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イギリスの博物学者 (1858-1918) ウィキペディアから
リチャード・ゴードン・スミス(Richard Gordon Smith、1858年 - 1918年11月6日)は、イギリスの旅行者、スポーツマン(狩猟などを楽しむ人)ならびに日本に数年滞在したのをはじめ、多くの国を見聞した博物学者である。
リチャード・ゴードン・スミスは1858年にイングランド北西部のアーズウィックのバンクフィールド[1]に生まれる。イギリスの紳士で、始めの頃はフランスやノルウェー、カナダを旅行した博物学者やスポーツマン。父のジョン・ブリッドソン・スミスはチェルトナムに住む家族の九つ子の末弟で、自身の探求の才能は彼の血筋から受け継がれた[2]。 モントリオール出身で4,5歳年下[3]の妻のエセル・ニューカム(Ethel Nercomb)とは1879年8月20日に結婚[4]、後にガスペ半島に入植し、間に生まれた子供は次々に急逝したものの、一男(1888年死亡)、三女(うち一人は1892年にフランスで生まれる。三人はスミス死去の際に財産の分配相続を受けた)を授かった[5]。
妻と結婚して18年、スミスは旅に明け暮れ、家庭を顧みない人物になっていた。数々の試験にも受からず[6]、祖父の築いた財産を相続して欧州を股にかけて狩猟三昧の生活を送っていたが、妻との不仲から逃げ出すためにトーマス・クックの世界一周パック旅行を利用して来日[7]。大英博物館からの依頼も受け、生物に関する調査も兼ねていた。途中でスリランカやミャンマーなどの極東の地域で調査を行い、1898年12月24日に日本へ到着。初めての旅行による見聞に基づき、彼の8冊にも及ぶ膨大な手記を認(したた)めることになった。 スミスは自らが遭遇した奇異な信じられない出来事をまとめ、これらを「仰天日記」と呼んだ。日露戦争を皮切りに変化する以前の日本の風俗を表現したものである[6]。記述は排他的で人種差別的表現が散見され、植民地主義時代のイギリス人の日本人に対する優越感が見てとれる[6]。手記には絵師によって緻密に描かれたイラストが添えられ、当時の光景を示した写真も多く残されている。
1900年2月まで滞在した後、ニューギニアやフィジーでの探索を経てイギリスに帰国しようとするものの、7月末の出港時に夏の暑さが元で病気に罹り、香港で数日間定期船を待った末に日本へ再び戻り、しばらくの間療養をしていた[8]。1903~1905年にかけてイギリスへの航路の途中、中国やシンガポール、スリランカへ寄港。1905年末に京都を訪れ、民話や伝説を見聞したものを自らの日記に残した。さらに動植物を採集し、大英博物館に寄贈した。[9]
1908年には、ロンドンの出版社よりAncient Tales and Folklore of Japan(日本昔話民間説話集)を発行するが[10]、イギリスではさほどの評価は得られなかった。[9]序文には次のように綴られている。[2]
20年にわたる年月をかけて多くの場所で収集を行った膨大な記述からなる本書のうち、特に最後の9年にも及ぶ日本という内なる海原における漁労の成功と失敗を積み重ねた末に、学術における50もの貴重な成果を見いだしたことにより、エドウィン・レイ・ランケスター卿は「日本の文化人類学における知己としての重大な発見である」とみなしている。
1910年にはスミスの資金繰りの悪化に伴い、妻に別居を通告された。彼は脚気とマラリアを患った上で健康を害し、1915年9月をもって手記を断筆した。[9]1918年11月6日死去、神戸の外人墓地に埋葬された。訃報は日本語版の"Weekly Chronicle"にも伝えられた[11]。
スミスが発見した生物には自らの学名が付けられている。
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