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中世の瀬戸内海で活動した水軍 ウィキペディアから
村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海[1]で活動した水軍(海賊衆)。芸予諸島の島に本拠を持った因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏の三家で構成され、これらは「三島村上氏」と呼ばれる[2]。三島村上氏は同族意識を持ちながらも、それぞれ独自に活動を行った[2]。代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。
彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されている。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は輸送、航行船の破壊・略奪や信書の開封・破棄等を通じた同盟関係の分断、それらを行わずに安全を保障する代わりに、芸予諸島の海峡を関所(札浦)に見立てた通航料の徴収である。平時は漁業にも従事した[3]。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている[4]。
なお、2016年(平成28年)4月25日、日本遺産 第二期の19箇所の一つとして「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」として認定された。村上水軍が活躍した今治市本土と尾道市本土と芸予諸島に42項目の遺産対象がある[5]。
これら三つの村上家の起源ははっきりしないが、もともとは一つの家であったという。その起源として最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。平安時代末期に活躍した村上為国の弟・村上定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の永暦元年(1160年)に越智大島[6] に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。
越智大島を始め伊予国(現在の愛媛県)各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの神社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。
また能島村上氏の系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としている。因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。また信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男源頼清が村上天皇の皇子為平親王の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとする、よく似た説が伝わっている。その他に、伊予越智氏の庶流との説もある。
この他、村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる城跡や舟隠し跡などが残されている。
因島村上氏は向島や因島を本拠とした一族である[7]。史料上の初出は応永34年(1427年)であり、将軍・足利義持が赤松氏討伐への出兵に対して、村上備中入道吉資に宛てた感状である[7]。
15世紀中頃には伊予国守護の河野氏に協力して佐礼城(現今治市玉川町)を攻撃している[7]。また、備後国守護の山名時熙からは遣明船の警固を命じられている[7]。その後は山名氏や大内氏、ついで毛利氏との関係を強めた[2]。
来島村上氏は来島を本拠とした一族である[7](来島城も参照)。史料上の初見は応永11年(1404年)で弓削島荘(現愛媛県上島町)の経営を請け負っている[7]。
戦国時代になると村上通康が河野氏の配下となったが、その子の来島通総は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の勧誘を受けて河野氏から離反した[7]。その後、通総は一大名として小田原合戦や文禄・慶長の役などにおいて海上で活動したが、慶長の役の鳴梁海戦で戦死した[7]。
能島村上氏は能島とその周辺を本拠とした一族である[7]。史料上の初見は貞和5年(1349年)で伊予国弓削島の荘園領主である京都東寺の使節の警固を務めている[7]。
能島村上氏は他の二家とは異なり、特定の大名家の支配下で水軍となることはせず、駄別料(通行料兼警固料)を徴収する代わりに通航の安全を保障するという海上支配権を維持しながら独自の姿勢を貫いた[2][7]。
能島村上氏が陸の諸大名側の船舶に対して、通行料免除と安全通航を保障する代わりに、その領国内の港に「札浦」を置いて海上通航の商船から通行料を徴収する関係が成り立っていた[2]。そのため特定の大名に積極的に加担して、敵方の大名の領国内にある札浦を失う事態を避けていた[2]。
ただ、毛利水軍の一翼を担ったこともあり、1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いでは織田勢を撃破している[7]。
しかし、豊臣秀吉が天下を取ると、長崎の直轄化による外国貿易の独占を図るため、天正16年(1588年)に海賊停止令を出すなど厳しく取り締まったためその基盤は失われた[2][7]。
来島村上氏では通総の戦死後、長親(のちに康親)が跡を継いだが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、l豊後国の内陸部の森(森藩)に転封となった(2代目藩主の通春は「久留島」に改姓している)[7]。久留島家の所領だった大分県別府市や日出町の一部を通じて、かろうじて海とのつながりは保ったという[7]。
因島村上氏と能島村上氏も関ヶ原の戦いでは西軍につき、その後は毛利氏の家臣団に組み込まれた[7]。二家は萩藩の船手組に編成され、藩主の御座船の警護、朝鮮通信使の曳航、漂流船への対処などに当たり、特に能島村上氏は船手組の頭を江戸時代の約250年にわたり務めた[7]。
(村上師清?義胤?) ┃ 義顕 ┃ 雅房 ┃ 隆勝 ┣━━┳━━┓ 義雅 義忠 隆重 ┃ ┃ ┃ 義益 武吉 景広 ┏━━┫ 元吉 景親 ┃ ┃ 元武 元信 ┃ <長州藩士家> 就親 ┃ (略) ┃ 就庸 ∥ 某(佐佐木就清の子) ∥? 惟庸(兼助)(右田毛利房顕の次男) ┃ 毛利親信(右田毛利家を継ぐ) ┃ 藤枝
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