終18番、鷹巣は左に大きく曲げて木の支柱の下へ行く。救済措置を取らずに強引に出したが木に当たって後ろに跳ね返り、結局4オンで既に2オンしていた村上にギブアップし、村上が初の公式戦タイトルを手にした[53]。
日本オープンでは初日74を叩いて55位と出遅れたが、2日、3日と69で回り、首位石井裕士に1打差の通算4アンダー2位まで上がった[53]。パターに悩んで3日目には2種類のパターを使い分け、最終日は古い蒲鉾型のパターを引っ張りだし、4番で初バーディーを取ったが、石井は4番までに3バーディーで一時3打差と広がる[53]。7番で石井が右の林に入れてダブルボギー、このホールで2mにつけるバーディーで通算6アンダーに追いつく。後半は10番から4連続バーディーで一気に抜け出し、この日6アンダー66で通算10アンダーとし、この大会初優勝を果たした[53]。
日本プロでは初日を首位に2打差4位の好位置でスタートし、2日目には得意の2、3mのパットが決まり、6バーディー、2ボギーの68をマークして通算7アンダーで首位に立つ[53]。朝から雨が降り続いた3日目にはボギーが先行したが、こらえて2つスコアを伸ばし、通算9アンダーで首位を守った[53]。最終日は上位陣がいずれもスコアを落とし混戦になり、村上も通算6アンダーで、最終18番バーディーの山本善隆に追いつかれてプレーオフに突入[53]。16番から3ホールの合計ストロークで争われ、村上は16番でバーディー、これが効いて3冠目を手中に収めた[53]。
日本シリーズでは開幕直前に新聞記者から初の年間グランドスラムがかかっていることを聞き、村上は後に「プレッシャーを感じて大会を迎えた。」と振り返っている[3]。大阪よみうりCCでの前半2日間を4アンダー2位で[53]、10年間所属して知り尽くした東京よみうりCCで得意のショートアイアンとパットの冴えを見せてスコアを伸ばした[50]。第3日には1つスコアを伸ばし、首位金井清一に1打差2位に付けた。最終日、アウトで1つスコアを伸ばした金井を12番までに3バーディーの島田が追い抜いていく中、パーを重ねてじっとチャンスを待った[53]。14番で金井が、16番では島田が落とした後、16番で3mを入れるバーディーで勝負のパッティングを決めきった[53]。
同年には3年ぶりにワールドカップ日本代表へ選出され、団体では島田とのペアでルー・グラハム&ジョニー・ミラー(アメリカ)、謝敏&郭吉雄(中華民国)に次ぎ、ボブ・シアラー&イアン・スタンレー(オーストラリア)、フアン・カブレラ&ホルヘ・ソト(アルゼンチン)、ベン・アルダ&エレウテリオ・ニーバル(フィリピン)を抑えての3位、個人でもミラー、アルダ、謝敏、シアラー、ルー・グラハムに次ぐ6位と健闘。青木・尾崎の「AO時代」から「AOM時代」と呼ばれる一時代を築き[3]、切れ味の良いショットと小気味の良いパットが身上であった[52]。
1976年にはR&Aから正式に全英オープンの招待状を受け取るが、出場を断った[54]。マスターズには初めて招待され、大会1週間前には現地入りし、ニクラス・尾崎将と練習ラウンドを行った[55]。初日は緊張から出だしは連続ボギーとし、その後は立ち直ったが74で37位[55]。2日目には71と持ち直して18位に順位を上げたが、TBSが初めて衛星生中継した決勝ラウンドは3日目に80とスコアを崩し、最終日も1オーバーの73、トータル298で37位に終わった[55]。初の衛星中継では、村上の18番セカンドショットが20秒だけ映った[56]。
ワールドシリーズでは初日は2番パー5でイーグルを奪うなど3アンダー67で、デーブ・ヒル(アメリカ)と並んで記念すべき第1回大会の初日に首位に立ってみせた[57]。2日目は72で5位に後退するが、3日目は70にまとめ、通算1アンダーはヒューバート・グリーン(アメリカ)と並ぶ2位となる[57]。最終日は3日目3アンダー首位のニクラス・グリーンの最終組のひとつ前でプレーし、4番でニクラスがダブルボギーを叩いた時点では首位タイに浮上[57]。ここから大きく崩れて77、通算6オーバーの9位にまで順位を下げたが、世界一決定戦で優勝争いを演じた衝撃は大きかった[57]。同年までにアメリカツアーにはワールドシリーズを含む13試合に出場したが、食事も現地食を苦にすることは無かった[58]。
2年連続選出となったワールドカップでは個人がエルネスト・ペレス・アコスタ(メキシコ)、ブライアン・バーンズ(スコットランド)、デール・ヘイズ(南アフリカ)、郭吉、サイモン・オーウェン(ニュージーランド)、ジェリー・ペイト(アメリカ)、マニュエル・ピネロ(スペイン)に次ぎ、エイモン・ダーシー(アイルランド)、ボブ・シアラー(オーストラリア)と並ぶ8位タイに終わった。団体では山本とのペアでセベ・バレステロス&ピネロ(スペイン)、ペイト&デイブ・ストックトン(アメリカ)、郭吉&許勝三(中華民国)、バーンズ&サム・トーランス(スコットランド)に次ぎ、アコスタ&マルガリート・マルティネス(メキシコ)と並んでの5位タイに入った。海外での活躍も評価され、第1回報知プロスポーツ大賞・男子ゴルフ部門を受賞。
国内では体調を崩し[59]、不振を極めていたが、全日空札幌オープンでは最終日6位スタートながら、12番ホールでイーグルを出すなど67の好スコアをマーク[60]。上位が崩れたこともあって通算20勝目を達成するが、2位には尾崎、3位には青木とAOM揃い踏みとなった[60]。
関東プロでは午後から降り出した雨と深いラフで他選手がスコアをまとめるのに苦労する中、初日を早くスタートし、4アンダ―67でリード[61]。2日目に5バーディー、ノーボギーの66で通算9アンダー133とスコアを伸ばし、首位を保った[62]。3日目も1アンダー70でまとめ、通算203で首位を堅持[63]。最終日は3アンダーを目標にプレーし、スタートの第1打を右のラフに入れてアンプレアブルしてボギーとなり、2位の謝永に1打差に迫られたが、謝永がバーディを取れないうちに6、7番で連続バーディを取って差を広げる[59]。10番でも10m余りを沈めてバーディ、続く11番でも7mのバーディパットを入れて呆気なく勝負をつけ、5バーディ、1ボギーの安定したプレーを見せて通算14アンダー270で優勝[59]。スコアの計算しにくいコースで波乱も予想された大会で他を寄せ付けず楽勝し、自身初の初日から首位のまま逃げ切った優勝となった[59]。大会1ヶ月前には「どう打っていいのか分からない」と言っていたが、大会後には「昨年の最高時に戻った」と話し、師である浅見緑蔵も「体も技術も今が最高」と村上を褒めた[59]。
ブリヂストンオープンでは草壁・謝敏との混戦のプレーオフ[64]で3ホール18番目に草壁を降して優勝し[65]、3勝を挙げて賞金ランク2位に終わる[53]。
1977年のハワイアンオープンでは初日73で66位と不振な出足であったが[66]、2日目には快進撃を見せる[67]。1番パー5で2オンしてバーディーを奪ったのを皮切りに10バーディーを決めて、ボギーは16番の1個だけで、9アンダー、コースレコードタイの63[68]という快スコアをマーク[67]。2日間通算8アンダーとして首位のドン・ジャニュアリーから僅か1打差の2位まで急上昇し、一気に優勝争いに加わる[67]。初めから優勝は狙わなかったが、絶対5位以内に入ろうと心に決めた村上は、トム・ワトソンらが攻めのゴルフを展開する中でもマイペースを守る[68]。最終組で回った3日目も落ち着いたプレーでスコアを1つ伸ばし、通算9アンダーは3打差4位と依然優勝圏内となり、最終日、最終組のひとつ前でプレーした村上は安定したショットできっちりとグリーンを捕えていく[67]。7番と13番でバーディーパットを決めて通算11アンダーで首位を追り、18番パー5を迎えた時には最終組で回る首位のブルース・リンツキーとの差は2打であった[67]。1打目、2打目とバンカーを渡り歩いたが[58]、バンカーからの3打目をピン手前[58]3mに乗せてバーディーパットを沈める[67]。遂に首位とは1打差となるが、最後はリツキーがイーグルを決めて突き離される[67]。パーでも単独3位となれたが[58]、強めに打たれたボールは真ん中からカップに沈み[58]、通算12アンダーの276[68]でジャニュアリーと並び堂々の2位に入る[67]。当時の日本人プロのアメリカツアー遠征で最高の2位入賞を果たし、世界的にもショートゲームの第一人者として名声を博す[1]。日本のゴルフファンだけでなく、ハワイの日系移民を大喜び[68]させ、帰国時には羽田空港で夫人の出迎えを受けて笑顔を見せた[69]。
ハワイ2位の自信を持って挑んだマスターズ[58]は攻めたが[68]、初日の3番パー4をボギーとしてから崩れ、6オーバーの67位と出遅れた[58]。2日目は1オーバーであったが、通算7オーバーの57位で予選落ちした[58]。
1977年のゴルフダイジェストトーナメントでは初日を謝敏・矢部昭・宮本省三と共に戸田の2位タイ[70]でスタートし、2日目には6バーディ、ノーボギーの66と好スコアをマークして通算8アンダー136の首位に立った[71]。3日目にはインに入ってドライバーが乱れても、その度に絶妙なリカバリーで切り抜け、17、18番はトラブルの後にバーディをさらって同伴の尾崎将・謝敏にプレッシャーをかける[72]。絶妙な寄せと鮮やかなパットで7バーディ、2ボギーの67、通算13アンダー203で2位の尾崎将に6打差を付ける独走態勢に入った[72]。最終日も首位を保ったまま、尾崎将を振り切って同大会2勝目を挙げた[73]。
国内では1勝に終わり、同年を最後に、持病の腰痛もあってツアー優勝はなくなった[53]。
1982年の静岡オープンでは初日を羽川豊・船渡川育宏・呂良と並んでの2位タイ[74]でスタートし、2日目には呂良・倉本昌弘と並んでの4位タイ[75]、3日目には5バーディー、2ボギー、1ダブルボギーと荒れながらも1アンダー71で船渡川・河野と並んでの首位タイに浮上[76]。カムバックを狙ったが、最終日には19位に終わった[77]。
1985年には中日クラウンズでウィリー・ウッド(アメリカ)と並んでの10位タイ[78] [79]、東北クラシックで安田・牧野裕・新関善美・出口栄太郎、ブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)と並んでの7位タイ[80]に入った。
1985年の関東プロでは初日を4位[81]でスタートし、2日目には青木と共に首位の中嶋常幸と1打差2位タイ[82]に着け、最終日には飯合肇・藤木三郎と並んでの5位タイ[83]に入った。
1986年には静岡オープンで金井・山本善と並んでの4位タイ[84]に入るが、これが最後のレギュラーツアーでの十傑入りとなった。
1988年のCITICORP OPENでは初日に69をマークして鈴木弘一・寺本一郎・加瀬秀樹・植田浩史と並んでの4位タイ[85]でスタートし、2日目にも69をマークして新井規矩雄と並んでの5位タイ[86]に終わった。
1980年代にはサンケイスポーツ評論家[3]、TBS解説者(1989年8月 - 1999年11月)[87]を務め、1990年の関東プロ[88]を最後にレギュラーツアーから引退。
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