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三重県度会郡南伊勢町の地名 ウィキペディアから
五ヶ所浦(ごかしょうら)は、三重県度会郡南伊勢町の地名。2015年10月1日現在の面積は4.828243163km2[WEB 1]。一般に「浦」を省略して五ヶ所と呼ばれている。
五ヶ所湾沿岸および南伊勢町の中心的な地区である。
南伊勢町東部、旧南勢町のほぼ中央に位置する。五ヶ所湾の湾頭に位置し、水産業の面で湾全体を取り仕切るのに都合が良い場所である[1]。河口の小さな三角州上に集落が開ける[2]。集落の中心には三重交通の五ヶ所バスセンターがあり、商店街が形成されている[3]。
北西は伊勢路、北東は切原、東は飯満(はんま)、南西は中津浜浦、西は船越と接する。南側は海に面している。海側では毎年春に大潮で広大な干潟が出現し、三重外湾漁業協同組合(旧くまの灘漁業協同組合)の主催で稚貝を放流し、潮干狩りができたが、2014年現在アサリの生育が不良で潮干狩りはできなくなった[WEB 7]。
産業としては、ミカン(五ヶ所みかん)の栽培、海苔や鯛の養殖が盛んであり、伊勢志摩国立公園の一角として、旅館や民宿も多い[4]。
獅子島にはハマジンチョウが自生し、本州では唯一の生育地となっている[WEB 8]。「獅子島の樹叢」の名称で1955年(昭和30年)4月7日に三重県指定天然記念物となった[WEB 6]。
五ヶ所浦では、岩崎遺跡からチャートや讃岐岩(サヌカイト)でできた剥片が出土しており、旧石器時代のものと考えられている[5]。地区の東部では、縄文時代の遺跡群や貝塚も見つかっている[6]。町立南伊勢病院付近にある岡山下(しゅんど)貝塚は、約1mの厚さがあり、石棒や石斧、土器が出土したと伝わるが、現存しない[7]。また、同病院増築の際には弥生土器が2つ見つかった[8]。
古代から少なくとも室町時代中期頃までは志摩国英虞郡に属していたが、後に伊勢国度会郡へ編入された(詳細な時期は不明である)[9]。
中世の史料『法楽寺文書紛失記』や『釈尊寺手継案』によれば、当時は「五箇瀬」・「五ケ瀬」(ごかせ)と呼ばれていたようである[6][10]が、宝徳3年10月(ユリウス暦:1451年10月)に「五ケ所」の表記が出現し、以後はこの名称で定着する[10]。この頃、南北朝時代に南朝方についた愛洲氏が、五ヶ所浦北東の小高い丘の上に五箇所城を築いていた[6][10]。五箇所城は天正4年(1576年)、北畠氏の攻撃を受け落城、城主の愛洲重明は志摩国迫子(現在の志摩市浜島町迫子)まで逃げた後、自害したと伝えられる[11]。ただし、五箇所城と愛洲氏の関係に関しては、史料不足のため不明な点が多い[12]。五箇所城の落城後は北畠氏の配下となり、田丸中務の弟・虎熊が五ヶ所に入り統治したとされる[13]。
江戸時代には伊勢国度会郡慥柄組(たしからぐみ)に属した。初期の頃は田丸藩領で、元和3年(1617年)に津藩へ、元和5年(1619年)に紀州藩田丸領へ変遷した。当初は五ヶ所村だったが、後に農業主体の東部(山方)は「五ヶ所村」、農業に加え漁業も営む西部(浦方)は「五ヶ所浦」を名乗り、分裂した[6]。
山方の五ヶ所村は、地形の制約で大規模な新田開発はできず、薪を作ったり、江戸に奉公に出たりする者があった[6]。主な産物に茶やタバコがあった[10]。湾奥という立地上、津波の被害に遭っており、宝永4年(1707年)には72戸のうち63戸が被災し、安政元年(1855年)には死者1名、流失30軒などの被害を受け、山際へ移ることとなった[6]。
浦方の五ヶ所浦は、湾奥に位置したため、海域上の争いが絶えず、延宝2年(1674年)に隣村の仲立ちで木谷村・下津浦との間で調停が成立した後も争いは繰り返された[6]。この地には寛永16年8月(グレゴリオ暦:1639年8月)に紀州藩が御番所を置き[14]、牟婁郡錦村(現在の度会郡大紀町錦)までの浦村の巡検を行っていた[6]。文化2年5月5日 (旧暦)(グレゴリオ暦:1805年6月2日)、英虞郡南張村(現在の志摩市浜島町南張)から海岸線に沿って伊能忠敬の測量隊が訪れ、医王寺で2泊した[15]。安政2年(1855年)には南番所に台場を設け、有事の備えとした[6]。『棟花』によれば、砲の口径は約75cm、射程は約1kmだったという[16]。
1875年(明治8年)、山方の五ヶ所村と浦方の五ヶ所浦が統合し、五ヶ所浦となる[6]。1879年(明治12年)に伊勢路山入会地問題が解消、1882年(明治15年)には下津浦や木谷村との海面問題が裁判に持ち込まれ、勝訴した[6]。1889年(明治22年)には周辺4村と合併し五ヶ所村五ヶ所浦となり、村役場が置かれ、1890年(明治23年)には剣峠を越えて度会郡宇治山田町(現在の伊勢市)に至る街道(現在の三重県道12号伊勢南勢線)が開かれ、村の中心としての機能を持った[6]。この頃には主産業が茶の栽培から養蚕に変化した[6]。
明治時代も末になるとウンシュウミカンが持ち込まれて栽培が盛んになり、1907年(明治40年)には御木本真珠が五ヶ所湾に進出するなど産業構造が変化した[6]。特に御木本真珠は昭和初期に真珠養殖の本拠地を五ヶ所浦小字野添に移し、最盛期の1930年(昭和5年)頃には五ヶ所村の就業人口の6割が御木本真珠で勤めるに至った[6]。こうした中、五ヶ所村は1940年(昭和15年)に町制を施行し五ヶ所町となるが、基幹産業の真珠養殖は第二次世界大戦の影響で衰退した[6]。
代わって三井財閥傘下の三井木船建造が1943年(昭和18年)7月8日に進出した[17]。三井木船建造の進出によって五ヶ所浦の工業従事者は急増した[17]。一方で、機銃掃射や爆弾投下など空襲の標的ともなった[6]。また、1944年(昭和19年)の昭和東南海地震に伴う津波によって前田の堤防が流失し、大きな被害をもたらした[6]。
第二次世界大戦後は御木本での勤務経験を経た人々が真珠養殖に乗り出し、1953年(昭和28年)の台風13号、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風、1960年(昭和35年)のチリ地震による津波など幾多の困難を乗り越えたが、1967年(昭和42年)頃より下火になっていった[18]。真珠養殖業者はタイやハマチの養殖に転換、あるいは水産業から撤退して民宿や土産物店など観光業に移行するなど最盛期の4割の事業者が消滅した[19]。五ヶ所みかんの栽培は1960年代の大規模なパイロット事業によって増産体制が敷かれた一方、伊勢市の市場で評価を高めた「五ヶ所小梅」の生産量も増し、1981年(昭和56年)には1aあたりの収益は五ヶ所みかんを凌ぐものとなった[20]。
工業部門では、戦中に進出した三井木船建造が1946年(昭和21年)の大火を期に操業を停止したが、当時の五ヶ所町長を始めとする地元有志が1950年(昭和25年)6月28日に株式会社五ヶ所湾造船鉄工所を設立して造船を続け、1954年(昭和29年)1月5日に宇治山田市大湊町(現在の伊勢市大湊町)の株式会社西井造船所に売却された[21]。西井造船所は1962年(昭和37年)7月10日に西井船渠株式会社となり1973年(昭和48年)には中華人民共和国から999tの冷凍船の建造を受注するなど大きく成長したが、ドルショックやオイルショックを乗り切れずに廃業、町の過疎化要因の1つとなった[22]。
行政面では、1955年(昭和30年)の南勢町、2005年(平成17年)の南伊勢町の発足の後も町役場は五ヶ所浦に置かれたことから、町の中心としての役割を果たし続けている。
諸説ある。
2019年(令和元年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 2]。
1773年以降の人口の推移。2005年以後は国勢調査によるの推移。
1773年(安永2年) | 871人 | [6] | |
1869年(明治2年) | 539人 | [10] | |
1882年(明治15年) | 947人 | [6] | |
1980年(昭和55年) | 2,036人 | [3] | |
2005年(平成17年) | 1,724人 | [WEB 9] | |
2010年(平成22年) | 1,665人 | [WEB 10] | |
2015年(平成27年) | 1,505人 | [WEB 11] |
1773年以降の世帯数の推移。2005年以後は国勢調査によるの推移。
1773年(安永2年) | 151戸 | [6] | |
1869年(明治2年) | 97戸 | [10] | |
1882年(明治15年) | 187戸 | [6] | |
1980年(昭和55年) | 526世帯 | [3] | |
2005年(平成17年) | 597世帯 | [WEB 9] | |
2010年(平成22年) | 596世帯 | [WEB 10] | |
2015年(平成27年) | 566世帯 | [WEB 11] |
町立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[WEB 12]。
番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 南伊勢町立南勢小学校 | 南伊勢町立南勢中学校 |
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