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日本の政治家 ウィキペディアから
我堂 武夫(がどう たけお、1904年〈明治37年〉7月27日[1] - 1984年〈昭和59年〉4月15日[1])は、日本の政治家。大阪府堺市長(第15代)。1976年(昭和51年)、堺市の政令指定都市移行を目標として発表([2]移行は2006年〈平成18年〉)。行政改革や財政再建と都市再開発を進め「名市長」と呼ばれた[3]。
堺市出身[1]。大阪府立堺中学校(旧制中学校。現大阪府立三国丘高等学校[4])、1930年(昭和5年)九州帝国大学(現九州大学)法文学部を卒業[1][5]。
帝塚山学院講師を経て[6]1936年(昭和11年)堺市役所に入った[1]。堺市の助役[1][5]などを経て、1972年(昭和47年)10月に浪速医科大学(仮称、不認可)をめぐる詐欺・横領で堺市長(第14代)を辞職した土師半六の出直し選挙に出馬し、第15代の市長に当選した。市長は3期務め、1984年(昭和59年)、3期目の任期満了前の1月に健康問題により、辞職。同年4月に死去した。
前々任で第13代市長の河盛安之介が、人口30万人台の1961年に発表した堺市「100万都市構想」について、市長として具体化させ整備。1976年に政令指定都市昇格を目指す構想として正式に発表した[2]。同年、泉北ニュータウン入居も始まり堺市の人口は急増し1983年に80万人を突破。2005年(平成17年)に美原町と合併し、翌2006年に政令指定都市に移行している。
市長として在任中の主な政策として、1969年から1973年にかけ60%台の財政力指数が一挙90%台と経常収支比率が上がった際、助役に田中和夫(のちの第16代市長)を据え行財政の見直しに着手[7]。
行政改革・財政再建と並行して、都市力の向上のため都市再開発にも注力した。市内で最古1888年(明治21年)開業で、かつては市の代表駅とされた南海電気鉄道南海本線の「堺駅」の西口地区(第一種市街地)に都市ホテル(リーガロイヤルホテル堺。現ホテル・アゴーラ リージェンシー堺)や商業施設・都市型住宅(ポルタス堺)を建設。かつての中心地旧・堺港地区の大浜公園などの再開発事業(ハーバーライト21構想[8][9])を推進。市南部でも大阪府立大学のある中百舌鳥地域を副都心として整備[10]を進める一方、ソフトウェア面でも東京都に東京事務所の設置を進めた[11]。
市長として在任中、堺市は1983年3月25日、「非核平和都市」を宣言[12]。同年12月3日に中華人民共和国の連雲港市(東部湾岸江蘇省にある市)との間で友好都市(姉妹都市)提携を締結している[13]。
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