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日本の第14代天皇 ウィキペディアから
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は、日本の第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。『日本書紀』での名は足仲彦天皇。日本武尊の子で神功皇后の夫。通説では実在性の低い天皇の一人に挙げられる[1][2][3][4][5]。
大足彦天皇(景行天皇)皇子である日本武尊の第二子。母は活目天皇(垂仁天皇)の皇女の両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。稚足彦天皇(成務天皇)の甥。成務天皇48年に立太子。先帝が崩御した2年後に即位。即位2年、気長足姫尊を皇后とした(神功皇后)。これより前に妃としていた従妹の大中姫命との間に麛坂皇子・忍熊皇子を得ている。再叛した熊襲を討つため親征し穴門豊浦宮に滞在。即位8年、筑紫の橿日宮に至るも熊襲との戦いに敗れる。即位9年には親征先の筑紫で崩御。熊襲の矢に当たったともされる。その10カ月後、皇后が誉田別命(応神天皇)を生んだ。
漢風諡号である「仲哀天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。なお、門脇禎二によれば、諡法においては「仲」の字は配すべからざる語であり、漢風諡号としては異例であるとされる[6]。
容姿端正、身長一丈(3メートル)[7]。『日本書紀』によれば、叔父の稚足彦天皇(成務天皇)に嗣子がなく成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。
皇太子13年を経て先帝崩御二年後の1月に即位。白鳥となって天に昇った父の日本武尊(景行天皇41年に30歳で死去)を偲んで諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺した。
即位2年1月11日、気長足姫尊(成務天皇40年誕生)を立后(神功皇后)。
同年2月、角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。同月、淡路に屯倉を設ける。3月、紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)へ。同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始。6月、穴門の豊浦津へ至る。
即位8年、熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴き、神懸りした皇后から託宣を受けた[注 1]。それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、この神は偽物ではないかと疑った。祖先はあらゆる神を祀っていたはずであり、未だ祀ってない神はいないはずでもあった。神は再度、皇后に神がかり「おまえは国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した。これを無視して構わず熊襲を攻めたものの空しく敗走。
即位9年2月、急死して神の怒りに触れたと見なされた[6]。『日本書紀』内の一書(異説)や『天書紀』では熊襲の矢に当たり、橿日宮(訶志比宮、現香椎宮)で崩御したとされる。遺体は武内宿禰により海路で穴門(穴戸、現在の下関海峡)を通って穴門豊浦宮(現下関市長府)で殯された。下関市長府の日頼寺に宮内庁が管轄する「御殯斂地」がある。
10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[8]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
『日本書紀』では行宮のみが記される。即位2年2月に先帝の志賀高穴穂宮を出て角鹿の笥飯宮(けひのみや)に滞在。3月に紀伊国で徳勒津宮(ところつのみや)に滞在。6月から熊襲を討つため穴門豊浦宮に滞在。即位8年、筑紫橿日宮に滞在。『古事記』では以下の2つが宮とされるが、いずれも『日本書紀』では行宮である。
陵(みささぎ)の名は恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)。宮内庁により大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある遺跡名「岡ミサンザイ古墳」に治定されている。墳丘長242メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円。
『古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」、『日本書紀』には「河内国長野陵」とある。『延喜式』諸陵寮には「兆域東西二町、南北二町、陵戸一烟、守戸四烟」と見える。岡ミサンザイ古墳は幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[8]。
熊襲征伐の際、熊鰐という者が周芳の佐波(山口県防府市佐波)で天皇を出迎えた。船首には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊が掛かっていた。豊浦津から筑紫に入る天皇に熊鰐は六連島、藍島、逆見海といった魚や塩がとれる海域を献上して水先案内を行った。しかし山鹿岬から岡浦の水戸(みなと)に入ったところで船が進まなくなってしまった。熊鰐に聞くと、この浦のほとりにいる大倉主、菟夫羅媛(つぶらひめ)という男女の神の意志だという。そこで菟田出身の伊賀彦という舵取りに祭らせると船は無事進んだ。後から来た皇后もまた船が進まず熊鰐が導いた。これらの功から熊鰐は岡県主となった。
また天皇が筑紫に入る際に五十迹手(いとて)という者が穴門の引嶋で出迎えた。周芳の熊鰐のときと同じく船主には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝には十握剣が掛かっていた。八尺瓊は智謀、白銅鏡は見識、十握剣は武力を象徴していると説明された天皇は五十迹手を「伊蘇志(いそし)」「よくやった」と褒めたたえた。そこで五十迹手の治める国を伊蘇国といい、訛って伊都国という。その後、天皇は無事に灘県に到着して橿日宮を造営した。
賢木(榊)に神器を掲げて貴人を出迎える事例は景行紀にも書かれている。熊鰐と同じく周芳の佐波で天皇を出迎えた神夏磯媛(かむなつそひめ)の船首には磯津山(しつのやま)の賢木が立てられており上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊が掛かっていた。神代にも天岩戸に籠る天照大神を呼び出すため太玉命と天児屋命が天香久山から眞坂樹(まさかき)を掘り出して上枝に八坂瓊、中枝に八咫鏡、下枝に和幣を掛けたという話がある。
『古事記』によると息長帯日売命(神功皇后)が神がかったとき、天皇は琴を弾き建内宿禰は神の言葉を受けた。皇后は西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託を告げた。しかし天皇はこれを疑い琴を弾くのをやめてしまった。神はとても怒り天皇へ死を宣告した。建内宿禰は恐れおののき琴を弾き続けるように奏上した。天皇は渋々従ったものの、そのうちに琴の音が聞こえなくなった。灯りをつけると天皇は崩御していた。
急遽、穴門豊浦宮で殯が行われた。『日本書紀』では密かに行われたものであるが『古事記』によると大祓(おおはらえ)という大々的なものだった。「生剥、逆剥、阿離[注 2]、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚の罪を様々に求めて祓った」とある。このうち生剥から屎戸までは神代に素戔嗚尊が天上で犯した罪、すなわち「天津罪」(天つ罪)と同じである。上通下通婚は近親相姦、馬婚から犬婚は獣姦で、「国津罪」(国つ罪)の一部である(「天つ罪・国つ罪」を参照)。神の意志に逆らった天皇の葬儀にこのようなものが集められ祓われた。
『日本書紀』の仲哀天皇に関する記述を歴史的事実と認める戦前の研究では、仲哀天皇の時代は4世紀に該当するとされていた[9]。若井敏明著「邪馬台国の滅亡」吉川弘文館発行では、仲哀天皇9年は西暦367年と推定している。
しかし戦後の通説では実在性の低い天皇の一人に挙げられる[1][2][10][4][5]。実在性の低い天皇の一人に挙げられている最大の根拠は伝説的な父(日本武尊)と妻(神功皇后)を持つためである。
非実在説の概要は以下のとおりである。
上記の説には以下の疑問点及び反論がある。
吉井巌や井上光貞のように、仲哀天皇が実在しないという前提のもと、応神天皇を仲哀天皇の子ではなく、崇神天皇系の皇統の女性を娶った入婿であるという系図を復元する論者もいる[17]。佐伯有清は景行天皇 - 五百城入彦皇子 - 品陀真若王 - 仲姫命が本来の皇統であり、応神天皇は仲姫命の入婿だとしている[18]。
『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年(362年と推定される)の六月十一日に崩りましき」とある。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると父の日本武尊の崩御後38年目に生まれたこととなり矛盾する。また仲哀天皇元年条には父が崩御したとき弱冠(二十歳)に達していなかったという記述がある。日本武尊の崩御が景行天皇41年のため、仲哀天皇の生年は景行天皇23年から景行天皇41年の間になる。
神仏習合において仲哀・神功・応神の三尊で本地を阿弥陀如来とするとされるが、『鶴岡八幡宮記』に「仲哀天皇ハ本地ハ藥師ナル故ニ奉レ除レ之」として単独では薬師如来の化身とされた[19]。
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