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日本の滋賀県湖南市の町丁 ウィキペディアから
湖南市の北東部、祖父川の上流域、名神高速道路・竜王インターチェンジの南東に位置し、南で日枝町・高松町・岩根、西で蒲生郡竜王町山中、北で同町岡屋、東で同町山之上および甲賀市水口町八田に接する。南東から北西に向かって祖父川が流れ、北西から北東に国道477号、北西から南西に滋賀県道13号彦根八日市甲西線、北西から南東に滋賀県道165号春日竜王線が通過する(県道2路線はそれぞれ国道477号と重複)。以前は日枝町および高松町・西峰町・若竹町の各一部を含んだが、湖南工業団地の建設にともない離脱した。
前身の甲賀郡下田村は、1872年(明治5年)4月7日、当時の戸籍法に基づいた区の設置により甲賀郡第2区となった。甲賀郡第2区は下田村のほか、春日村・畑村(のち八田村に改称)・伴中山村・下山村・上村・下村・堂村の7村で成っていた。甲賀郡には第10区まで置かれた。滋賀県では戸籍法による区の設置後も町村の機能を残して行政運営を行っていた。
1878年(明治11年)には戸籍法制定時に設けた区を廃止。翌年の1879年(明治12年)5月16日、町村を行政組織の末端と規定する郡区町村編制法が施行。1885年(明治18年)7月1日、「連合戸長役場」が春日村に設置され、下田村・春日村・八田村・伴中山村・下山村・山村を管轄した。1889年(明治22年)4月1日の町村制施行時には、下田村は伴谷村(春日村・八田村・伴中山村・下山村・山村)から分離独立した。下田村は当初、一旦は伴谷村に入ることを了承したが、不満として独立の道を選んだ。
1953年(昭和28年)に市町村合併促進法が制定され、県甲賀地方事務所は、石部町・三雲村・岩根村・下田村の4町村の合併を提案したが、下田村は中学校建設問題、蒲生郡苗村・鏡山村との合併が視野にあることを理由に脱退した。その後、1957年(昭和32年)1月に出された県知事の勧告を受け、1958年(昭和33年)10月1日、下田村は甲西町に編入された。その後、湖南工業団地の建設により南半が大字下田より離脱し、現在に至る。
2020年(令和2年)10月1日現在(国勢調査)の世帯数と人口(国勢調査調べ)は以下の通りである[2]。
国勢調査による人口の推移。
2010年(平成22年) | 5,005人 | [5] | |
2015年(平成27年) | 4,961人 | [6] | |
2020年(令和2年) | 4,770人 | [2] |
国勢調査による世帯数の推移。
2010年(平成22年) | 1,995世帯 | [5] | |
2015年(平成27年) | 2,125世帯 | [2] | |
2020年(令和2年) | 2,143世帯 | [2] |
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7]。
明治以前からなすの栽培が盛んな土地で、「下田なす」のブランド名で知られる[8]。
下田は近江下田焼と呼ばれる焼物の産地でもあった。江戸時代中期に喜多安兵衛という村人が京都で陶芸修行し、その技術を下田に持ち帰ったことが始まり。最盛期には14戸余りが製陶に携わっていたが、明治以降、産業の近代化とともに衰退。唯一残っていた工房(梅山製陶所)も1989年に廃窯となったが、1994年に湖南市岩根にある湖南市伝統工芸館の一角で再興され、1998年には第6次滋賀県伝統的工芸品に指定されている[9][10]。
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